17
第一章の終わりです
緩やかに閉じた目には、じんわりと熱が籠る。心地のいい熱だ。眼球全体がリラックスする。昨日今日と気を張り過ぎていたから、それに普段から酷使して疲れている目は温もりの熱を甘受する。
何だか、眠くなってくる。張り詰めていた心持ちが和らぐと、睡魔が襲ってくる。もう、このまま眠っていたいな。僕は十分いろんなことをやったと思う。いや、実際は憑き物に作業は丸投げしたんだけど。けれど、それでも、僕はなけなしの余裕で背負い切れるものを背負いきったと思う。単なる逃げかも知れないけど、僕の主観からしたら担いきったんだ。自己満足でいいだろう? 誰も評価しないんだからさ。
けれど、それも何だか虚しいな。人に認めてもらうためだけに、物事に対して行動するなんて言うのはさ。他人のために行動なんて、人生からしたらきっとちっぽけなんだろうし。僕は、いや僕らは自分が幸せになるために生まれて来たんだ。それに、たまたま付随して他人の幸せのためっていうのが生まれたんだ。あくまで僕らは、僕らの幸せを探求すればいいんだ。
傲慢だ。でも、人間なんてそう言うものだと思う。全部、自分勝手に物事を考えてしまうのが僕らなんだ。だからこそ、僕は自分勝手に物事を考えるんだ。先輩以外どうなっても良いって。椿さんも、陽太も、榊も、皆、酷いことだと思うけど、皆を先輩と僕の天秤を掛けたら間違いないく先輩に傾く。不釣り合いだってことは、分かってるさ。ずっと付き合ってきた陽太、僕のことを特別視しないで適当にあしらう榊、変な先輩椿さんを犠牲にしてまで、先輩を取るなんて言うことは愚かしいことだ。でも、僕の初恋は愚かしさすら包み込むオブラートだ。
だけど、辛い。初恋は、今の時点で叶うことは無い。憑りついたあいつを祓わない限り、僕の初恋は無いんだ。しかも、先輩は憑かれている現状をありがたがっている。
独善的な悲劇だ。けれど、今僕はそれを解決するために目を閉じている。憑き物の言うことを不用心にも、無垢にも信じて、僕は目を閉じるんだ。悲劇と悲劇が様変わりするときを緊張の中に待ち望んで。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
何分経ったか分からない。けれど、それなりに時間は経ったと思う。体感としては三十分くらい経った気がする。まあ、あくまで体感でしかないから時間経過としてはもっと短いはずだ。何せ、緊張している間で流れる時間は、とても長いんだから。でも、耳にはカラスの鳴き声がまばらに入ってくる。そろそろ本当に夕暮れも濃くなってるはずだ。
でも、何の反応も無い。憑き物は未だ何もしてこない。待ちぼうけの時間ばかり過ぎていく。
「まだですか?」
ただ、心臓の早くなった脈動をいやというほど感じる僕は、どうにも忍耐強くないらしい。痛い脈動を早く解決したいから、一刻も早くこの緊張の痛みから解放されたいっていう薬物の禁断症状的な衝動が僕の忍耐を脆弱にさせて、口を開かせる。しかも、唇は若干震えている。
ただ、僕の言葉に憑き物は反応してくれなかった。僕の言葉はものだらけの部屋の中に、消えていくだけだ。まさか、こんな放置プレイを強制してくるなんて、とんでもない憑き物だ。僕の中身を知っている癖に、弄ぶなんて性格を疑う。
もっとも、言葉を発したのに言葉を返してくれないとなると僕は何もできなくなる。現状、僕は目を瞑っておくことを約束させられている。それを反故にすることは出来ない。僕の希望がついえてしまうから。なら、しばらく、何かアクションがあるまで僕はジッとソファに身を委ねておこう。
心地いい柔らかさかと、心地いい目元の温もり、それと心地いい暗闇は僕を包み込む。あと、風のそよぐ音、青い匂い、カラスの鳴き声、蝉、古本のノスタルジア、それら全てが僕の中に溶け込む。先輩との思い出が、ふつふつと僕の中に浮かび上がってくる。
春、桜並み木の中に佇んで、温かい風に銀髪をなびかせて、麗らかな春の光に細やかな銀糸の一本一本を輝かせてた赤い瞳の美しい人。話しかけることは出来なかったけれど、確実に僕の心は恋の矢に撃ち抜かれた。あの時から、僕は先輩に心を奪われた。そして、追いかけるようになった。名を学内に轟かせている通り名を聞いて、そこから名前を椿さんから聞き出して、部活を捜して、入部して、最初は嫌われながらも必死に話しかけて……。
思い返してみれば、今よりもよっぽど大変な日々だったな。毎日毎日、先輩の心の籠ってない冷たい一言に心を揺さぶられて、たったの一言でも嬉しいとか、ありがとうとか言われた日は狂喜乱舞するほど喜んで。悲しかったし、楽しかった。本を読みながら僕に菓子を買ってくるようにと頼んだ時先輩が、僕の名前を初めて読んでくれた時は、死んでもいいなんて思った。初々しいな僕は。憑き物の言う通り、初々し過ぎる。
でも、僕にとっては本当に死んでもいいと思ったんだ。やっと、僕の存在を認めてくれんだからさ。先輩からしたら、パシリの認識でしかなかったのかもしれないけれど、嬉しかったんだ。
それからは、心に溢れんばかりの嬉しさを抱いてきた。先輩が僕を呼んでくれる時、僕の心はいつでも踊っている。話しかけてくれる時は、喜びで胸が弾ける。
「そんなに嬉しいのか、桔梗と話していてそんなに喜ぶのか、杏子?」
僕の中身を覗いている憑き物は、物腰柔らかな口調で恋心の中を尋ねてきた。僕の純粋な部分を見られてしまった。恥ずかしい。
いいや、そんなこと今に始まったことじゃない。ずっとこいつは僕の心の中を覗いてきたはずなんだから、もっと恥ずかしいことを見られているはずだ。情欲とか……。
なら、正直に答えた方が良いか。変な嘘を吐いて、からかわれたら僕は寝込んでしまうかもしれない。とにかく、今は正直答えよう。小恥ずかしいけど、全部さらけ出そう。
「ええ、僕にとって先輩はそう言う人ですから。僕の心を埋めてくれる誰よりも優しくて、儚くて、美しい桜の様で、泡沫の様な人です。触れれば壊れてしまうそんな脆い人です。それに、僕を色目なしに見てくれる数少ない人ですからね。それだけでも、僕は先輩が好きでたまらないんですよ。美貌は付随品に過ぎないです。失礼な話ですけど」
「……そう。いや、そうか。杏子、お前は、なるほど。本当に、そっくりだ」
僕の言葉に、憑き物は驚いたのか、笑っているのか微妙な間を開けて反応した。しかも、その雰囲気はどこか先輩を思わせる。今までは、先輩と全然違う雰囲気だったのに……。
もしかして? いや、止めよう。そんなことを考えてはいけない。現実だったら、僕は顔から火を出して卒倒しなきゃならない。間違いなく救急車行だ。
余計なことを考えるのは止めよう。話を戻そう。
「誰にですか? 何回も貴女は言ってますけど、僕は誰に似ているんですか?」
そう、僕にとって今一番の話は出会ってから僕に数回言ってくる『そっくり』っていうことだ。何べんも言ってるけど、僕は一体誰に似ているんだ?
「さあね。儂とて、それは分からんよ。けれど、きっと儂にとって大切な誰彼に似ているんだろうよ。さて、そんな話はさて置いて。こっちも、お前にやることを決意したからな」
自分でも分からないなら、僕にも分かるはずない。
諦めよう。時として、諦めの方が肝心だ。
そしたら、こいつが本から読みとったことをしてもらおう。けれど、その前に一言。ちょっとした文句さ。時間に対してのね。
「随分と時間がかかり……」
けれど、僕の文句を言い終える前に、僕の口は塞がれた。
柔らかくて、温かくて、湿っぽくて、甘くて、優しくて、恥ずかしくて、美しくて、儚くて、初々しい唇に。先輩の唇に。
僕は目を見開いてしまった。目の前には、悪戯に笑う赤い瞳と、桃色に染まった磁器のように澄んだ肌。良い匂いだ。憑き物は僕の股の間に片膝を立てて、ソファーの背もたれに両腕を伸ばして僕の身体を挟むようにしている。
いや、そんな、違う。今は、違う。こんな、事じゃない。あ……。
頭がこんがらがる。けれど、それは憑き物も同じらしい。悪戯な瞳は見開く。そして、ゆっくりと僕から離れる。
「……古暮さん? 清李? 儂、いや私か? 私は古暮。そう、氏は古暮さ」
憑き物は何か戸惑うように、自問自答をする。
ただ、紡がれる言葉に僕は聞き覚えがある。聞き覚えというか、それは僕の大切な人だ。僕のことを母親のように見守ってくれる、今も見守ってくれている人の名前だ。
僕は衝撃を覚える唇で、言葉を紡ぐ。
「清李。それ、僕の婆ちゃんの名前」
けれど、その言葉は大したことは無い。
日は暮れる。
風が吹く。
香りは包む。
妖しい空気は何処かに。
僕らはノスタルジアに包まれる。
けれど、その空気は予想外の来客でぶち壊される。
「なにしてるのかしら二人とも? 鍵を返しに来ないのを心配して見に来たら」
「「あ」」
そこからは、椿さんによる説教が始まった。不純だとか、からかいが過ぎるだとか。
だけど、僕の心はそこに無かった。どうやら、憑き物いや、古暮の心も無かった。
集中は暑さと蝉の鳴き声と、衝撃に消えてゆく……。
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