16
けれど、どんなに回ってない頭でも今、僕がすべき判断は分かる。暑い部屋だから、疲れ切った脳味噌だから、とかそんなことじゃない。僕は、自分が今すべき判断を知っている。だから、その旨を僕は意地悪な笑みを浮かべ続けるこの憑き物に伝えよう。例え、それが僕にとってのプライドを酷く傷つけることになってもだ。
乾ききった口を僕は開こうとする。けれど、僕の口は素直に開いてくれない。無意識のプライドがそうさせる。要らない自己防衛反応だ。言いたいことは、さっさと言ってしまえばいいんだ。そっちの方が、万事上手く片付くはずなんだ。何にも思い悩むことなんてないんだ。分かってるさ。けれど、動いてくれない。いざ、自分の判断を口に出そうとすると、口ごもってしまう。声っぽい音も、口から出るけど、そんなのは「あ」とか「え」とかの意味の無い言葉だ。
良いから! 僕の口よ、動け! くだらない自意識なんて、要らないんだ! そんな本能は捨てちまえ! 僕にとって大切なことは、先輩を取り戻すことなんだ。自分から人生の貴重な青い春を棒に振るう様な選択をした先輩を、その隠れ蓑から救い出すことなんだ。それが、先輩にとって不幸であっても。何度も、何度も、頭を悩ませたことだ。そして、その結果、僕は先輩を取り戻すことを決断したんだ。散々悩んで、悩みきった結果を後は、憑き物にぶつければ終わるんだ。いいや、終わるかどうかは分からない。分かったものじゃない。なんたって、この上下巻セットにまともな情報が書かれているかどうかは、分からないんだから。
けれど、縋らなきゃいけない。僕はただの一本の糸に縋るんだ。だから、どうか、僕の口よ、動いてくれ。頼む。
自分の身体にどうして、動作を頼み込まなきゃいけないのか意味が解らない。
くだらない。
冷静になってみるとそうだ。
なら、今の落ち付いた心持ちをそのまま発してしまえばいいんだ。何も力むことは無い。気合を入れて、言葉を喋る必要は何にもないんだ。
何だ、やっぱり自意識が全部悪かったんだ。今なら、言える。安らいでいる。何にも、隔てるものは無いんだ。口を開こう。閉じることは、所詮自意識の呪縛に過ぎないんだから。
「頼みます」
ほら、存外さっくりと言葉は出るものだ。
多分、僕の瞳も戸惑いの光を宿してないと思う。踏ん切りが付いたんだ。もう、先輩を取り戻せるんだったら、僕は何もいらない。蹴りはついたんだ。
踏ん切りをつけて、しがらみから抜けた僕を憑き物は相変わらずほくそ笑みながら見つめる。そして、その口を開く。
「正直になった。一切合財を捨てる覚悟をしたね。それでこそ、儂と契約を結んだ少年だ」
「それは喜んだほうが良いことなんですか?」
「ああ、喜びたまえよ。儂とて人を選ぶさ。人を前にして嫉妬の視線を向ける奴だとか、身体だけを目当てに人を考える奴だとか、儂はうんざりだよ。確かに、そう言った奴らも自分に正直だ。でも、そこに信念は無い。憧れを叶えてやろうとする人格の芯が無いんだよ。けれど、お前は違う。お前には、桔梗を儂の契約から助け出そうとし、そのためには不要なものを投げ出す信念がある。それを認めてやったんだから、少年、お前は喜べ。お前は男だよ、少年、いいや宮内杏子」
「……そうですか」
なんで、僕の心は高揚しているんだ?
どうして、こんなに胸が躍るんだ?
忌むべき憑き物に、褒められて、認められて僕の心はどうして湧くんだ? 普段から褒められていないか? いや、僕はそんな不幸な人間じゃない。それなりの人から、認めて貰えているし、無二の親友たちも居る。決して、愛に飢えている訳じゃ無い。確かに、母親から無償の愛を貰ったことは無い。でも、その代わりに、じいちゃんとか、ばあちゃんとか、親父とかから胸いっぱいの愛を貰った。だから、僕は本当に不幸な人じゃないんだ。愛には、餓えていないはずだ。
けれど、どうして、やっぱり、憑き物の言葉は僕に響く。胸を温める。知りもしない奴の言葉なのにだ。因果関係が分からない。疑問だ。いや、もう分からないんだったら、分からないままで置いておけばいい。今は、そっちの方が良い。変な情を抱いて、こいつとおさらばすることが惜しくなったりしたら目も当てられない。だから、この感情は、胸の温かさは、偶然の産物ってことで放って置こう。その内、フラッシュバックするかもしれないけれど、置いておいた方が良い。
ほら、原因の憑き物だって話を進めようと、再びその楽しげな口を開くんだから。
「杏子よ。とにもかくにも、その本を儂に見せてみろ。話はそこからだ。さっきも言ったが、嘘はつかないよ。儂はその本に書かれていることを忠実にお前に伝える。だから、お前は儂の口から出たことを疑うなよ? そこを始めのうちに言っておかないとな。勘ぐられたとき、儂とて不機嫌になってしまうからな」
「分かってますよ」
目を逸らしながら、僕は嘘八分で憑き物の声に答える。
僕は大体、信頼はしていないんだ。少なくとも、昨日であった奴の言うことを全部利口に受け入れるなんて言うのは出来ない。僕らは、人間だ。動物とは違うんだ。初対面であろうと、自然の成り行きで信頼できる仲にはなれないんだ。知恵の実なんて言う果実を食べてしまった僕らの代償だ。
あさましいことだって分かっているけれど、人間、僕はこいつに全幅の信用を置くことは出来ない。だから、嘘を吐く。話を円滑に進めるために嘘を吐く。
ただ、どうせ僕の嘘は見破られているはずだ。
「お前ら人間が、自分以外を信頼するのに時間がかかるのは分かっている。だから、嘘は吐くな。信頼できないのだったら、自分の口でそう言ってみせてくれよ。認めた男が、虚栄を張るほど虚しいことは無いからねえ」
思った通り見破られた。
しかも、説教臭く。いや、全部僕の不義理から来るものだから当然のことだ。何も、非難することじゃない。むしろ、素直に受け入れなきゃいけない言葉だ。変にこじらせて曲がった認識をそのままにしておいちゃ、面目ない。せっかく言葉を掛けてくれた、この憑き物に……。
ほだされたのかな、僕は?
「すいませんでした」
「何も謝ってほしい訳じゃ無いさ。認めてくれれば儂は、それで良いよ。今みたいにね。素直に、認めてくれればそれで良いさ。ほら、こんな説教なんて置いておこう。ほら、好奇心が失われる前に儂にそれを寄越せ。好奇心こそが、最も大切なことだ。それこそが人を進歩させる力だからね」
「ええ、では、どうぞ」
少しだけどもりながら僕は、憑き物に二冊の本を差し伸べる。
そして、憑き物は柔和な笑みを浮かべて差し伸べた二冊の綺麗な装丁が成された本を受け取る。本自体の高貴さと憑き物の妖しい雰囲気は、見事に合致してるみたいだ。彼女のための本って感じだ。
「ありがとう、杏子。とりあえず、小一時間もあれば読めると思うから待っててくれよ」
「えっええ……」
雅な雰囲気を憑き物から感じても、僕の口は微妙に動かず、簡素で、どもった言葉しか紡いでくれない。
緊張からのどもりか、あまりにも似すぎているからのどもりかは分からない。とかく御託をどれだけ並べても結局、僕の口は滑らかに動いてくれなかった、これが現実だ。どうしても、引っ掛かってしまう。あれだこれだと言って、いくつもいくつも悩みを挙げていてはキリが無いことは分かっている。いや、けれども、その中で特に大きな疑問があるっていうことも分かっている。八方塞の引っ掛かりじゃない。一点集中の大きな疑問がそこにあるんだ。
取っ掛かりのあるならば、そこを重点的に考えればことは片付く。でも、だけれども、それを考えることは怖い。僕は、純粋にそれを知ることが怖いんだ。それを認めてしまえば、僕は……、いや、現実から目を離してはいけない。常に最悪なことを考えながら動くことが人間だ。最悪よりちょっと良いくらいを
なら、その可能性も考えよう。
憑き物、いや、梟の憑き物とかいう馬鹿げた存在を根本から覆すことを。空想の上に空想を重ねたビックリするほどの妄言を。
僕は両膝に両肘を乗せて、さしずめ名探偵の推理シーンの様な姿勢を取った。背中を丸めて、組んだ手を口元へ。俗っぽいけれど、頭を回す時は、疲労の溜まった頭を無理に回すにはまず形からだ。モチベーションってやつだ。そして、僕は息を大きく吐く。
良し、これで準備できた。根無し草の推理の準備が。
先輩と憑き物……。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
憑き物の手に本を渡してから、僕が空想の空想を考え始めてから、時計の短針は一周した。
いよいよ、日の暮れって感じがする。部室は濃い夕日色に染められて、物陰はその黒色をより映えさせる。風も、風自体が若干涼しくなった。今までの熱風とは違う。全体的に薄暗い。けれど、何だか、部屋の雰囲気はとても幻想的だ。夏のおどろおどろしさ、和洋折衷のノスタルジアとが混ざり合って、心は落ち着かない。昨日は、不気味って感じた旧校舎も今は、違って見える。僕の情調が安定したからかな? 憑き物なんて言う超常的なものを何とか飲み込めたから、幻想的に見えるのかな? これもまた疑問だ。
落ち着かないけど、僕は体全体で、旧校舎の妖しさを感じて、脳味噌の疲労を一身に受けた。
「はあ」
溜息と共に疲労困憊の声が一言。僕は、例の体勢を崩すとだらしなくソファーに全身を預けた。そして、天井を仰いだ。
結局、一番の謎は解けなかった。僕の頭だけじゃ考えきれなかった。精々、物語的な考察しか建てられなかった。それも、先輩の容姿と憑き物がキリル文字を読めるってことだけで組み立てた脆弱も脆弱の考察だ。
先輩の先祖がこの旧校舎、つまり洋館を造ったロシア人貴族で、憑き物はロシアの悪魔かなんか。それを封印していたのが、お社の中に入っていたコルク栓のついた徳利みたいな陶器の瓶。二つある意味は分からない。けど、そんなところで論理の寄り道をしていたら僕の考察は尋常じゃ無く長くなるし、こっちが恥ずかしい。だから、無視さ。そして、憑き物が持っている二冊の本が、悪魔もどきを封印する方法。
そんな劇物を、先輩の先祖(仮称かつ多分の多分で、悪魔もどきを先祖代々封印してきた人)が革命で逃れてきたとき、日本に持ってきた。そして、旧校舎の林の奥に封印のお社を建てた。それから、時代が経って僕らの世代になった時、封印を解いてしまった先輩という子孫を呪うために、悪魔もどきが先輩に憑りついた。
こんな、へんてこりんな考察が僕の小一時間の結果だ。まあ、でも、筋を一応通しただけあるから、何となく纏まりがあるように感じられる。ただし、信用には値しないし、物語的過ぎる。いや、憑き物っていうのが現実に存在している時点で物語的なんだけどさ。
そんな現実主義的なことばっかり考えていちゃ駄目だ。結局、分からないってことが分かった。それと、僕の先輩に対する知識の貧困具合もよく分かった。そもそも、どこに住んでるのか、どんな人を親に持つのか、先輩のことは先輩個人のことしか知らない。いや、違うな。そこはそれで良いんだ。あまり、個人に肩入れしすぎるのは良くない。犯罪的だ。
「読み終わったぞ、杏子」
自分の無知を恥ながら、無知に危惧しながらゆったりとした瞬きを天井に向けていると、憑き物は読破の知らせを僕に入れた。
早い。本当に、読み終えたんだ。それが、僕の感想の憑き物に対する感想。やっぱり、適材適所だ。僕がやったら数週間はかかる作業を小一時間で終わらせたんだから。
ともかく、読み終わったんだったら、約束通り内容を教えてもらおう。だらけた体に鞭を打って、僕は上体をシャキッと伸ばす。そして、若干重い瞼の瞳を憑き物に向けようとしたけど。
「ああ、こっちは見るな。今から、儂が良いというまで目を閉じていろ。それこそが、儂がここから得た知識だからな。なに、偽りじゃないさ。だから、今は目を閉じていてくれ。よろしく頼むよ」
憑き物は、僕に目を開くことを許してくれなかった。とりあえず、言われたことは守ろう。不信感は拭い去れない。けれど、不義理は一番駄目だ。こいつが言ってくれたように駄目なんだ。
でも、とりあえず釘だけは刺しておこう。
「変なことはしないでくださいね。それだけが、条件です」
「安心しろ。儂が読んだままをやってやるだけだ。果たして、これが真実かどうかは分からないけどな。とりあえずは受け入れてみろ」
「さいですか……」
僕の抑止力は無いに等しいらしい。
ご覧いただきありがとうございます。
もし、この作品を良いと思った方は広告下の☆マークを押して頂けると作者としては嬉しい限りです。




