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プラットホームに降りるとすぐに夏の匂いが鼻腔をくすぐった。夏の朝のさっぱりとした暑さの中に内包された強烈な緑の匂いが僕らを襲った。それと、けたたましい蝉の鳴き声も。都会も田舎も蝉の元気は変わらないみたいだ。朝から晩まで、その生命を燃やしている賢明な姿には感嘆の声が漏れるよ。
「ほら、行くわよ。電車も出るみたいだし、何時までもホームでダラダラしてちゃ時間がもったいないわよ。それにここから、歩くんでしょ? なら、まだ太陽が昇りきってないうちに早く行きましょう。ほらほら」
鬱蒼と灌木が生い茂るなだらかな斜面を側面に向け、僕らの降りた電車は進行方向目掛けて加速していった。どうやら、降りたのは僕ら二人だけだったらしい。ほとんど誰も乗っていないような電車で、しかもこんな田舎も田舎の町に降りる人なんて珍しいからこれもまた驚くことじゃない。大体、乗客が大勢居ようともここで降りる人なんてそんなに居ない。多分、鉄道会社としては止まらない方が良い駅なのかもしれない。でも、利用者が居るってことでお情けで止まってくれているんだと思う。
まあ、こんな風に僕に関係ない鉄道会社についてあれこれ考えている僕だけど、今は榊に背中を押されて、せかせかと歩かされている。熱された粗いコンクリートに身体をダイブさせない様にバランスを取りながら、僕は榊に反論することも無く、小さな駅の小さな窓口に勤務しているたった一人の初老で白髪が良く似合うダンディな駅員に、二百円の切符を渡して、せかせかと駅のプラットホームから出て行く。
余裕があるみたいに俯瞰して言っているけど、実際はそんなことなくて、榊に対する言葉が出なかったのはバランスをとって歩くことが精一杯だったらだ。それと、女の子に力負けするような自分の身の細さに絶望したって言うのもあるけど。
自身に悔しさと虚しさを抱きながら、僕らは駅前の緑豊かな一つのベンチと一機の自販機が映える小さな小さな広場へ、爽やかに照りつける太陽の下へ、四段程度の低い階段を不確かな足取りで下りて出た。小さな広場、二車線の延々と真っ直ぐ続く車道。その脇を固める二つの食堂、一つの和菓子屋、一つのコンビニ。あと、これらを包括して駅前は反映するって言う常識の体裁を保っている和風の民家の数々。ごちゃごちゃして無くて、こじんまりとしていて、僕は好きだ。
ただ、そんな関心を他所に僕は榊に小突き回された勢い余って、コケそうになった。あと、いきなり運動したからか一粒の汗が頬を伝って垂れてきた。それに若干、ホントに若干動悸がする。日ごろから運動してないって言うのは、こんなことを招くんだね。もっとも、悪影響を知っててもそれを改善することは無いけどね。三日坊主は仕方ないさ。それに、自分のしたくないことはあんまりしたくないんだ。数学とかね。
「嘘、あんた今ので息が上がったの?」
内向的な言い訳をしている僕に見かねたのか、榊は暑い夏なのにもかかわらず底冷えするような声色でもってして僕に失望の確認をしてきた。確かにさっき足取りを誤って転びそうになったけどさ。それは勢い余ってであって、決して体力が無くて地面を足を着けることが出来なかったとか情けない理由じゃないんだからさ。
ただ、事実と違うことを本気で指摘されたとしてもここでキレちゃいけない。間違っても苛立ちを見せちゃいけない。一で苛立ちを見せたら、あいつ百で返してくるからだ。だから、平身低頭、恭しく、やんわりと言葉を変えそう。
心持ちが反映する引きつった笑いが虚しいよ。虚しさに虚しさ、それと僕のことを塵芥のように見上げる絶対零度の視線が加算されると、こんな惨めな気分になるんだなあ……。
「流石に違うよ。僕の体力はそんなミジンコ並じゃないよ。月並みな体力じゃないけどさ。だから、どうかその目を止めてくれないか? その憐みと軽蔑を半分ずつぶち込んだような目をさ」
「……」
「無言も止めてはくれないかい? 段々と悲しみが増えていくからさ」
惨めな気分で発した柔和な言葉だったけれど、どうやら榊の失望を取り消すことは出来なかったみたいだ。これもまた惨めだ。惨めに惨めが重なると呆れになるんだな。
もしかして僕は、気分の変化に対する公式を生む天才なのかもしれないね。数学は出来なくても、情緒の数学は出来るみたいだ。いや、これは自惚れだ。だって、人の情緒の閾値なんて各々違うんだからさ。
ともかく、こんなどうでも良いことを頭に浮かべていても悪戯に時間が過ぎるだけだ。それに榊自体、今も冷たい視線を僕に投げかけてくるのは、僕を面白がってるからだ。言わなくても、こいつの冷たさが演技だってことは分かってるさ。友達だし。
だから、この瞬間でこのお道化も終わるって言うことも分かってる。これは自惚れじゃない。確かに紡いできた絆が成せることだからね。僕はそれを信じている。それだから、これは虚飾じゃない。確かなことさ。
「それじゃあ、ふざけてないで行こうかしらね」
「榊に言われたくないんだけどなあ」
「でも、楽しめたでしょ?」
ほら、言った通りだ。
榊はさっきまでの冷たさを爽やかな風に乗せて、取り払って、悪戯成功と言わんばかりの屈託のない微笑みを僕に向けてきた。それを陽太に見せれば、あいつも惚れると思うんだけどなあ。あいつ、単純な人間だからさ。もっとも、人の恋心を憶測するなんて言うのは無粋極まりないことだし、それで恋なんて言う何時も打算的な人類が見せる純白無垢な本能的衝動を汚してしまったら、目も当てられないことだ。
だから、僕のおこがましいお節介なんて心の中に収めておこう。それとあんまり面白くない冗談には、苦笑いを返そう。スリリングと惨めさの中に、確かに微笑はあったけれどそれは悲しい微笑だったらかね。だから、八割二分の反応がふさわしい。
「楽しめたというよりも惨めになったというか何というか……」
「はっきりしないさいよ。あと、もう少し太った方が良いわよ。流石に私の力に押し負けるような体重じゃ駄目よ。男とか女とかそういう問題じゃなくて、健康か不健康かの問題よ」
「そうだね。もっと食べるようにするよ。とかく、早く行こう。これ以上太陽が昇ると足取りが重くなりすぎるから」
白黒はっきりしない僕の返答に榊は若干苛立ちながらも、僕を心配してくれた。飴と鞭かな? 少し言い方が大層な気もするけれど、多分これが一番、今の榊に合ってると思う。
けれど、そんな優しくも厳しい人格者の理性を一瞬で吹き飛ばすことも不思議なことに起きるらしい。僕らが良し行こうと、歩みを始めた時、僕らの進行方向、つまり車道脇の歩道から見慣れた人、美丈夫の伊達男の姿が見えた。そいつは普段通りの元気を僕らに向けた。
「すげえ、時間ピッタリだ!」
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