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4-3 虚空(こくう)

昼前に、バネッサはベッドの上で目を覚ました。


泣き止んだ後、ギルさんが何かの薬をくれた。

飲んだら急に眠くなって、ベッドへ向かったところまでは覚えている。


食卓に手紙が置いてあった。


――でかけます。やりはつかうな ギル


大きな字の横に、下手くそな絵が描いてある。


槍を持った棒人間。

その槍に、赤ペンで大きなバツが書かれていた。


ギル直伝のチャーハンを炒めながら、バネッサは今朝のことを思い返す。


久しぶりに、槍が崩壊した時のパニック状態になってしまった。


今では、あの発作の原因が槍だと分かっている。

一度落ち着けば、その後まで引きずることはなくなった。


でも、あの姿を見せたのは恥ずかしい。


……ギルさん、分かってくれたかなぁ。


顔が腫れぼったい気がして、洗面所へ向かう。


鏡を見ると、目の周りが少し赤く腫れていた。


今日は美也子先生が来る日だ。

先生が来るまでに治るといいけど。


◇ ◇ ◇


ギルが家に戻ると、美也子先生がバネッサの髪を乾かしていた。


また黒く染め直してくれたらしい。


バネッサの表情は、もういつも通りに見える。


夕飯はアジの開きだった。

ギルの好物だ。


バネッサも、にこにこと美味そうに食べている。


今朝の騒ぎなどなかったかのような、平和な食卓だった。


美也子先生が帰った後、ギルは改めて今朝の話を切り出した。


一番確認したかったのは、あの槍のことを誰が知っているのか、だった。


日本語がまだ不自由なバネッサから聞き出すのは骨が折れた。

それでも、整理するとこういうことらしい。


・転生前は、周りの人も普通に穴から道具を出していた。

・転生後、ギルに会うまで何度も槍を壊して泣いた。ただし、周囲に人はいなかった。

・この家に来た頃、夜寝る前に何度か槍を出した。

・外で槍を使う機会はなく、今朝まで人前で出したことはなかった。


特に嘘をついている様子はない。


知っているのは自分だけらしい。


そう分かり、ギルは少しだけ安心した。


今日の午後、例のマンション周辺でも聞き込みをしてきた。


周辺住人は関わり合いを恐れ、遠巻きに見ていただけだったらしい。


ギルたちが立ち去った後、スーツ姿の男はしばらくして目を覚まし、悪態をつきながら反対方向へ去っていったという。


警察が来た様子もない。


槍を目撃された可能性はある。

だが、特に噂にはなっていなかった。


手品か、見間違いだと思われたのかもしれない。


「バネッサ。あの槍は、俺がいいと言うまで使うな。そして、誰にも言うな」


「わかり、ました」


その後、ギルはバネッサに潜伏と戦闘回避の技術を叩き込んだ。


ギル自身、師匠から何度も教え込まれたことでもある。


「バネッサ。逃げろ。戦う前に、まず逃げろ」


バネッサは、少し迷ったような顔をした。


「……戦わなくても、いい?」

「いい」

「採取師なのに?」

「死ぬより、ましだ」


バネッサは数秒黙り込み、それから、ほっとしたように笑った。


その顔を見て、ギルは思う。


ああ、こいつ。


転生前は戦闘職だったらしいが、本当は戦うのが嫌だったんだな。


◇ ◇ ◇


二か月後。


ギルは、広域の商人たちが集まるパーティに参加していた。


こういう場はあまり好きではない。

だが今回は、情報収集が目的だった。


軽く酔った振りをして、


「なんでも入るポケットとかあれば便利ですよねー」


などと、ヨタ話を振ってみる。


だが、反応は薄い。


名前が売れ始めたとはいえ、ギルはまだ若手の準会員に過ぎない。

商売の話ならともかく、与太話に付き合うほど、商人たちは暇ではなかった。


今日は空振りだ。


もっとも、最初から大して期待していたわけでもない。


ギルは会場の隅に並ぶ椅子へどかりと腰を下ろし、ビールを飲んだ。


「横、いいですかね」


顔を上げると、くたびれた背広を着た老人が、にこにこと立っていた。


「ギルさん、ですよね。最近元気のある若手の商人だと、お噂は聞いてますよ」

「ありがとうございます。えっと」

「ヒイラギと申します。東北の方で、小さな商いをさせてもらってます」


ギルは驚いた。


ヒイラギ。


東北地方最大の商会グループを率いる、雲の上の存在ではないか。


何が小さな商いだ。


「はい、どうぞお座りください」

「ごめんね。ちょっと時間ちょうだい」


ヒイラギは、ゆっくり腰を下ろした。


「あいたた。腰がね、もうね、ボロボロなんですよ」

「……はぁ」


ヒイラギは腰を下ろすと、しばらく世間話を続けた。


鉱山の景気。

若手商人の勢い。

最近の物流費。


話し方は柔らかい。


だが妙に、こちらの呼吸を崩してくる。


「ギルさん、関西の方とも仲良くやってるんでしたっけ」

「ええ。師匠が関西の人でして。丁稚の頃に世話になった人たちには、今でも助けてもらっています」

「関西で修行されたんだね。あっちの人たちは口が悪いけど、優しいよね」


ヒイラギは、にこにこと笑っている。


なのに、なぜか背中に汗が滲む。


そして。


「……そういえば」


ヒイラギが、軽い調子で言った。


「さっき、なんでも入るポッケの話、してましたよね」

「ああ、あれは、そんなものがあれば便利かなっていうヨタ話ですよ」

「私の元いた世界には、あったんですよ」


「えっ」


ヒイラギが、空中に指を走らせた。


うつろな空と書いて、虚空こくう。カバンとかに取り付けてね、何でも入れてたよ」

「へええ。それはすごい」

「こっちへ来る時、その力は無くなっちゃったけどね」

「どんな仕掛けなんですか?」

「私が作ったわけじゃないから、仕組みまでは分からないね」

「……そうですか」

「亜空間とか四次元とか、そういうものを操作できた日本だったんだろうね」

「便利そうですね。今もあったら」

「物流に革命が起こるねぇ」

「確かに」


そこで、ヒイラギの声の温度が変わった。


「……どこで知りました? その虚空の存在を」


ギルは、背筋に冷たいものが走るのを感じた。


「いえ、ヨタ話ですよ。本当に。漫画とか見て、そういうのがあったら便利だなぁって」


「……そうですか」


ヒイラギは、ゆっくり立ち上がった。


そして、名刺を差し出す。


「実際にそういうものを見たり聞いたりしたら、教えてくれるとうれしいな」

「はい、もちろん」

「じゃ、お互い良い商いをしましょうね」

「はい。精進します」


ヒイラギは、好々こうこうやのような笑みを浮かべたまま去っていった。


ギルは、しばらくその背中を見送る。


油断していた。


……あの人は、要注意だ。


しかし。


あの穴は、虚空というのか。


帰ったら、バネッサに教えてやろう。

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