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トラギエーディヤと恋  作者: 鍋谷葵
発見の夏休み
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24/41

23

 走りやすいと言っても、外に出てしまえば猛暑が僕の体を襲ってくる。太陽光線が、こもりがちな僕の白い肌を焼き尽くさんと降り注ぐ。丁度、陰っているこの場所に午後の太陽が顔を出したらしい。頼むから、太陽さん、ここじゃなくてもっと光を必要としている場所を照らしてあげてください。お願いします。

 天に対して適当過ぎるおふざけのお祈りをしても、今のこの状況が変わることは無い。昔の人が人柱だとかを捧げても変わることの無い天のことなんだから、こんなので変わったら昔の人が可哀そうだ。歴史の犠牲者の冒涜だ。

 いや、まあ昔と違って今は暑いってだけだから祈ることすら筋違いだと思う。とりあえず、あの緑塗れの林道に入ってしまえば、竹の影が涼しさを作ってくれているんだからさ。緑の匂いは未だに鼻について仕方が無いけれど、慣れてしまえばどうってことは無い。人間の嗅覚なんて鈍感なんだからさ。慣れてしまおう……。


「うわ、蜘蛛だ」


 流石の僕も細い苔むしたの林道を走る気にはなれなかった。湿って、足を踏み込まず走れば、転んでしまいそうな危ない道を颯爽と走り抜けることなんていうリスキーなことを僕は出来ない。怪我をしたら、楽しい楽しい夏の思い出の予定が滅茶苦茶になってしまう。向こうに行って足が使えないなんて言うのは、お笑い草だ。というよりも、向こうは歩かないと色々なところに行けないからね。自転車も然りだ。

 だから気を付けて歩こうと思った矢先のデカい蜘蛛だ。名前は知らいないけど、腹に黄色と黒の島猛夜が付いている。しかもこの蜘蛛は丁度、僕の行く先を塞ぐように道を挟む竹と竹の間に大きな巣を器用に作っている。虻だとか蚊とかじゃないから良いけれど、やっぱりこの長くそれぞれ別々に動く八本足を見るとゾッとする。異形の姿だからね。

 そう言えば、あいつの本当の姿はどんななんだろうか? あやかしの類なんだから、この蜘蛛みたいな異形なのか? 牛鬼だとかそんな姿なのか? ともかく、僕には想像できない。なら、想像しない方が良い。憶測の真実を胸に抱くよりは、無知なままで真実を楽しみにしていた方が風流だ。変に期待してがっかりするくらいならね。

 何もかもは想像通り行く通りなんてない。なら、今やるべきことをやってしまった方が良い。そう、僕が今すべきことはこの蜘蛛の巣を払うことだ。そしてあの因縁の場所に行くことだ。多分、きっと、確証は無いけど先輩はあそこに居る気がする。もっとも、先輩というよりもあいつなんだけどさ。

 額に垂れる汗を腕で拭って、腰をかがめる。こんな運動で目に汗が入ったら最悪だ。そして、何か手頃な棒が無いか……、おっ、あった。

 先輩が見つけた赤いバラの傍に落ちている僕の腕と同じ程度の長さの枯れた竹の枝を見つけた。これを逃してはならない。ただ、酷く頼りなさそうなのが傷だけど。

 ここが樹林だったら、どれほど良かったか。こんな細くて、しなって、すっかすかの枝じゃなくて、もう少し頼りのある木の枝が欲しかった。無いものをねだっても仕方ない。これで、我慢して、これであの巣を追っ払おう。益虫なのが心を痛ませるけど、その姿形に進化を遂げてしまった諸々を恨んでくれ。


「南無三!」


 声を上げて、僕は一心不乱に灰色の竹の枝を蜘蛛の巣目掛けて振った。ブンブンと音はならなかったけれど、もしこれが丈夫な木の枝だったらそんな音が鳴ったと思う。兎にも角にも僕は目をつむって、左右上下あちらこちらに降り続けること数秒。

 目を開けてみると、巣は見事に払いきれていた。先は明るい! さてさて、こうして道も開けたことだし先に進もう。こんな蜘蛛の巣に塗れた竹の枝はそこらへんに捨てて。肥やしになってください。

 ああ、でも、待った。あの綺麗なバラに当たっちゃ、先輩が悲しむ。それなら、ここに置いておこう。何でもかんでも矢鱈滅多に放って置くのは良くないからね。

 足元に蜘蛛巣塗れのべたつく竹の枝を落として、僕は道なりに進む。そう言えば、あの蜘蛛どこに落ちたんだろう? それとも竹藪の中に入って行ったのか? もしかしたら僕の靴の中に居るのかも知れない。僕の靴の中に居たらすこぶる恐怖だけれども、僕はあの蜘蛛の巣を壊してしまった。だから、しょうがないことだ。僕はその恐怖を享受しよう。

 目に見えない蜘蛛のことを思いながら、僕は大股で、先を急ぐようにして歩く。竹林が開け、光が差し込むところが見えてきた。光り輝くオレンジ色の光が目に入る。やっぱり、こうして実際に見てみるとあんな憑き物が封印されていたとは思えないほど神秘的だ。いや、神秘的だからこそ不気味なのかも知れない。

 この世のモノとは思えない光を正面に受けて、眩しく目をすぼめながら僕はあのお社がある場所に到着した。相変わらずここだけ、不気味なくらい開けている。竹がこの空間に侵入してくるのを拒んでいるみたいだ。

 でも、それは自然の理に反していることだ。あっちゃいけないことだ。すくすく育つことで有名な竹が、根を張ることなく悠々と自身の子孫を残せる場所を見渡しているなんて言うのはすこぶる不健全だ。


「ああ、居た。やっぱり、ここに居たんだ」


 開いた額に汗を浮かばせながらどうでも良いことに考えを張り巡らしていた僕だったけれど、そんな余計な思考を吹き飛ばす魅力的な人の後ろ姿が、視線の先に見えた。先輩こと憑き物は、小さな扉が開いたままのお社の前に立っている。

 遠目で見ていると、何かあいつは哀愁を感じているような雰囲気だ。やっぱり、懐かしくなってここに来たのか?

 違う。良くない。こんな場所で止まって考えるんじゃなくて、直接聞けばいいだけの話だ。あいつが教えてくれるかどうかは分からないけれど、それでも何か適当なことくらい言ってくれるだろう。それで僕の疑問が晴れる訳じゃないけれど、何も分からないよりも分からないことが分かった方が良い。

 理屈っぽくて、頭がこんがらがって来た。きっとこれも、僕の本能があいつと会話するのを恥ずかしがっているからだ。じゃ無ければ、即決即断の行動が取れるはずなんだから。けれども、僕の理性は頭の中で適当な理由付けをしないとまともに、身体を動かしてくれない。

 難儀な身体と凝り固まった頭に鞭を打って、何とか僕は理屈無しで足を動かす。ぎこちない上に、手汗が酷い。出したデコにも汗が、続々と浮かび上がってくる。けれど、生理的拒絶の反応に負けて動かない訳にはいかない。

 動け、動け、僕の身体。働け、働け、僕の頭。

 良かった、僕の身体は拒絶に負けずに動いてくれるらしい。しかも、ぎこちなさも僅かばかりだ。これが覚悟の差っていうやつか? 僕に足りなかった覚悟は想像以上の作用をもたらすんだな。これも経験値だな。

 苔生してよく滑る割れた石畳の上を僕は、歩いてあいつに近づいて行く。おんぼろの鳥居が目の前だ。何時崩れるのか分からないこの鳥居の下を通るのは、中々怖いけれど他の道を歩いて虫に噛まれるのも嫌だ。天秤からしてみれば釣り合っていないことは明白だ。けれど、僕にとっては生きている間の不快感の方が嫌だから、命の天秤が持つ分銅なんてどうでも良い。僕は僕なりの基準で、命を量るさ。

 量って鳥居の下を通り過ぎると、僕とあいつの距離がもう数歩の距離まで近づいた。今日まで話すことを拒絶していた僕の理性は、ついさっき覚悟で抑え込んだはずの緊張を再び僕にもたらした。手汗が再び僕の掌に浮かんできた。

 どうしてだ、理性! ふざけるのも大概にしてくれ! 人間が人間たる理由も現状においては邪魔だ! 僕はただあいつと話したいだけなんだ! それを邪魔する障壁なんて塵芥だ!


 けれど、僕の理性に対する激昂はすぐさま抑えられた。それは今まで聞こえなかった、あいつの歌声によってだ。近づくまで分からなかったけど、あいつは小さな声で小さな歌を意気揚々と綺麗な歌っていた。歌声はあいつの神秘性と相まって、ギリシアのミューズのように見えたし、聞こえた。

 僕の全ての意識はあいつの歌声に吸い込まれて、全感覚を奪われてしてしまった。鼓膜が喜び、双眸はあいつがオレンジ色の煌びやかで温かみのある陽光を浴びながらさりげなく歌う美しい姿を一瞬たりとも逃すまいと見開いた。透き通る歌声は、他の音をもかき消した。人の理性を消すだけでは飽き足らずに、酷くうるさい蝉の鳴き声すらも透明の内に飲み込んでしまった。

 理性はあいつの、いや、地上に降り立ったエラトに飲み込まれてしまった。すっかり意識は、風に白銀の髪をなびかせながら一切の邪念を払いきった女神を捉えることだけに躍起になっている。今現在、こうしてあいつのことを捉えている意識が残っていることが、奇跡なくらいだ。もしかしたら、あいつの正体はハーピーなのかもしれない。

 いいや、歌ってる言語はドイツ語だからそれは無いか……。それにこの歌も親父が昔歌っていた歌と同じだ。親父は古いドイツ映画の歌って言っていた。

 というか、あいつドイツ語話せるんだ。ロシア語も読めてドイツ語も話せるなんて、博学な憑き物も居たもんだ。


「……おや、そんなところで儂の独唱を聞いていたのか。ふふふ、緊張しいにも程があるな。あの日から随分とよそよそしくなったが、そこまで臆病になったとはね。少年、いくら何でも甲斐性が無さすぎるよ」


 感動は僕に勘付いたあいつが歌うのを止め、振り返り、こちらを見たことによって打ち消された。その表情たるや、悪魔の様なモノだ。口角を上げられるだけ上げて、赤き瞳に宿る光は人を嘲る時の光だった。そして、そんな表情から語られる言葉も僕をからかう言葉だ。

 だけど、こいつにばかり言わせては置けない。何かしら反抗の言葉を発そう。例え、無駄でもやるとやらないとじゃ訳が違うからね。


「黙るか、歌うかにしてください。せっかく、あなたの歌声を聞き言ってたんですから歌っててください。ほんの一瞬、あなたのことを女神とすら思ってたんですから」


「ふふふ、そうかい。なら、歌ってあげよう。たった一度、再び訪れることの無い光と愛を歌う歌をね」


 僕の言葉に対する当てつけか、こいつは再び歌い始めた。

 やっぱり、聞き惚れるくらい歌が上手い。

ご覧いただきありがとうございます。

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