22
榊の言葉につられて、いや脅されて僕は結局旧校舎までノコノコやってきた。
ちなみに榊は気を遣って、先に帰って行った。その後ろ姿は心底、夏休みの予定が楽しそうだった。確かに想う人と一緒に居られるっていうのは幸せだ。勇気を出して会いに行かなくても済むんだから。その環境に身を置いていれば、楽しいひと時を何の犠牲も無しに過ごせるからね。もちろん、僕は榊を非難するつもりは無い。自分だけノーリスクで陽太とのひと時を満喫する癖に、僕には意気地に固まってしまっている気まずさの衣を纏ったまま先輩と話せって言うことを糾弾することは無いさ。だって、榊が普段犠牲を払っている中、僕は部活とかいう大義名分で先輩とのやり取りを楽しんでいるんだからさ。
何の苛立ちも無いし、何にも腹が立たない。けれど、強制的にするっていうのは違うと思うんだ。それだけは、榊にも分かってもらいたい。大体僕の弱気が悪いんだけどね。
「今日こそは先輩と話せたらいいな。神頼みっていうのは、酷く情けないことだけどさ」
日々あの憑き物と会い続け、旧校舎を出て先輩に戻った時、何時も何時も発生するあの沈黙も全部僕の弱腰のせいだ。分かっているさ。けれど、理解していても僕が一方的に先輩との間に築き上げてしまった壁は厚く、頑丈で打ち壊すことが出来ない。
それだのに僕は、先輩のことが恋しくてならない。話したくて仕方が無いんだ。一方的で想像を絶する気持ち悪さだっていうことは分かっている。自分で築いたのに、それを不要だというんだ。しかも自分から、誰に言われたわけでも無く自分の心がそう言っているんだ。臆病なバラは自分の体を弱い棘で守って満足しているのと一緒だ。小さな王子様は、それを健気だと言ってくれたけど、それはバラが大切な女性だからだ。男の健気なんて毒にも薬にもならない。きっと、操舵主がゴネたら酷く気味悪がるかバラと一緒でヘンな奴だって思うはずだ。それか慰めてくれるか。
無垢な王子様が居たらどれほど良いことか。残念なことに、僕には頼れる王子様は居ない。居るとすれば、意地悪で魔女みたいに怖い友達と異常なまでに察しの悪い親友だ。一緒に過ごす分には何の問題も無いけれど、こういう時に頼れない。というよりも、怖い友達は僕をここに追いやって今こんな複雑な自己嫌悪を僕に、抱かせたんだから頼るもクソも無い。
悪友の評価なんて、今はどうでも良いや。今はその悪友に、何かしら会話をして来いと釘を刺されているんだからそっちを優先しなきゃならない。罰ゲームかな? いや、その発想自体が駄目なんだ。今は榊に発破を掛けられた良いタイミングだと思わなきゃ。
うじうじと悩んでいても、状況は良くならない。なら、自分で行動しないとだ。若干、暑さの和らいだこの放課後に気まずさの蹴りをつけよう。つけられたらいいな、つけたいな、つけてほしいなあ……。
「はあ……」
僕の気概を後押しする様に生温かい青い風が吹いた。髪はなびいて、長い黒毛が陽の光に照らされて眩しい。それから風は、旧校舎側翼の全開の窓に吸い込まれていき、不気味な音を立てた。何だか不穏な気分だ。けれど、空は青々として、太陽は燦々と輝いている。より僕を鬱屈とさせる。
鬱々としていても仕方が無い。腹を決めて、さっさと行こう。いつもの道なんだから。変わらず気まずい道なんだから。そう考えると憂鬱だあ。
心持ちの重い僕は、毎日通っている土の踏みしめてゆっくりと旧校舎に向かう。相変わらず植物の香りが強い。だけどリラックスはしない。今後、植物の香りがするアロマだとか信じない様にしよう。買ったことないけど、僕個人の主観的な認識だと植物の匂いなんて鬱陶しいだけだ。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
文芸部の部室には誰も居なかった。
確実に居るはずの先輩も居なかった。普段先輩が座っているソファには、昨日あいつが読んでいた本が適当に開かれて投げ出され、風にページがめくられ、持って来たパソコンは映像媒体と共にやっぱりソファの上に投げ出されている。それだけでは飽き足らず、机上には相変わらず片付かないお菓子と空袋、そしてすっからかんのコーヒーポットが転がっている。いや、コーヒーポットは最近使ってないから汚くは無いんだけどさ。あいつ、苦いからコーヒーが嫌いで紅茶しか飲まないからな。僕としては、コーヒーの方が好きだから早く苦みに慣れて欲しい。
憑き物に対する願望を心の中で発してみた。だけどそんなものこの場に居ないあいつに伝わるはず無く、結局は虚しく心の暗渠に閉じ込められる。これが伝わって叶ってくれれば、割とあいつとの共生も捗るんだけどな……。
愚痴もここで終わりにしよう。とりあえず、この読みかけの本に栞を挟んで、それから空袋だのなんだのを捨てて、それなりに綺麗にしておこう。
「結局、あいつは誰なんだろう? 婆ちゃんと何かしらの関係があると思うけれど、一体誰なんだ? 少なくとも僕の人生に関わっている人だと思う。まあ、それもこれもあっちに行けば解決することかもしれない。かもかも、ばっかりで嫌になるな……」
憶測ばかりの自分の言動に、嫌気がさして溜息が出る。体にはやる気の無さが満ちる。けれど、それでも現実から目を逸らすために僕の体は多忙へと動き続ける。
手を動かせ、頭を動かせ、体を動かせ、汗を掛け。まるでどこかの国の労働歌の様な言葉を勇ましげなメロディーに沿って立て続けに、頭の中に並べて僕はせっせと散らかった物を片付けていく。空のお菓子の袋はゴミ箱に、個包装されている菓子は元入っていた袋に詰めて、なるべく外気と日光に当たらない様に戸棚に入れておこう。多分、夏休み明けにはカビてるか、湿気てるか、でろでろに溶けてるか、口にできない味わいになっていると思う。波阿弥陀仏。それか、嫌がらせにあのお社に置いておこうか? いや、止めておこう。そんなことしたって何にもならない。虫が湧くだろうし。
さて、そんなことはどうだって良いんだ。手を動かせ、頭を動かせ、体を動かせ、汗を掛け。手を動かせ、頭を動かせ、体を動かせ、汗を掛け……。
「わあお、すっごい綺麗になった。いつの間にか箒を取り出して掃き掃除したり、蜘蛛の巣取りで高い所の埃や巣を払ったりしたりした甲斐があったねえ……。いつの間にか、三十分くらい経ってるし」
腰に右手を当てながら、左腕で額の汗を拭う。
ぺたり額にくっつく前髪が左にずれた。汗ばむ肌にくっつく髪の毛が気持ち悪い。シャワーでも浴びたい気分だけど、確かここのシャワー室って撤去されてたはずなんだよなあ。タオル持ってきてないから、どの道シャワー浴びたところで体を拭くことが出来ないんだから願いが叶ったところで、どうにもならないんだけどさ。
さあ、どうしたことか? 今ここで断髪式でやってやろうかな。榊が言ってた通りになるのが、癪に障るけど。流石にそれは冗談だ。どうして僕が自分のアイデンティティーを捨てなきゃならないんだよ!
独りでに怒って僕も朦朧し始めたのか? じゃあ、髪の結び方を変えよう。せめて前髪が、額にくっつかない様にしよう。とりあえずまだ髪がデコにくっついて気持ち悪い。生温かい風に当たって、額がすっきりするのかどうなのかは分からないけど、少しくらいはべたつきも収まる気がする。
全然リラックスできない青い風に当たるために、僕は埃と蜘蛛の巣と落ち葉を払った窓へと近づいた。若干涼しい風が僕に吹く。あまり匂いは強くない。その代わり西に傾く日の発する光は、衰えることなく燦々と降り注ぐ。じりじりと額を焦がすような暑さだ。けれど、今の僕にとってはこっちの方が良い。例え、真鍮の取っ手に反射する光が僕の瞳に入ろうともね。普通に眩しい。
視界中にチカチカと赤やら白やらの半てんのが浮かぶ中、僕は髪を解いた。音は無かったけれど、はらりと黒い一本一本細かな輝きが眩い。そして若干重苦しさを感じながらも、僕は前髪を額から両手で思いっきり持ち上げた。さしずめオールバックである。そして、前髪を後ろに持っていき普段よりも高い位置で髪を結んだ。
「うん、割とさっぱりしたかな? やっぱり、前髪って邪魔かもしれない。どうせ秋になったら欲しがると思うんだけど」
いつもより男らしくなったかもしれない僕からは、自然な笑みが漏れだした。普段と違う僕は僕からしても目新しい。もっとも、窓の反射でしか見えないから明確な僕が見えている訳じゃ無いんだけどね。だけど満足だ。こんな髪型にするのは初めてだからね。
初めての僕は僕だった。けれどいつもと違う僕。鏡の向こうは同じ僕だけど、違う僕でもある。自分自身の影法師は素敵だ。
「あ、先輩どこ行った?」
新しい僕に満足している僕だったけれど、僕がここに来た理由は掃除だとか新しい自分を見つけるとかそう言うことじゃない。僕の本来の目的は、先輩と話すことだ。玄関にも靴は無かった。ということは、外に居るっていことだ。
けれど、検討が付かない。僕は窓辺に腰を下ろして外に向かって背をのけぞる。随分と危険なことをしているけど、これが今一番リラックスできる姿勢だからしょうがない。腰を曲げて、背中を曲げての作業だったから背を伸ばさなきゃならない。
「はあ……」
危険な姿勢から見える上下さかさまの景色が、僕に何か特別な感情を与えることは無かった。相変わらず蝉の鳴き声はうるさいし、湿った暑さは肌について離れない。でも、この真逆の刺激が僕に直感のひらめきを与えた。木を隠すなら森の中っていうことわざの通り、逆転の発想だ。
新たなる住処を得た獣は、懐かしさ故に元居た場所に帰るのかもしれない。何時までも目新しさが残る訳じゃ無い。目新しさは直ぐに古ぼける。けれど、懐かしさは何時までも心の中に残る。呪詛のように。
だから、あいつは、自分が元居た所に行ったんじゃないか?
突飛の無い考えだけれども、これくらいしか僕の頭じゃ思い付かない。それに直感が言ってることだ、きっとそこにあいつは居るはずだ。あの林の中にある開けたお社の場所に。
「じゃあ行こうか。気は、少し重いけれど」
思い立ったが吉日、けれど今は凶日。
けれど、やらなきゃならない。
どこかの誰かからの脅迫と綺麗事の使命感に駆られた僕は窓辺から体を起こして、普段の世界に戻ると走ってお社へと向かった。
前髪は散ることなく、随分と走りやすい。
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