9
僕の黒い髪が風になびく。さらさらとした感覚が、きめ細かい髪の感覚が僕の耳を掠る。自分で言うことは、少し傲慢かもしれないけど、自慢の髪の毛だ。やっぱり、母さんの残してくれた遺伝子は偉大なものだ。親父の遺伝子の影響も、良いかも知れないけど、母さんの遺伝子が一番だと思う。親父の髪質は、もじゃもじゃだし。ワカメみたいだし。
いや、こんな自画自賛を今はしてる場合じゃない。本当に、現実から逃げたいけど、今が踏ん張り時だ。これさえ終えれば、僕はひと時安堵を手に入れられるんだから。頑張ろう。踏ん張ろう。ブラックな労働環境のスローガンみたいだけど、今僕に必要なのは元気付けの言葉だ。例え、それが薄っぺらくとも僕には必要なんだ。
風は青くて心地が良い、陽は茜色で綺麗だ。けれど、背後の憑き物は邪悪だ。真っ黒だ。とにかく僕は、この邪悪に立ち向かわないと。というか、一番体力を使うのは先輩なんだけれど。でも、僕も多くの気力を使わなければならない。この竹林の青さと陽の色を目に焼き付けて、邪悪に立ち向かおう。
気怠い気持ちをそのままに、僕は意を決して振り向いた。そこには、床にペタッと座り込んで扇風機の風を独占し、白銀の髪を風になびかせて、目を閉じて心地よさそうにくつろいでいる。先輩の体だけ合って、その姿は美しい。女性にしては背の高い先輩の長い健康的な足に、僕の目は自然と向かってしまう。うん、不躾だ。それに、本題からは大いに逸れている。まあ、僕としてはこのまま先輩が見せることの無い貴重な姿を目の保養として見たいんだけれど……。
「ふふふ、この娘の体を堪能したいのか? なら、頑張りたまえよ。儂は、お前に抱かれるつもりは無いからねえ」
扇風機のせいで、震える声は少しだけ面白かった。けれど、その紡がれる声は僕の肝をギョッと冷やした。冷や汗が垂れる。やっぱり、怪異の前でうつつを抜かしちゃ駄目だ。常に凛と、緊張させておかないと。
でも、先輩の体だからそんな緊張は続かない。結局、声の高さが違っても、仕草が違っても、雰囲気が違っても、見た目は先輩なんだ。だから、緊張なんて続かない。初恋の先輩の姿を前にして、心を強張らせることは出来ないんだ。胸が酷く締まることがあっても、結局それは恋の締め付けなんだ。緊張なんかじゃないんだ。それは、悩める恋患いでしかないんだ。それも、解決するには、酷く独善的なことをしないと解決しない。いや、一方的な愛は独善なのか? 誰の恋だって独善から始まるものじゃないのか? それに……。うん、今はこんなことを悩んでいる時じゃない。
僕が、今しなければならないことは心にピンっと何か一つ糸を張ることだ。確固たる線をそこに、引かなきゃいけない。憑き物と先輩は、全く違う存在だっていう線引きを……。
一つの隔てりを造るには、少し時間がかかる。けれど、僕はそんな時間を稼げる言葉を紡ぐことは出来ない。それに、心を覗かれているだろうから例え時間を稼げる言葉を紡げたとしても意味が無い。それなら、端的に僕が思った言葉を紡ぐ。反骨精神を忘れないね。
「余計なお世話ですよ」
「初々しい奴め。お前が考えているほど、恋は複雑じゃないよ。もっと単純なものさ。それに、儂とこの娘の線引きも要らないよ。お前は儂を目の前にして緊張しなくて良い。儂は、少なくともお前の心を覗けるんだから、線を引くだけ、心掛けるだけ無駄だよ。どの道、初恋の呪縛から逃れられないんだからね。だから、お前は儂を喜ばせるという心持ちを持っておけば良いんだよ。せめて儂と会っている時は、努々その思慮を忘れるなよ少年」
「ええ、分かりましたよ」
僕の反骨精神は自己満足に過ぎないみたいだ。憑き物からしたら、取るに足らない犯行に過ぎないんだ。でも、取るに足らないと言っても弄ぶことはしなかった。嘲ることもなかった。むしろ、包み込むような言葉を、扇風機から顔を離して悪戯っぽい笑みと共に、掛けてくれた。先達の妙に信頼感のある言葉は、僕の心をほぐした。
僕はこの怪異と、どういう関係になりたいのか分からない。恋の協力者? 恋の障壁? それとも、友達? こんなよく分からない関係性は、何なんだ?
いや、判断を下すのは時期尚早だ。僕は、これから否が応でもこいつと付き合って行かなきゃならないんだから、時間を一緒に過ごし行く中で判断すれば良いんだ。ゆっくりと、判断していけばいいんだ。
兎にも角にも、やるべきことをさっさとやってしまおう。時間が経てば経つほど、こういうことは言い辛くなる。そして、蔑ろになる。最終的に、口に出せなくなって状況はどんどん悪化していく。そうなるんだったら、早いこと解決すべきだ。
僕は、再び扇風機に顔を向けて涼しい風を独占する憑き物に真剣な視線を向けた。それが、他人から見て真剣な眼差しかどうかは分からない。けれど、僕なりに出せる真剣さは全部出しきっている。
「あなた、やるべきことは分かっているんでしょう? なら、早いこと済ましてしまいましょう」
真剣の眼差しは、僕の言葉にも覇気を与えた。今までの弱腰とは違う。僕は、芯のある強張った声で憑き物にそう言った。
僕の真剣な言葉をくつろぎ尽くす憑き物が、どう感じたのかは分からない。僕が言葉を全部言い切ると立ち上がった。それから、髪を手でふわりと舞わせて、妖しい笑みを浮かべた。こんな動作から、憑き物の心情は読み取れない。けれど、僕の心情は覗かれているんだから伝わってるはずだ。
憑き物は、立ち上がって少しの間、何も言わなかった。僕も何も言わなかった。部屋に、鳴る音は古い扇風機の騒音だけだ。古いだけあって、騒がしい。騒がしさは僕らの間にある少しだけ張った空気をまくし立てる。静まり返った部屋よりも、生活の音が鳴っていた方がどうやら緊迫感は強まるらしい。
だけど、息苦しさを覚える空気は生まれる時も一瞬だけれど、壊れる時も一瞬だ。僕と憑き物との間の空気は、憑き物のほくそ笑みながら紡ぐ妖しい声で壊された。
「ふふふ、そんなに気を張ることじゃないよ。大体、この娘は儂に憑りつかれていることをもう知っているよ。というか、儂が憑りつこうとした時、この娘っ子は自分から胸の扉を開けたからな。だから、お前はそう気張ることは無いよ」
扇風機の音が聞こえなくなった。
先輩は、この怪異を自分で受け入れた?
空気が弛緩されると、僕の頭は真っ白になった。怪異の言葉を僕は、そのまま飲み込めない。
「お前が驚くことも無理は無いよ。儂とて驚いたからな」
「先輩は望んであなたを?」
両手をパッとあげて、わざとらしく驚いたふりをする怪異に僕は震える声で尋ねた。弱腰にならないようにと、気を遣っていたけれど、そんなことを言っていられなくなった。後頭部をドカン! と殴られたような衝撃の一言に、耐えられるほど僕の精神力は強くない。
明らかに動揺する僕に、怪異は両手を下げた。それから、妖しい笑みをホッと一息吐いて崩した。それから、僕の下まで歩み寄ると、僕の頬を右手で摩り始めた。
先輩の柔らかさだ。温もりを感じる。けれど、僕はそんな柔らかさと温もりの体の主に動揺している。未だ、頭は真っ白で、足は震えて、口も震える。
先輩は、一体何を……?
「そう言ったろう。この娘は、儂を好き好んで受け入れた。それは、真実だよ。けれど、儂の口からどうして儂を受け入れたか、その理由は言えないよ。儂がお前と契約したように、この娘と儂との契約だからな。内面を言わない代わりに、体は黄昏の間だけ自由に使っていいっていうね。これだけは、この娘、いいいや、八重桔梗が伝えて良いと言ってたからな。だから、伝えておくよ少年」
「……そうですか」
先輩も契約をした?
けど、その契約はどっちかというと先輩が有利な契約だ。だって、先輩は自分からこの憑き物を受け入れたんだから。なら、先輩にとって何のデメリットも無い。むしろ、憑き物にとってはデメリットだ。多分、この怪異はそこそこの力を持ってるはずだ。何せ、人の心を覗けくらいだからそれなりの力を持ってるはずなんだ。だから、その気になった先輩の時間を制限なしに奪えるはずなんだ。それなのに、この憑き物は、先輩に有利な条件で契約を結んだ……。
一体、どういうことなんだ? 先輩は、憑き物は、一体何を考えているんだ?
「まあ、悩めよ少年。とりあえず、今から八重桔梗に変わるから話をしてみろ。安心しろ、少年。お前の愛の言葉は、聞こえてないからな。その言葉は、目の前の儂という困難を越えて、時が来て、お前の心がそれに耐えうるようになったら、八重桔梗…、桔梗に掛けてやれ。それが、男というものだからな」
頭が真っ白で、先輩と憑き物についていろいろ思考を巡らせている僕に、憑き物は優しく微笑んだ。それから、一つの助言をくれた。その言葉は、ありがたかった。
けれど、僕の頭の整理はついていない。そんなまま、僕は先輩に顔を合わせることは出来ない。僕は体裁が保てない。いや、元々先輩の前で体裁なんか保てていないから、そんなことは良いんだ。うん、でも、僕は今の僕を見せたくない。先輩の中身を探ろうとする独善的な自分を、本当に傲慢な自分を見せたくないんだ。
「それも、大丈夫だよ少年。硬くなる必要は無い。お前が抱くその感情は、当たり前のことさ。好きな人の心を知りたいっていうのは、恋する者、誰もが抱く傲慢だからさ。儂が保証するよ」
憑き物は僕の右頬を摩って笑ってくれた。
暖かい。
これが、母親? いや、僕は怪異に何を抱いているんだ。おかしい、僕がこんな怪異に母親の温かさを感じるなんて……。
「どうしたの杏子? 変な顔よ。なに、私にあえて嬉しくないの?」
「いたいへふ……、しぇんぱい」
僕が落ち込んでいると、意識をいつの間にか取り戻した先輩がさっきまで摩ってくれていた右頬をつねり始めた。普通に痛い。
でも、その痛さは僕が感じた変な暖かさと独善的な考えを吹き飛ばしてくれた。僕は、いつも通りの思考になった。けれど、憑き物の言う、不可解な先輩の言動に僕は酷く不安を覚えて、痛がる表情の皺の中に不安を見せる。ただの不安なんだ。
「ふふふ、杏子。そんなに私を心配しなくても大丈夫よ。私は、私の中に居るこの梟さんと中ようやっていけそうだからね。それに、私にとって梟さんは、貴女や椿くらい信頼できる友達よ。まあ、まだ会ってから数十分しか経っていないのだけれどね」
僕の不安と痛さを他所にして先輩は、僕の右頬から手をパッと離して、クスリと笑った。そんな知的に笑う先輩の慧眼は、流石だ。僕の表情筋の中に僅かに見せる不安を一瞬にして看破したんだから。僕は、そんな先輩の言葉に肝を冷やした。けれど、その後に懐かしそうで寂しそうな少し複雑な表情を浮かべながら、憑き物との信頼を語る先輩の落ち着いた声を聞くと、冷やされた肝は元に戻った。
ただ、元に戻ったとは言え、それは先輩が紡いだ言葉に安心したという訳じゃない。むしろ、先輩の言葉の無いようには、より不安を覚えた。何せ、怪異のことを『友達』と言ったのだから。人ならざる存在と仲良くなった、絆を結んだ、そんな人の道を外れたことに安心を覚える訳が無い。
先輩は友達が少ない。いや、少ないどころか、まともに口を利けるのは僕と椿さんくらいだ。というか、僕が文芸部に入るまでまともに会話を交わせていたのは椿さんだけだ。それくらい人を信用してない。例え、好意を持って話しかけてくれる人が居ても先輩は素っ気なくあしらってしまう。冷たい素っ気なさを生んでいるのは、先輩が色々と特別だからだと思う。顔も、頭も、スタイルも、何から何まで他の人から、凡人から見たら特別な人だ。だから、多くの人は先輩に色眼鏡を掛けて、勝手な解釈をしてくる。悪い方にも、良い方にも。そうして誇張された事柄は、先輩の心を段々と孤独にさせて行った。何せ、色眼鏡を掛けて自分を見てくる大多数の人は、自分の中身を見るんじゃなくて表面的な美しさや、公表される数字だけで自分を判断してくるんだから。白銀の姫なんていう大層な通り名を勝手につけられて、憧れ、嫉妬、肉欲、羨望、色々な視線を向けられる人の心は少なからず縮んで、冷めてしまう。子供のような無邪気な心は、すっかり閉ざされてしまう。
でも、中にはそんな閉ざされた心を開けられる人も居る。驕りかもしれないけど、それが僕であり、椿さんだ。多分、陽太と榊も先輩と仲良くなれるはずだ。陽太も榊も、僕を見ても何も言わなかったからね。僕の女性らしい出で立ちを見ても、陽太は個性として認めてくれたし、榊はからかってくることはあっても本心では認めてくれている。高校に入って初めて会った榊が掛けてくれた最初の言葉も、『綺麗』だったし。
とにかく、先輩は滅多に人と仲良くならない。その心の扉を開いてくれいない。テレビに出てるイケメンタレントだろうと、奢侈を過ごす大富豪だろうと、自分の芯を見てくれる人じゃないと先輩は心を開いてくれない。そんな人が、どうして……。
「杏子? 大丈夫よ、私は大丈夫。梟さんは、私を傷付けないから大丈夫よ。むしろ、私にとって心強いお母さんみたいな存在だから。友達っていたけれど、母親みたい。どっちにしろ、私はこの梟さんが好き。とっても好きよ」
「憑き物は、先輩にとって母親みたいな存在なんですか?」
「憑き物って言い方は、失礼よ。梟さんは優しいのよ。いえ、それは一方的な信用かも知れないわね。盲目は、良くないわ。とにかく、私は梟さんが温かい存在だということよ。貴方と椿と同じくらい温かい存在。それだけは確か。というか、私に母親はいないから、母親の温かさなんて本当は分からないのだけれどね……」
「そうですか……」
「ふふふ、そんなに暗くならないで。本当に、私は大丈夫だから。梟さんに騙されている訳じゃ無いのよ。これは、私が選んだことなの。まあ、色々と整理がつかないこともあるかもしれない。だから今日は帰らせてもらうわ。バイバイ、杏子」
先輩の家族関係と憑き物との関係に口を濁す僕とクスリと笑って、手を振って、颯爽と部屋を去る先輩は、まるで違う。どうして僕は、憑かれる本人よりも本人を心配しているんだろう? いや、分かりきってること。僕が好きだからだ。先輩を心から愛しているからだ。
なら、僕は先輩の意志を尊重する……。いや、駄目だ、いくら先輩があの憑き物と絆を紡げたからと言って、知りもしない母親の温かさを知れたからと言って、先輩の中に怪異を残して良いはずがない。僕は、黄昏の時間だけあの怪異を楽しませよう。けれど、それと同時に先輩自ら受け入れた怪異を祓う方法を見出そう。
あまりもの独善だ。でも、独善だろうがなんだろうが憑き物と人間が一緒に居て良い訳無いんだ。それに、憑き物に身を任せて辛い現実から逃げるのは、人間に対する冒涜だ。現実は辛い。けれど、だからこそ素晴らしいんだ。色々な人間が織り成すこの世界は美しい。ただ、先輩が知らないだけなんだ。恋する人の瞳、青春の香り、馬鹿な無駄話、そんな何てことの無い美しさがこの世界には満ちているんだ。けれど、先輩はそれを知らない。僕は、先輩にそれを知ってほしい。そしたら、自分の大切な時間を、怪異に任せるなんて考えは浮かばなくなるはずだ。
それに、なにより、僕との時間を大切にしてほしい。
独善を抱きながら、僕は扇風機の電源を消し、窓を閉めて、書庫から持って来たあの本を鞄に入れて部室から出た。
茜色に暗くなった古めかしさと相まって旧校舎は、哀愁を含んだ不気味だ。
ご覧いただきありがとうございます。
もし、この作品を良いと思った方は広告下の☆マークを押して頂けると作者としては嬉しい限りです。




