2-4 美也子・4「美也子大激怒」
昨晩は、商館の大宴会だった。
ギルは酔いつぶれるほどではなかった。
ただ、自宅まで歩くのが面倒になり、より近場である事務所のソファーで眠った。
昼過ぎに起き、雑務を片づけてから、夕方になって自宅へ戻る。
駐車場に、見慣れた乗用車が停まっていた。
そうか。
今日は美也子先生が来る日か。
「ただいまー」
玄関を開ける。
食卓には、美也子が一人で座っていた。
バネッサの姿が見えない。
何だ。
何か、嫌な予感がする。
「ギルさん」
「はい、先生」
「私は今、猛烈に怒っています」
「はい?」
美也子は、食卓に置いた両のこぶしを、ふるふると震わせていた。
「どうして、女の子を。バネッサちゃんを、笑いものにしたんですか!」
「ええ? 何の話ですか?」
ギルには、まったく身に覚えがなかった。
「会社のみなさんの前で、笑いものにするなんて」
「ちょっと待ってください。話が見えない」
「さっきから部屋に閉じこもっているんですよ、バネッサちゃん」
「美也子先生、お願いします。落ち着いてください」
美也子は立ち上がり、二回、ドンドンと地団太を踏んだ。
「もっとデリカシーを持ってください!」
「えええ」
「お腹の虫のおかげで、バネッサちゃんと出会えたと、言いふらしたでしょう!」
ギルは、口を半開きにしたまま固まった。
◇ ◇ ◇
ギルは、森の中で遭難していたバネッサと出会った。
木陰から様子を窺っていたバネッサが、ギルの作るシチューの匂いにつられて、盛大に腹の虫を鳴らした。
それを聞いたギルが苦笑し、彼女を食事に誘った。
それだけの話だ。
ただし、その話は酒の席におけるギルの鉄板ネタでもあった。
バネッサを紹介する時、ギルはよくこの話をした。
最初は相当な野生児だった。
だが、今ではここまで成長した。
そんな自慢と、照れ隠しと、少しの悪ふざけが混ざった「出会い」の話だった。
今回、大仕事が成功し、手伝ってくれた採取師たちを集めて宴会を開いた。
参加者のほとんどは、ギルと居酒屋で飲んだことがある。
当然、ギルとバネッサの出会いのエピソードも聞いていた。
バネッサは普段は酒の席には参加しないが、今回は特別に参加していた。
ニコニコとジュースを飲むバネッサは、この集団のマドンナというより、マスコットに近い。
全員にとって、バネッサはギルの妹か、娘のような存在だった。
男ばかりの宴席。
酒が入り、気が大きくなった採取師の一人が、軽い調子でバネッサをからかった。
「バネッサ、ちゃんと食ってるか。今日は腹の虫を鳴らすなよ」
周囲が笑った。
◇ ◇ ◇
はらのむし?
バネッサが知らない言葉だった。
ただ、周囲が笑っている。
だから、とりあえず笑っておいた。
笑い声の中で、他の酔客の言葉が聞こえた。
どうやら、自分はその「はらのむし」のおかげで、ギルさんと出会えたらしい。
よく分からない。
宴会は終わった。
ギルはそのまま二次会へ行くとのことだったので、バネッサはギルの自宅にある自室へ戻った。
ベッドに横になる。
宴席で聞いた言葉が、頭の中に残っていた。
はらのむし。
明日、美也子先生に聞いてみよう。
◇ ◇ ◇
翌日。
美也子から意味を教えられたバネッサは、真っ赤になって固まった。
それから無言で立ち上がり、自室へ戻った。
そして、閉じこもった。
その後が大変だった。
機嫌がなかなか直らないバネッサについて、ギルが商館の弟子や採取師にぼやいた。
それを聞いた体育会系ばかりの連中は、まずいと思ったらしい。
バネッサに会うたび、妙に丁寧な顔で頭を下げるようになった。
「あの時は笑ってすまなかった」
「悪気はなかったんだ」
「今度、飯でも奢るから」
そのたびに、バネッサは宴会のことを思い出し、家に戻って閉じこもった。
謝れば謝るほど、傷が開く。
ギル商会の男たちは、そのことに気づかなかった。
そして、美也子先生がギルの事務所に乗り込んだ。
ドンドンと地団太を踏み、全員に説教をした。
「あなたたち、いいかげんにデリカシーというものを覚えてください!」
事務所中の男たちは、全員、背筋を伸ばした。
■後日談:風物詩
ギルの事務所の扉が、バーンと音を立てて開いた。
「おじゃまします。ホーネンさんという方はおられますか!」
またかよ。
事務室内の全員が、いっせいに下を向いた。
書類を確認する者。
帳簿に目を落とす者。
急に忙しそうに棚を整理し始める者。
全員が、手が離せない振りをしている。
古参の事務スタッフが、やれやれと立ち上がった。
「美也子先生、こんにちは。法然さんは採取師でして、現在は山へ行っております」
「そうですか。では、上司の方をお呼びください」
「えっと、上司というか、契約上は……ギルさんになるの、かな」
「分かりました。ギルさんはどちらですか」
「えーと……本日は、夜にならないと……戻りません」
「……そうですか。では、出直します。失礼しました」
美也子先生は、きっちり一礼して帰っていった。
扉が閉まった瞬間、事務室の全員が安堵の息を漏らす。
新人スタッフが、先輩に小声で聞いた。
「なんすか、今の人。えらく別嬪ですが、無茶苦茶怒ってましたね」
「ああ、美也子先生っていってな。別名、正論怪獣ってやつだ」
「は?」
「バネッサの家庭教師だよ。で、バネッサちゃんを泣かせたとか、変な言葉を教えただろうとかで、たまに怒鳴り込んでくるんだ」
「ギル社長、今、部屋にいますけど……取り次がなくて良かったんすか」
「あの人があの剣幕で来たら、居ないって言えって言われてるんだよ」
「はえー、まじっすか。あの社長でも苦手な人っているんだ」
先輩スタッフは、しみじみと言った。
「社長、あの人の正論攻撃には勝てねえんだよ」




