36話
ワンルームの部屋の中は、猫に最適化されていて、人間のスペースは少なかった。いくつも置かれたキャットタワーや壁に打ち付けられた足場では猫がくつろいでいるが、こちらに視線を向けている。
部屋の真ん中に置かれた折りたたみテーブルよりも、猫の餌皿、トイレの方が広いスペースを取っていた。
「適当に座ってくれ。今から飲み物を出すよ。地球人用のものがないから、口に合わないかもしれないけど。」
僕は折りたたみテーブルの手前側に座る。座布団のようなものは一切なかった。
「はい、君の分。宇宙では一般的な飲み物で、地球でいうところの水のようなものだ。」
コップには赤い液体が並々と注がれている。完全に食欲をそそらない見た目だ。僕は一口で半分ほど口に含み、黙って立ち上がる。そして廊下へ歩き出す。
「トイレかい?好きに使っていいが、台所のハンドソープは宇宙人用だ。日本人の肌だと少しかぶれるかもしれない。」
僕はトイレに入ると口に含んだ液体を吐き出すと共にレバーを捻って水を流す。吐いた液体が出す音はトイレの流水音によってかき消された。何が混ぜられているかわかったもんじゃない液体を無警戒に飲み込むほど僕は呑気な性格をしていない。
トイレを出ると台所で手を洗い、持っていたハンカチで拭いてから、もう一度テーブルの前に座った。
「それで、僕に何のようです?」
「本当は他愛もない会話で交流を図りたいところだが、10分だったもんね。本題に入らせてもらう。君は今の段階で、マヤくんについてどう思っている?」
僕は嘘をつかず正直に答えた。
「大切な親友であり、仕事仲間です。」
「それだけかい?恋愛感情のようなものは?」
「僕には恋愛感情がわからないんです。」
「その歳の地球人にしては非常に珍しいね。でも、話を聞く限り、君の中にもあるはずなんだ。恋愛感情が。それに君が気づいていないだけで。」
「気づいていない…。」
僕の中にあって、僕が気がついていない感情。それが恋。
「私は、その感情を大切にしてほしい。上司としてではなくて個人的な感情として。」
本心なのか嘘なのかはわからないが、ヴェリティさんはそう答えた。
「さて、一つ質問をしたから、今度は私が一つ君の知らない情報を教えよう。実はマヤくんはとんでもないエリートなんだ。」
「そうなんですか?」
「彼女は平均的に色々なことができるが、一つだけ並外れた能力を持っている。人間への変身能力の完成度だ。」
「僕からしたら、あなたも同じ人間に見えますけど。」
「それは、私は彼女の8倍の年齢になるまで訓練を受けているからだ。彼女は宇宙年齢で2歳、私は16歳。なのに変身能力はほぼ同じだ。宇宙人は平均的に15歳前後で人間への変身能力を身につけ地球で活動を始める。彼女は史上最年少の地球人への擬態能力者なんだよ。」
「なるほど。初めて知りました。」
「その上で彼女は君に恋をし始めている。地球人への恋愛感情でも史上最年少だ。これは才能や努力では説明できない奇跡なんだ。それを私は素敵だと心から思う。だから大切にしてほしい。」
僕はどこまで本当かはわからないが、全て本心なのだとしたらこの人に対して警戒しすぎていたかもしれない。
まあ、嘘かもしれないので、警戒は解かないが。
「じゃあ、今度はこちらの質問の番だ。恋がわからないというが、君は彼女に対してドキドキしたりなんとも言えない感情が湧き上がったりしたことがあるはずだ。それには何て説明する?」
「恋じゃなくてもドキドキしたり、なんとも言えない感情が湧き上がることはあるじゃないですか。特に名前はないと思います。」
「私も地球人の恋愛について詳しいことはわからないが、多分それに名前をつけたのが恋なんだ。意外と恋は身近にあるものなのさ。」
僕は違うと思った。思ったとおりに話し始めた。
「恋とは、相手を深く理解して、相手の幸福のために動く感情。それが恋だと僕は思います。単なるドキドキとは違うと思います。」
恋について初めて真面目に考えた。でも、いい答えが出せたと自分でも思う。だが、ヴェリティさんの反応は渋かった。
「…君のいう恋は、もはや愛の領域に踏み込んでいると思う。愛のような壮大なものと恋を混同すると、確かに恋をするのが難しくなるかもしれない。」
僕が口を開こうとすると、スマホのアラームが鳴った。約束の10分が経った。
「時間だね。ご協力ありがとう。いい話ができたと思っている。それに、過剰に君に干渉すると担当のマヤくんの機嫌を損ねる。」
「上司なのに、部下の機嫌も伺うんですね。」
「上司だからさ。部下の機嫌を伺うのも仕事のうちさ。」
「…。では、失礼します。」
僕は部屋を出て玄関で靴を履き、階段を降りてアパートを後にする。後ろを振り返るとヴェリティさんが玄関から手を振っていた。僕はそれには反応せずに帰った。




