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トラギエーディヤと恋  作者: 鍋谷葵
出会いの夏
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13/41

12

 家事全般を済ませて、風呂に入り、今日一日分の汚れなりを全部落とし終えると、僕はクーラーを利かせた涼しい部屋の畳にタオル投げ出して、その上に頭を置いて大の字に仰向けになる。昔ながらの押入れ、本棚と、散らかったローテーブルと、タンスと引き出しが三つ付いた白い子道具入れ、小さめのテレビが置かれた部屋の現在の時刻、夜の九時。少なくとも僕の部屋に掛けてあるシンプル過ぎる時計は、長身も短針も揃って九を指している。あんまり信用できない時計だから、確証はないけど。

 いい加減、時計を合わせよう。何が悲しくて僕は、時計があるのにスマホを確認して時間を見なきゃならないんだ。何が悲しくて、朝、目が覚めて一番最初に目に入る時計を見て慌てなきゃならないんだ。

 まあ、いいや。後でやろ。

 とにかく涼しい。やっぱり、夏の涼しさは特別だ。素肌に甚平(じんべい)も、いい感じだ。やっぱり、昔っから日本にある着物が、一番肌に合う。色合いも紺色で、中々風流だし。

 まだ若干、髪が濡れている。けど、今はどうでも良い。中々乾かない髪を乾かすの面倒だ。昔から長いから、慣れてはいるけど、それでも疲れている日は日常の動作が億劫になる。それは、仕方ないことだ。だから、今はだらけさせてくれ。あと、この暑さに壊れたドライヤーの熱風は辛い。今度買い換えよう、いくら何でも冷風が出ないドライヤーは不便すぎる。


「疲れた……」


 木目の天井が見える。

 吊電燈の明るさは、僕の疲れた目には眩しすぎる。目を閉じなきゃ、やってられない。今の僕には、目を閉じた時の暗がりが丁度良い。沈黙と暗がりは、全ての悩みを吸い込んでくれるような気がするから。

 普段なら一人暮らしの寂しさはある。けれど、疲れている時はこうして一人でポケッとしているのが良い。何にも考えなくて良いし、家庭の音に敏感にならなくて良い。それが、本当にありがたい。あんな親父でも、これには感謝しないとだ。

 といっても、一人暮らしすることになったのは、親父の仕事のせいだから特別、親父に感謝することも無いのかもしれない。いきなり、ドイツで音楽の仕事が入ったとか言って、三年は向こうに行かなきゃならないこと、僕に一人暮らしをしろっていうのを出発前日に告げられた時、僕は親父をぶん殴ってやろうかと思った。いや、実際ぶん殴ってやったから思ったんじゃないけどさ。なのに、空港で別れるときは過保護を発動して泣きついてきたし。その時もぶん殴ったから、後腐れは無いけど。

 本当にピアノを弾いてるとき以外は、全くカッコよく見えないあの親父は自分勝手だ。大体、そんな長期間の仕事を決める時は、普通家族と相談するものだろ? 一人で決めることじゃないだろ。何なんだ、あの男は。良く母さんは、あんな男と結婚する気になったと思うよ。

 けど、人一倍優しさだけはあるから不思議じゃないか……な? 何不自由ない生活させてくれたし、本とか玩具とか色々買ってくれたし、旅行にも行かせてくれたし、ピアノも教えてくれたしな。思いやりが何よりもある人だな……。

 先輩も親父みたいに、優しい人が好きなのかもしれない。あくまで、憶測に過ぎないけど、何となくそんな気がする。分からないし、多分、僕の願望が入っている憶測だけれど。僕にあるのは、優しさだけだから。親父にもそう言われたし、陽太も昔っから『優しさだけは、誰よりもあるな! 優しさだけだけど』って言われてるから……。

 振り向かせられる願望を語るんじゃなくて、今の僕がやらなきゃいけないことは先輩を憑き物から解放することだ。例え、先輩が憑き物との共存を望んでいようとも、先輩から憑き物を離さなきゃならない。だって、それはせっかくの人生の貴重な時間を棒に振ることになるんだから。


「なら、寝転がってる場合じゃないな」


 シャキッと心持ちを律して、僕は体を起こした。

 僕にとって、今できることは出来るだけこの奇妙極まりないことを調べることだ。インターネットにしろ、本にしろね、資料は限られているけど僕はやるさ。それだけが、僕にとっての手掛かりなんだから。それだけが、僕から初恋の情熱を奪わせない唯一の方法なんだから。

 先輩を思うだけでキュッと締まって、熱くもだえる恋心を救うには先輩から憑き物を離すしかないんだ。例え、それが僕の独善であってもだ。いや、独善そのものだ。僕の自分勝手に過ぎないんだ。結局、僕も親父と同じで自分勝手なんだ。しかも、親父と違って、多分明確に先輩を悲しませる、失望させる自意識とエゴの塊なんだ。

 本当に嫌だ。

 自分勝手な行動でないと救えない恋の衝動が、本当に嫌だ。こんな心苦しいことになるくらいだったら、僕は先輩に恋なんかしなければよかった。先輩とは、先輩後輩の関係だったのら良かった。それなら、こんな奇妙な運命に巻き込まれることは無かったんだ。

 いいや、そんな悲しいことは言わない方が良い。運命的な出会いだったんだ。それを否定するなんていうのは、とんでもないことだ。僕自身の運命を否定するようなものだから。一生忘れられないことを否定するなんていうのは、本当に悲しいことなんだから。記憶は、財産だ。貴重なものだ。それに、後悔するなら竹林に入ったことを後悔すべきだ。あの時、僕が、好奇心に囚われる先輩を否定することができたのならこんなことにならなかったんだ。もしかしたら……。

 大体、こんな一々後悔しているから女々しいって榊に言われるんだ。とにかく、今は希望のために動くんだ。落ち込むことは、いつでもできる。けれど、希望のために行動すること中々できない。内向的な僕からしたらほとんど不可能な行動だ。でも、今は前向きな行動することにためらいが無い。先輩が好きだからだ。


「本当に面倒くさい。なんで、こんな難儀な性格になったんだ?」


 ごちゃごちゃと御託が並べられる僕の頭に、僕は苛立つ。

 本当に、面倒な性格だ。

 一々、行動に理由を付けて行動するなんて言うのは時間の無駄だ。やることが分かっているんだったら、さっさと手を動かせばいいんだ。割と能天気に、やりたいことをやれば良いんだ。


「そうと決まったらやろう!」


 宣言の通りだ。

 僕は手を動かそう。とりあえず、一番手っ取り早いネットからだ。

 本が積まれて、底が見えないテーブルから親父に頼み込んで買ってもらったノートパソコンを引っ張り出すことから始めよう。使うには使うけど、最近はあんまり使ってないから充電が残ってるかどうかとてつもなく不安だ。もしも、充電が切れていたらとんでもなく怠い。今度は、充電ケーブルを探さなきゃならない。確か、シェルフの本当に、今度片付けよう。

 散らかった本を一端畳の上にどかして、シルバーのノートパソコンを見つけ出した。ごめんなさい、愛しのパソコン。今度から大切に扱うから。


「さて、電源が点くか?」


 一つ詫びを入れて、僕はパソコンを開いた。

 それから、電源ボタンを押してみた。頼むから、点いてくれよ。面倒は探し物はしたくないんだ。あんな、コードとイヤホンで塗れた小物入れの引き出しから充電ケーブルを探したくない。お願いだからパソコンクン、点いてくれ

 しばらく使ってないパソコンに、僕の願いは届いた。電源は、バッチリ点いてくれた。いやいや良かった。本当に良かったよ。今度から、大切に扱うからね、愛しのパソコン。

 ともかく、早いこと調べ物をしよう! まだまだ、やることはあるんだから。


 ◇◇◇◇◇◇◇◇◇

 

 電源を点けて、キーボードをカチャカチャして、頭の中に浮かんだことを検索に片っ端から入れてみたけど、何にも得られなかった。一時間くらい調べたけれど、結局、調べたところで情報出てこなかった。何にも出てこなかった。ビックリするくらい出てこなかった。

 時間を無駄にした……。


「やっぱり、出てこないよな。胡散臭い都市伝説くらいしか、出てこない。というか、ネットで調べて出てきたら気苦労なんてしなくて良いはずだ。なんて時間の無駄。でも、しないよりはマシだと思う。やらない後悔より、やる後悔の方が良いさ」


 いや、時間の無駄だったってことを僕は、認めたくない。絶対に認めたくない。詐欺サイトに引っ掛かったり、掲示板の釣りだったり、色々と迷惑極まりないことを経験した時間を否定したくないんだ。何だって僕が、あんな目に合わなきゃならないんだ。せっかく見つけたと思ったら、まるっきりデマだったりするしさ……。

 まあ、これでネットがロクでも無いことが分かったからいいや。情報は一次ソースから辿らないとだ。大体、ネットなんてそんなもんなんだから頼りにしない方が良い。というか、わざわざパソコンを引っ張り出さなくてもスマホで調べれば良かったんじゃ……。

 だから、後悔は無しだ。さっき、自分でそう言ったばかりだろ。本当に、ネガティブシンキングは止めた方が良い。余計、時間を無駄にする。明日も学校があるんだ。時間は限られている。なら、さっさと一番の頼りを読んでみればいい。


「これ、読むのかあ……」


 僕は学生鞄の中から、書庫から盗んできた、もとい借りてきた絢爛な金銀の糸で双頭の鷲が、装丁が施された一番の頼りを取り出した。味のある茶色に変色したページが匂わせる古本特有の香りが鼻腔をくすぐる。閉じ込められたノスタルジーが、僕を満たす。詩的なことを思って見ると、結構気持ち悪いな。

 自分の気持ち悪さなんてどうでも良い。とかく、僕にとっての一番頼りにしている物はあまりに難易度が高いものだ。英語でさえすらすらと読むことの出来ない僕に、読めるのかどうか分からない代物だ。しかも、これが手掛かりになるかどうかすら分からない代物だし。ただ、あの憑き物がこの本の題名を見てロシア語って理解できた点だけでの推測にすぎないからね。

 千里の道は一歩からっていうけれど、その格言を最初に思いついた人は、とてつもない好奇心に溢れている人だと思う。だって、遥か遠い目的地を見る人は大抵、歩む前に目的地を帰るだろうから。一歩も踏み出せないで終わるのだから。何だってそうだ、人間関係にしろ勉強にしろね。そして、今僕が踏み出さなきゃいけない一歩も、酷く遠い目的地への一歩だ。


「ロシア語を訳せって、滅茶苦茶難しいよな。それに、辞書も無いし……。持って来れば良かった」


 厚さがそんなに無い薄い本でも、外国語を全部自力で翻訳するっていうのは骨が折れる。しかも、それは普段暮らしていてほとんど馴染みの無い言語であれば、なおさらのことだ。初め、この本を取った時は朝鮮の青春だとか虫のいいことをほざいていたけど、実際向き合ってみると、とてつもなくやる気が削がれる。

 けれど、やるしかないのが現状だ。これだけが、今現在、僕の手元にある唯一の手掛かりなんだから。とやかく言ってる場合じゃない。先輩を救うためだ、面倒だとかどうだとか言わずに頭と手を動かして、コツコツ情報を集めよう。これが、答えとなる本だと良いんだけど。というか、そうあってくれよ。校舎の方の書庫から一つ一つ内容を確認していくのも、骨が折れるんだから。


「しかし、なんだってキリル文字っていうのは意味不明なんだ? アルファベットが可愛く見えるよ……」


 胸の中に愚痴を抱きながら、僕はパソコンでキリル文字とアルファベットの対応表を開いて、キーボードの設定をロシア語に変える。それから、ディスプレイの片隅に表示させている万能翻訳先生ことゴーグル先生に打ちこんで。何とかこの題名を解読してみる。

 してみたい。

 出来たらなあ……。

 あっ、出来た。頼るべきは、ネットだな。すごい便利。

 

「……『霊魂と梟の呪縛 上』って、下巻があるのか? ということは、どっちみち僕は書庫で本を探さなきゃならないのか。けど、梟って題名についてる。しかも、霊魂なんて言う中二病をくすぐる言葉も入ってる。きっと、これがあの憑き物について書かれている本だ。大体、苧環昇の本に書かれているバラの庭であんなことが起こったんだから、旧校舎にそう言った本が無い方がおかしいんだ。ともかく、これでヒントは手に入った。意外と早くこのロクでも無い奇妙で仕方ない事件から、解放されるのかもしれないな」


 面倒を一つ解決? いや、解決はしていないけどそれでも少しくらい解き明かせた。謎を解くと、また一つ謎が生まれた。けれど、その謎はきっと先輩に憑りつくあの憑き物の核心をついてるものだと思う。興味深い本がそう示してくれているんだから。この本にどれだけの信憑性があるかどうかは、分からない。奇怪奇天烈な本に信頼を求めること自体おかしいことだけれど。きっと、今の僕がこの本に縋る気持ちは胡散臭い占い師の言うことを聞く人の気持ちなんだろう。頼れるもの全てに縋りたいそんな弱者の気持ちだ。

 けれど、僕は信じよう

 僕の直観がそう言っているんだから疑っちゃいけない。自分を疑う僕も腐っちゃいない。ネガティブシンキングで溢れていようともだ。人間っていう生き物は常に直感、科学的に証明されていない無いなものにしたがって、進化を遂げて来たんだから。もちろん、それは生活に裏付けられたものだ。そして、僕の直観も生活に一応裏づけられている。多分。メイビー。勢いづいてみたけど、今日のこともあるし……。

 いや、絶対にそうだ。人生において絶対は無いけれど、それでも僕はこの直観に絶対的な信頼を寄せよう。例え、若干の不備があろうともそれは必要な不備ってやつだ。無視していい不備なはずだ。

 うん、やることも決まった。それに、これ以上僕がどうすることも出来ないっていうことも分かった。こんなアルファベット対応表とキーボードを睨めっこしながらやっていても、どうにもならない。時間ばっかり掛かってしまう。それなら、辞書を使ってチマチマとやっていた方が勉強になる気がするしさ。

 だから、とりあえず今日は寝よう。疲れが、明日に残ると酷く不健康だ。それに、明日もやることがある。あの憑き物をどうやって楽しませるかっていう、尋常じゃ無く面倒なことが待ってる。

 何をすればいいんだろう? これに関しては、何にも考えてなかった。一番、重要なことなのに微塵も考えていなかった。


「どうしようか……?」


 ここに来て、根本的な問題の解決よりも直近の問題の解決に頭を使わなきゃいけないなんて考えもしなかった。まあ、久々にパソコンを点けたし、これで映画でも見せればいいか。DVDなら大量にあるし。親父が全部こっちに置いて行ったやつがさ。

 短絡的だけど、これで何とかなって欲しい。本当に、楽観的だけどさ。

 まあ、いいや。明日、どうにもならなかったらその時に考えればいいや。楽観的に行こう。


 若干の思考放棄の中で、僕は閉じたノートパソコンの上に鞄の中から取り出した本を置いた。それから、押し入れから布団を運び出して敷いた。いつもより早い就寝時間だけれど、今日は疲れた。早く布団に横になろう。

 吊電燈の紐を引っ張って明かりを消して、暗闇へ。布団の柔らかさが、愛おしい。疲れが全て背中に向かう。睡魔は、僕の目に宿り、意識を奪って行く。安らぎの時間は、もうすぐだ……。


「おやすみ、母さん」


 もうこの世に居ない大切な人への言葉が、今日最後の言葉だ。

ご覧いただきありがとうございます。

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