29
朝の日照りは段々と力を付けて行き、僕らが陽太の家に着くころには、すっかり日中の力強さを誇っていた。
けれど、僕らは僕らを痛める太陽光線を直に浴びる前に、陽太の家に着いた。車の往来が少ない田舎の国道沿いに立ち並ぶ、木造二階建て築七十年くらいの古ぼけた陽太の家に。もちろん、家の連なりは道沿いだけじゃ無くて、陽太の家の後ろにもある。そんな家々は、空気が籠りやすい狭く小さな小路を成している。冬は雪が積もって最悪だけれど、夏は家が連なってるお陰で、涼しくて僕は好きだ。
ただ、奥に行けば行くほど坂道が増えていくことだけはよろしくない。越後平野の片隅なんだから、平らな土地であってほしい。もっとも、陽太の家の対面側は、平地と下り坂の土地だ。僕としてはそっちの方が好きだ。道もそこまで狭くないし。
僕はそんなことを思いながら軒下に立っている。隣には未だ顔を赤らめ、恋焦がれ、俯きながらもじもじと恥ずかしがる榊が。そして、正面にはあいつの大きな背中。行って帰っての長い道を歩いて汗ばんだ、どこかエロい陽太の背中が、僕らをどっしりと見つめている。
「ただいまー」
「お邪魔します」
そして、陽太は筋肉質な背中の肩甲骨をグリッと動かして、建て付けの悪いすりガラス張りの玄関戸を力強く開けた。引き戸がぶっ壊れそうな音もしたけど、昔から変わらない慣れ親しんだ騒音だから何を思うことなく陽太は家の中に、活気に満ちた口調で入って行った。
僕もそんな陽太の後に続くように、見慣れた家の中に入る。この家は、もう一つの実家のようで安心する。
五足の靴を横に並べことが限界の田舎の家にしては狭めの玄関。そんな玄関に比例しない奥行きのある広い家。古臭い木の香りと、クリーム色の砂壁のざらつき、仏前であげてるであろう線香の香りが懐かしい。
心の中に宿る灰色の気分を打ち消す程、心地良い哀愁を感じながら、僕は陽太の後の続く様に靴を脱いで、陽太の家に久しぶりに上がる。黒ずんだ木の床は僕が片足を乗っけるだけで、軋む音を鳴らした。アパートで暮らしている僕にとって、この木が軋む音は懐かしさの象徴だ。あのアパートや学校じゃ、この年代物の木材が織り成す音を聞くことは出来ないからね。古巣じゃないと聞けない唯一無二の音だ。どれだけ精巧に造られた音楽よりも、感動できる大好きな音楽だ。
しみじみと胸に温かい感情を抱く。
けれど、その感情を大切にする必要は無い。今、僕に必要な感情は、灰色の感情だからね。自分を律するためにも、思い出を、懐かしさを汚す感情が僕には必要なんだ。だから、貴い感情はそここに、僕は心を灰にする。瞬きを一回すれば、僕の中の心地よい感情は消え失せる。いや、無理やり汚せる。そして、僕は見慣れた家の中、陽太の背中を追いかけて、狭く短い廊下を歩いて、廊下を兼ねている広め空間に出た。右手には台所兼食卓、左手には障子で閉ざされた和室、そのまた奥には襖で閉じられた仏壇のある書院造の部屋、そして正面には二階に上がるための一段一段が幅広の階段。そんな家を構成する様々な要素が混在する謎空間に出る。ちなみに、和室横の通路に大きめのガラス戸が二枚あるから玄関が狭く、小さくてもそれなりに明るい。
そんな場所に、見慣れた砂壁の空間に僕らは出た。
ここに出ると同時に、陽太はくるりと身体を翻し、僕の方を間抜けた表情で見た。突飛な陽太の行動に、僕は少し驚いた。けれど、間抜けな陽太の表情に笑いそうにもなった。
「そう言えば、杏子が家に来るのも久々だ」
「久しいって言うほどでもないけどね。最期に来たのが、去年の十二月だから七か月ぶりだよ。まあ、そう考えれば久々だね」
間抜けた表情の陽太は、その表情とは釣り合わない口調でそんなことを言った。温度差のある陽太に、僕の灰色は一瞬元の懐かしさを取り戻して、僕の顔を綻ばせた。
「そうそう、いっつも朝起こしに来てもらってたからな。懐かしいぜ、毎朝毎朝、母ちゃんと杏子に怒られながら中学に行ってた日々が」
それから、陽太は間抜けた顔をくしゃっと崩しながら、懐っこい笑みを浮かべた。
僕もこれに呼応するように、クスリと笑って見せた。
「うん、懐かしいね。当時は辟易としていた騒がしさも、一人暮らしの今となっては、恋しいよ。もっとも、恋しいと言っても毎日毎日、お前を迎えに行くのは御免被るけどね。お前の朝練の時間に合わせて、坂の上の中学に行くことがどれだけ辛かったか……」
「悪かったよ。けど、早起きは三文の徳だ。それに、きっとその苦行のおかげで何かしらの耐性もついただろ?」
「そんなのは、後から誰でも言えることだよ」
自分で決めた僕の灰色は、どうやら大切な思い出の前では無力みたいだ。陽太と僕が織り成した日々の輝かしく、土臭い青春の色と真正面から向き合えば、人工的な灰色の覚悟は漂白されてしまう。そして、僕はそんな下らない覚悟のみすぼらしい残骸を捨てて、ありのままの自分を出す。
自然体の僕は、普通に笑えるし、普通に会話できる。体裁を取り繕うための下手な演技をすることなんてしなくて良い。気がとてつもなく楽だ。まあ、問題を先送りにするだけの話なんだけどさ……。
いや、そんな空気を台無しにすることなんて考えなくて良い。僕は自分に徹して、状況を楽しめばいいんだ。せっかく、くだらない面倒事から解放されているんだからさ。ほんの少しの間でも、瞬きの間でも、僕は心から楽しめる状況を快く味わおう。
「ごめんって……。まあ、俺も言い訳が過ぎたよ」
「分かればいいんだよ。とりあえず、荷物を置きたいから部屋を案内してくれよ。僕も杏子も普段よりも早く起きて、そこそこ歩いたからくたびれてるんだよ。体力の有り余る陽太じゃ分からないかもしれないけどね」
僕はちょっとした皮肉を込めた言葉を少し弱った陽太にかける。ユーモアも込めてね。こいつも、わざとらしくがっくりと肩を落とす白々しい弱り方なんだから、その応酬さ。
「相変わらずの皮肉屋だ。昔から変わらない」
「変わらないよ。多分、これからもずっとね」
僕の性分を良く知る陽太は、皮肉よりもユーモアを受け取ってくれた。そして、クスッと笑う。僕も皮肉を抑えて、同じような笑みを浮かべる。
「それじゃ、変わらず屋の杏子には家に代々伝わる変わらない和室に案内しようか。お前にとっては、目新しく無い和室にね」
「ああ、よろしく頼むよ」
さあ、僕らの抱える煩わしい荷物は適当な場所におこう。そして、懐かしい日々に立ち戻ろう。僅かな間の、そのまた僅かな時間が僕にとって心やすめだ。出来るときに休養をとって、問題に、僕と先輩とあの憑き物の問題を立ち向かうんだ。ここ最近、随分と心が不安定だったから、ゆっくり、ほんの少しだけ悩み事を忘れよう。
本当に少しでも、僕の周囲を取り囲む重大な問題を忘れられればそれで良いんだ。この頃ストレスのせいか、妙に最近抜け毛が多いし、白髪も増えた。しかも最悪なことに、悪夢を見るようになった。だらしなく生やしっぱなしの髭とぼさぼさの髪、濃すぎる目元のクマ、病的にやつれた、和服を着た僕によく似たそれなりに年若い男が僕のことをジッと見つめてくる悪夢を。そいつは、口を小さく動かし続けて、僕に何かを言ってくるようだけれど、声が小さすぎて何も聞こえない。それだから、より不気味なんだ。あの病的に濁った赤黒い目なんて、トラウマになる。それに、あの悪夢を見て、起きた日の朝は大抵酷い頭痛に悩まされる。まだ、歯車じゃないだけマシかもしれないけどね。
精神衰弱を疑いたくは無いけど、今の僕の精神状態は芳しく無いことは確かだ。それだから、夏のカラッと乾き切った爽やかな朝、そこで僕は何も考えずに休みたい。ほんの十分でも良いから。
僕は休暇の安寧を求めるため、案内されるまでもなく、障子で閉ざされた和室に入ろうと、足を動かした。ついでに、昔ばあちゃんなお世話になったこいつのご先祖さまに挨拶しよう。
「あ、そう言えば榊は?」
「居なかったの!?」
ただ、どうやら僕らは僕らじゃなかったらしい。お陰で朝から大きな声を漏らしてしまった。陽太の両親が共働きで本当に良かった。じゃなかったら、僕は恥ずかしさのために赤面しなきゃならなかった。
いや、そんなことに安堵するんじゃなくて、恋する乙女の存在をすっかり居るものだと思ってたことを心配しなきゃだ。もうろくするには、早すぎるから。
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