10
僕は、開いていた窓を片っ端から占めると、薄暗く不気味な旧校舎から出た。そして、玄関に置いてあった鍵で玄関の扉を閉めた。きっと、椿さんが置いて行ったんだろう。気が利く人だ。
土の匂いが、妙に鼻につく。
茜色に薄暗くなった外は、いっそう不気味に感じられた。沈みかける太陽が、見えないことがそれを助長させるような気がした。心の不安をかきたてる色を生み出している正体が見えないんだから。未知は、人間誰しもにとって恐怖だ。例外なく僕もだ。
正体を現さない茜色の空は、不気味に僕を見下ろしている。加えて、吹いてくる風は怪しいおと共に竹林を揺らした。笹がこすれる音は、僕の独善的な覚悟を決める心を揺るがした。不気味な色と不気味な音は、僕の疲労を煽る。
普段、こんなこと感じることは無いのに。多分、疲労のせいだと思う。どっと僕の心にかかる疲労は、僕を揺るがす。そして、幻想に似た感覚を僕に覚えさせる。どこからともなく聞こえるなんてことの無いカラスの鳴き声だって、今は悪魔が紡ぐ歌のように感じられる。うん、こんな痛々しいことが言えるくらいには疲れている。でも、本当にカラスの鳴き声は悪魔が紡ぐ歌なのかもしれない。あんな、憑き物が居るくらいだきっと悪魔の一つや二つこの世に存在しているんだろう。いや、そんなオカルト的な考えは止そう。なにより、僕の思考を不気味で不安定なものにする気がする。
悲観的だな。とりあえず今は、こんな不安を抱くよりも夕暮れのひと時と、気疲れから一時でも解放されたことに喜ぼう。土の匂い、青い匂いを喜ぼう。
心機一転とまではいかないけれど、心構えをそれなりに変えて、僕は出来るだけ能天気な心持ちで木立の陰に包まれる小道に向かって歩く。日がそここに落ちているから、来たばかりの時に比べれば随分と涼しい。歩きやすい気温になった。これなら何の気なしに、道を歩ける。家へと帰れる。ただ、アスファルトの地面がどうなっているかは分からない。心地の良い期待は、あまり高く設定しないでおこう。少しくらい涼しいっていう認識で十分だ。
小道を行くと木の葉揺れ、影に満ちる濃緑色が心地の良い香りと共に涼しい風が僕に吹いてくる。少しも暑さを感じない。良い風だ。良い気温だ。
「いい感じだ……」
らしくない独り言をわざと溢す。
心地の良さ二割、無理やり作った能天気八割で、僕は重い足を軽い足と錯覚して歩みを進める。気の紛らわしこそが、僕の心安らげる……。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
「失礼しました……」
無理やり作った心持ちで、僕は茜色に染まる熱が籠るリノリウム張りの廊下を歩いて教務室まで行き旧校舎の鍵を返した。
教務室は、廊下と違って涼しかった。快適な空間だ。でも、そんな快適さは体だけで、心持ちは全く心地よくなかった。何せ、教務室だ。僕は、大人が苦手なんだ。けど、鍵を返す相手、つまり文芸部の顧問が僕らの現代文を担当してくれている先生だってことは、不幸中の幸いだ。歳が近いっていうのは、本当にありがたい。変な気を遣わなくて良いし。
でも、先生が、鍵を受け取るとき、僕の顔色を心配して声を掛けて来た時は、肝が冷えた。不幸中の幸いだと思ってたことが、一気にどん底まで落ちた。歳をとってないだけ人の感情を機微に、読み取れるのかもしれない。いつもはフランクな先生の慧眼が光ったことは、僕が無理やり作った能天気な心持ちを底の底へと落としていった。
けれど、そこは流石の僕だ。いや、自分の誇張して評価することは好きじゃないから、こんな言い方をしたくないけれど、それでも口ごもることなく、「暑いからです」って言えたちょっと自分を褒めてあげたい。先生とか目上の人とかと話すことが、苦手な自分がきっぱりとそう言えたことは、誇りが持てる。まあ、小さな誇りだけれど。けれど、そのおかげで僕の心地の良い気分の割合は、五割くらいになった。嬉しいことだ。なにに勝ったわけでも無いけど……。
まあ、兎にも角にも僕は無事に自分の仕事をやり終えた。苦手な教務室の前で、一気に暑さを感じる最悪の状況だけれど、一仕事終えた後は、若干自分と空間を俯瞰することが出来た。
校舎の中は、もう日が暮れはじめるというのに活気にあふれる声、吹奏楽や軽音楽の楽器の音、教室で騒いでいる人の声で満ちている。やっぱり、僕しか先輩とあの憑き物のことを知っている人はいないんだと、日常の騒がしさがありありと見せつける。もしも、憑き物が居て、それが先輩に憑りついたなんてことをこの校舎に居る人が知っていたら、今頃こんな平然とした日常を送れていないはずだ。きっと、迷信の騒ぎと野次馬の騒ぎで、コンクリート造りの校舎が震えるはずだ。けれど、校舎内は普通の時間が、変わらない時間が流れている。
「まあ、だからどうしたってことなんだけれど……。というか、僕以外の誰にも知られていないっていうこの事実をありがたがらないと。変な騒ぎになるくらいだったら、隠れている方が何百倍も良いはずだ」
痛々しい俯瞰は、ついに僕の口からボソッと漏れた。無意識の呟きだ。気を付けないと、誰かにこんなことが聞かれてたらマズイ。変に僕の周りを勘ぐってくるかもしれない。いや、こんなのは自惚れに過ぎないな。
僕は、ただ大事に至らずにこの大変な事柄を解決したいだけなんだ。だから、どんな些細なことでも口に出しては駄目だ。心の中に、秘めておかないと。
なら、とりあえずは帰ろう。帰れば、一人の空間だ。一人の時間だ。色々と言いたいことも全部吐ける。それに、茹で上がるくらい暑い空間に居たら頭が煮えくり返る。それなら、早いこと暑さから逃れられるオアシスに出向こう。
茜色に染まる廊下と苦手な教務室の扉から踵を返す。胸には、重苦しく、軽い感情を抱きながら。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
やっぱり外は、校舎内より涼しい。
まあ、涼しいと言ってもほんの少しだけの話だ。なんたって、地面は熱せられたコンクリートなんだから、割と涼しい風が吹いても直ぐに熱せられる。それに、今は玄関の屋根が影を作ってくれているから涼しいのもある。けど、僕が思うに、こんな暑い世の中なら少しくらいは未舗装を道を残しても良いと思う。蒼穹にも茜色の空にも、川にも虫にも合うし。自然のままに放っておくのが一番だと思う。でも、そうしたら雨で道がドロドロになるし、今日みたいにカラッと乾いた日なら砂が舞うし、道は凸凹で歩くにも車に乗るにも不便を感じなきゃならないのか。何とも難しい話だ。
「いやいや、そんなことはどうだって良いんだ。早いことうちに帰ろう」
また、変なことを考えてしまった。
こんなことで、時間を潰しているくらいだったら早く帰ろう。下校時間までまだ十分くらいあるし、こんな微妙な時間だったら誰とも会わなくて済むだろうから。時は待ってくれない。なら、僕は歩き出す。誰とも会いたくないんだから。
だけど、一僕の希望はサッと打ち砕かられるらしい。
「あんこ、今日は早いのね」
数段先の地面目掛けて僕が、薄ら汚れた玄関の階段を下がろうとする時、後ろから聞き馴染みのある声が聞こえた。
タイミングは良し。ただ、それはいつもの日々だったらの話だ。普段通りの何の変哲もない日だったら、僕は榊と会うことに何にも感じかったと思う。いや、多分それなりに嬉しかったとか楽しいとか思うと思う。
けど、今のタイミングは最悪だ。本当に、空気の読めない出会いだ。しかも出会ってしまったら、立ち止まって話を聞かなきゃならない。流石に、それを無視できるほど僕は腐ってない。
はあ、全くやってられない。
全部、僕の都合に過ぎないけど。
「……はあ」
何の前触れも無い榊の登場は、僕の口から溜息を吐かせた。これもやっぱり、普段だったら絶対にしない。陽太だったらするかもしれないけど、榊には絶対にしない。榊というよりも、女性全般に僕は失礼な対応をしないようにしている。椿さんは、除くけど
随分と自分勝手だな僕ってのは。まあ、でもこれくらいの自己中は許してほしい。大体、自己中心的な思考が無い人間なんていないはずだ。
「ねえ、ちょっと。ねえって。あんこちゃん」
さっきから、後ろで榊が何か言ってるけど、榊には僕の億劫さを理解できなんだろうな。いいや、自分の心持ちを察して欲しいって願う方のは、何ともおこがましいことだ。何だか、自分が嫌になるな。あれだけ人の心を知ることを嫌悪していたのに、今となっては榊に自分の内心を知ってほしいなんてさ。二重肯定の行き過ぎだ。
僕は自分のことを嫌い過ぎなのかもしれない。こんなに、自分を嫌悪することは良くない。良くないはずだ。ネガティブシンキングをするくらいなら、陽太くらい能天気で居た方が良いんだ。そっちの方が、世界は広く見えるだろうし、世界が明るく見えるだろうから。こんな重苦しい心持ちも無くなるだろうから。
「ねえって! 杏子!」
「イテッ!」
ネガティブを帰る思索は、榊のチョップで振り払われた。
暴力的だ。粗暴な女性は、モテないと思う。特に、陽太には。あいつは、それなりの淑女が好みだからね。多分、姉がアレだからだと思う。椿さんなんて言う結構な無茶をする姉を持ったら、それは淑女を愛することになると思う。僕だってそうだと思う。まあ、僕に姉は居ないし、妹も居ないから捻じれることは無かったけどね。気のままの恋が、一番だ。
うん? なんだか気が楽になったな。榊には、感謝だ。ちょっと暴力的なやつだけど、根は良い奴だ。散々注意したあだ名で呼んでくるのが、玉に傷だけど。本当に。
ともかく、僕は榊に感謝しないとだな。
「ありがとう榊。おかげで、色々と気持ちが軽くなったよ。でも、陽太は粗暴な女性をあんまり好かないから気を付けた方が良いよ。それか、今みたいにあいつの見て無い所でちゃんと粗野な仕草をすることかね。だからあんまり、人に見られないところでやろう!」
親指をグッと立たせて右こぶしを僕は、榊の目の前に突き出した。身長が僕よりも小さい榊の眉間に拳が行ったのは、良かった。自分でもこんなことになるとは、思ってもみなかったけどこれなら絵になるし、僕の感謝の気持ちがより良く伝わるだろうからね。
だけど、僕の感謝の気心は上手く榊に伝わらなかったらしい。榊は、学生鞄を右手に左手に亜麻色のトートを提げて、俯いて、肩を震わせている。一体、何を思っているんだろう?
疑問符を浮かべる僕に、俯いていた榊はバッと顔を上げた。榊の瞳は相変わらず綺麗な黒くて、大きくて、綺麗な瞳だ。引き込まれそうになる。それに、瞳が揺れていることがなおさら瞳の美しさを映えさせる。本当に、映える。あと、頬も赤らんでいる。でも、どうしてだろう?
疑問は尽きない。だけど、その解答は直ぐに返ってくるらしい。しかも、行動で。
「馬鹿か!」
「痛い!」
榊は右手の学生鞄を放すと、勢いよく手を振り上げた。それから、その勢いのまま僕の方に掌を向けてきた。そして、後は流れのままにビッタン! 僕の頬は良い音を立てて、叩かれた。
痛い。やっぱり、暴力的だ。
「あんた、朴念仁が過ぎる。だから、白銀の姫に何時まで経っても告白ができないのよ。この馬鹿! 大体、私の言動からよくもまあそんなことが言えたわね。あり得ない! 頭が悪いの!? それとも、おふざけでやってるの? もし、わざとだったらもう一度打つわよ! 今度はグーで、思いっきり!」
「ストップ! 僕は何も、お前を怒らせたいわけじゃないんだ! だから、その拳を抑えて。というか、思いっきり僕を殴る気だったよね! 止めて、痛いのは嫌いだからさ」
「……死ね」
怖い。怒った女性って、こんなに怖いんだ。
ビックリだ。というか、僕は何か榊の琴線に触れることを言ったのかしら? そんな失礼なことを口走れるほど、僕は度胸の無い人間だと思うんだけど。それとも、無意識のうちに榊を怒らせてしまったのかもしれない。いいや、絶対にそうだ。だって、起こらせた覚えが僕には一切ないんだから。
まあでも、拳を下ろしてもらえて本当に良かった。ドスが利いたたった一言の暴言は、とてつもなく重かったけれど、暴力の痛さに比べれば大したことは無い。榊の暴力は、ちょっとしたものでも痛いからさ。証拠に、さっきチョップされたところは、まだ痛む。だけど、そんな痛みを棚に上げて何も言わないのは違う。怒っているんだったら、謝らないと。
「ごめんなさい」
「ウザい。そうやって、まともに謝ろうとするところが本当に癪に触る。まあ、でも、良いわ。多分、あんたは頭の中で自分の失礼さを理解していないでしょうし。流石の私も、空っぽの人に怒るほど見苦しくは無いわよ。感謝しなよ、私に」
目を細めて、腕を組みながらため息を吐くように榊は僕に言った。
随分と高慢ちきな言葉だ。でも、実際僕はどうして榊が怒っているのか、分からない。悔しいことだけど、本当に榊の言う通りだ。
けれど、呆れ終えると無い胸を張って堂々とする姿は、少しだけイラッとする。
「ありがとう」
でも、やっぱり僕も感情的になることはない。率直に、ありがたさだけを濾過して榊に、憎たらしくないように伝えるだけだ。
僕の言葉は、榊に伝わったと思う。榊は随分と満足そうな表情になっているんだから。違っていたらそれは、僕もちょっとくらい苛立ちを吹き溢すと思う。
「当然よ」
「仰せのままに? こんな言葉で良い?」
「あんこ、それを人に聞いちゃ駄目よ。自分で考えないとね、それが私とか他の女の子を満足させる秘訣よ。何でもかんでも、私に頼っちゃ駄目よ。まあ、それは私にも言えることなんだけど。あんこにばっかり頼ってないで、自分から陽太に話しかけないと」
驕りの榊化と思ったけど、どうやらそれは僕の思い違いだったらしい。それとも、また僕がロクでも無い言葉を言っちゃったのかもしれないけど。とにかく、榊はいつも通りの強気な美少女に戻った。それも、中々向上心のある美少女にだ。
腰に片手を遣って、顎先に手を当てて考え込む榊の姿はまるで学者のようだ。僕は、学者なんて見て事が無いけど、考え込む姿は学者風だ。恋する女性っていうのは、こんなインテリジェンスの雰囲気を見せるなんて言うのは、新発見だ。それに、美しい。瞳は思案に満ちた賢者の慧眼となり、血色のいい程よい厚さの唇から漏れる小さな呟きは妖精が紡ぐ詩のようだ。茜色の空が、なおさらそんな榊を神秘色に際立たせる。
すっかり、僕の重苦しい心持ちは無くなった。代わりに、恋する乙女に対する神秘的な心持ちになった。それも、温かい。最初は最悪だと思った榊との出会いも、こうしてみればいい出会いだった。やっぱり、シリアスなことから離れた友達とくだらない会話をするのが一番心持ちを軽くさせる。心の安らぎってやつだと思う。
なら、僕はこの安らぎと美しさを甘受しよう。これこそが一番だ。僕は、恋に悩める一人の乙女の美しい顔を眺める。自然と頬が和らぐ、目も朗らかになったと思う。安らぎこそ一番。
「キモイ。何回も言ってると思うけど、私はあんこに興味ないから」
でも、僕の安らぎは榊の思いがけない一言でぶち壊された。多分、榊が僕の言葉に感じたことを今僕も感じている。気を付けよう。何べんも感じてるし、何べんも胸に刻んだけど、今度こそ気を付けよう。肝に銘じよう。頑張る。
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