18
あの日から僕の時間は緩やかに過ぎて行った。
いや、実際は緩やかに過ぎた訳じゃ無い。僕はゆっくりと普段と変わらない先輩との日々、椿さんとの日々、陽太と榊との日々、クラスメイトとの日々が過ごすことは出来なかった。ただ、本当にぎくしゃくした関係は先輩に関することだけだから不幸ってほどでも無い。
ただ、ひたすらに心労が続くだけなんだから……。
けど、僕が内心ナーバスになっていても学校は普段通りに回り続ける。個人の感情なんて集団生活から見てらどうってことない塵と同じなんだ。だからこそ、今日も今日とでいつも通りの学校だ。
日差しが厳しくて、蒸し暑くて、教室は涼しくて、隣に榊、前に陽太、委員長が居て、先輩が居て、机の上には小説が置かれている普段通りの学校だ。でも、今日は終業式だから少しだけ胸が躍る。長い校長の話を聞き終われば夏休みなんだから。クラスの雰囲気も何処か浮世立っている。皆、心は遥かなる夏休みへと向けられているんだ。もちろん、それは僕も例外じゃない。カーテンでろ過されたクリーム色の日光を浴びながら、夏休みに向けて腕白な活気が満ちている。
でも、そんな活気を台無しにするくらいの心労はあるんですけどね。せっかく晴々とした日が続いているのに、心は陰るばっかりだ。もっとも、陰りは贅沢な陰りだ。胸が締め付けられるタイプの、この要因を作った悩める人と会うと酷く気まずくなるタイプの他人から見たら、心労とは感じられない贅沢な陰りに過ぎない。だから、何と言うか、そんなに思い悩むことじゃないと思う……。あくまで一般的に見ればの話だけど。
榊に相談すべきかな? 何でも相談に乗ってくれるって言ってたし。筋の通ってる榊だ、きっとこの悩みも素直に聞いてくれるだろう。間違いなくからかいの一言を掛けられると思うけど。
「はあ……」
一時間目の数学の疲労と悩みで、ついつい溜息が出てしまう。そしてそのまま疲れに身を任せてぐでっと、目を閉じて、机に突っ伏してしまう。
普段ならなんてことないのに。いや、ここ最近はずっとこんな感じだ。リラックスできてない時間がずっと続いてる。本当に嫌だ。このまま行くと気が病みそうだ。
全く、本当に悩むべきところは経験じゃなくて、あの時憑き物が口に出した僕の婆ちゃんの名前なのに。悩むべき本題は、恥じらう心じゃない。何だか酷くややこしくなってきている憑き物との関係性だ。
先輩に憑りついたのは偶然だと言っても良い。大体、偶然じゃなかったら僕の手に余る案件だ。もしもあんなことが必然的なことだったとしたら、何かしら先輩の家系か人間関係に呪いみたいな超常的な現象が掛かってるはずだ。メルヘンチックなことを考えているようだけど、憑き物が居るんだから呪いあるはずだ。最初っから否定するのは何事も良くない。だからこそ、僕の手に余る。神社だとか、寺だとか、教会だとかの聖職者様に任せるのが一番だ。
でも、僕の手で解決したいっていう気持ちもある。何せ、あの憑き物の口から出たことは僕のルーツにかかっているような気もするから。
どうして僕の婆ちゃんの名前が出て来たか? それにどうして憑き物は僕の婆ちゃんの旧姓を知っているのか? それにどうして古暮貌の名前も挙がったのか? ずっと疑問に思ってた婆ちゃんの旧姓と僕の好きな作家の名前が同じってまさか婆ちゃんと古暮貌は家族なのか?
続々と途切れること無く、疑問は大量に出てくる。しかも、モノの見事に全部僕の興味を引く疑問だ。不思議と今の今まで興味の無かった自分のルーツに対する疑問に興味が湧いてきた。これが知的欲求ってやつかな? この歳になるまで湧いてこなかった知的欲求が、こんな時に湧いてくるなんて人生不思議なものだね。驚きだ。
まあ、そんなことを疑問視していても僕の羞恥心にとって代わることは無いんですけどね。どれだけ、こんな疑問が僕の頭を満たそうとも、先輩と会うと耳とかほっぺとか無条件で赤くなって声も上手く出せなくなる。そして、沈黙は気まずさを生んでその場に居ることが居た堪れなる。お陰様で、あの日からしばらくの間、僕は愛しの先輩と会話できてない。先輩の方は、全くそんな素振りを見せないから僕が一方的に恥じらっているのがことさらに恥ずかしい。あの日までは、お菓子を食べて、コーヒーを飲んで、本を読んで、適当だけど甘酸っぱい会話をして日常を終えるのが常だったのに……。
これも全部、憑き物のせいだ。全部全部、皆々、ありとあらゆる、責任を丸投げしたいなあ。
「どったの宮内? いつもより元気ないけど。まさか、先輩さんと喧嘩したか? それか姉ちゃんか?」
「違うよ陽太。というか、今日は起きてたんだね。明日、雪でも降るんじゃない?」
「馬鹿、今は夏だぜ。そんなことある訳ないじゃん。もし、あったとした地球にもう一回、月がぶつかったときだよ。それか、浅間山大噴火みたいなことが起きるかさ」
「お前は頭が良いのか、悪いのかどっちなのさ?」
突っ伏して暗がりの中に思考を巡らせている僕に、陽太はカラッとした軽い声で言葉を掛けてきた。しばらく聞いてない朝の陽太の声は新鮮に感じられた。けれど、ナンセンス。今の僕にとっては、腹立たしいことこの上ない発言だ。自分だけ無関係みたいなことを言いやがって。
おっと、口が悪くなった。良くない。心の冷静さを欠いちゃ、より心労が溜まる。それに、こんなサッパリした輩に悪態を吐いてみても罪悪感が積もるだけだ。
ほら、今も僕が言った皮肉が伝わって無い。キョトンと首を傾けて、眉間に皺を寄せてるだけだ。こんな朴念仁に何を言っても仕方が無いし、どんな態度を取ったところで笑われたら最後何も言えなくなる。伊達に顔が良い訳じゃ無い。
「俺の頭は良くない。間違いなく良くないよ。けど、まあ、常識はあると思う。人に失礼なことも言わないしさ」
それに頓珍漢なだけじゃなくて常識がある。自分にとって理解できない質問でも、どうにかして答えようとしてくれる。今みたいに、正直に答えてくれる。自分のことをよく分かってる男だ。それに周りのこともよく分かってる。非の打ちどころがないっていうのは、こういう奴を言うんだろうな。
自分のことだけが見えていたってどうしようもない。自分の感情に、盲目になっていたら周囲に迷惑をかけてしまう。今の僕みたいにね。陽太の言葉だって本当は要らないはずなんだ。こんなやり取りだって、本来は要らない。いつも通りの会話が、正しいはずなんだ。
考えすぎか……。あまり思い悩んじゃいけない。今は、この親愛なる親友にちょっとした褒め言葉を掛けてやろう。顔を上げて、さあ労いだ。椅子の背もたれに両手を掛けて、明るい髪の少し猫背でだらっとしながらも人懐っこい笑みを浮かべる僕の親友にね。
「確かに常識はあるね。椿さんと違って」
「姉ちゃんが異常なだけだよ。家でも変だし。勝手に俺のスマホ覗いて、お前との連絡を見て来るんだ。ホントに変わった人だよ」
柔らかない表情の陽太だったけど、僕の口から椿さんの名前が出るとげんなりと顔を下げてしまった。それから、普段からの苦労を滲ませる言葉をぽろっと吐き出した。確かに家族にスマホの中身を見られるなんて言うのは恥辱だ。恥ずかしいことこの上ない。
いや待て、何を呑気にそんなことを考えてるんだ僕は!? 椿さん、僕のあられもないやり取りを覗いてるとか……。色々とマズイ。僕のプライバシーが、少し下品なプライバシーが!
がっくり、暗黒への逃避だ。
一気に陽太と話す気が失せた。本当に、何でこうも気に病むことが立て続けに起こったり、発覚したりするんだろう? ああ、げんなり。けれど、会話を放棄するのは不義理だ。でも、やる気が起きない誰か……。
「それを変わった人ってだけで済ませてる、陽太も変よ。バシッと怒ってやらないと」
「何回言っても無駄なんだよ、榊。何べん言ったってさ、言うこと聞いてくれないんだ。だから、諦めたさ」
やっぱり、頼るべきは榊だ。こういう時に気の利く女性は、多分モテる。陽太にもモテるはずさ。あいつは、少しお淑やかな人が好きだからね。ただ、残念ながら男の性として色々とデカくないといけないらしいから、そこは頑張れ。応援してるよ。まだ成長期は終わってないと気がするから、努力次第で何とかなるはず!
恩人に対してこの物言いは無いな。失礼すぎる。とかく、ナイスだ榊。今度、何かおごってあげよう。それか絵のモデルになるか。どっちでも、榊様のお気に召す方にだ。
「もうちょっと腰を据えて言い続けた方が良いと思うよ。僕のことも考えてさ」
一つの代弁をしてくれた榊に感謝を込めて、僕はよろよろな気概で陽太に戒めの言葉を掛ける。ひしゃげそうな心が出せる最大限の言葉だ。
「分かった! 今度、覗いてきたら強めに言ってみるさ。姉ちゃんに効くかどうかは別としてね。マジで、言ってみるさ」
「よろしく頼むよ陽太」
僕の気持ちを汲んで、分かってくれたみたいだ。やっぱり、こいつはイケメンだ。顔を見なくとも柔らかい表情で、良い奴っていう雰囲気が伝わってくる。多分、榊の頬も赤いはずだ。恋する乙女。
ああ、恋なんて単語……。
「ほら、あんこ。そろっと二限が始まるから、ビシッとした方があんたのためよ。怠い先生だしね」
「うん、ああ、まあ、うん」
榊の言葉に引かれて僕は顔を上げる。それから、ぐいっと腕を天井に向けて身体を伸ばす。疲れきった身体が伸びて気持ちが良い。
けれど、この後の化学基礎の授業も、先輩に対することも、何もかもが面倒臭くてだらっとした気分になる。本当に、なんだか、怠いことになって来たなあ。家系の知的欲求もあるけど面倒な方が勝つ。
いっそのこと、急だけど明日、婆ちゃんの所行こうかなあ。近いし、ここみたいな喧騒も無いし、人も少ない、自然はいっぱい、悩みも少しは和らぐかもしれない。一時的な隠居な感じでさ。それに、陽太の家もあるし。
「あっ、そうだ宮内、榊。明日から一週間、家に来ない? 何か部活が一週間休みになったらしいからさ。どうせ夏休みなんだから、思い出の一つとしてどう? 生粋の田舎、片山町に来てみない?」
思い立ってみたことは現実に起こるんだなあ……。
まっ、せっかくの招待が僕の何となくの願望と合致したのを無下にすることはあまりにも、もったいない。なら、ありがたく提案に乗らせてもらおう。一週間もあれば色々と調べ上げることができるだろうし。
「うん、行かせてもらうよ。僕も久々に婆ちゃんと会いたいしね」
「私も行くわ。いい感じの風景画が掛けそうだし」
本音と建前を交えた参加の意を僕と榊は伝えた。
僕らは二人とも、この招待を嬉々として参加する。僕は現実逃避と家系の調査、榊は恋心。本当に甘酸っぱい恋心のために。
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