10話
午後9時45分。僕は出勤中、駐車場の端のほうでしゃがんでいるマヤさんを見つけた。よく見るとその目線の先には大きな野良猫がいる。
声をかけようと一歩踏み込むと、それに気がついた野良猫は機敏な動きで塀の隙間に逃げ込んで行った。
マヤさんと目が合う。
「こんばんは、マヤさん。ごめん、邪魔したよね。」
「冴木さん、こんばんは。いえ、『そろそろ解散にしよう』と言われたところでした。大丈夫です。では、行きましょうか。」
僕とマヤさんは二人で並んで歩き出した。
「さっきの彼女はこの辺りを管理しているんですよ。」
さっきの彼女?と一瞬分からなかったが、マヤさんと話していた猫の事かと気がついた。
野良猫の性別や縄張りについて知っているなんて、よほどの猫好きなのかと思った。
「猫に詳しいんですね。好きなんですか?」
「好きですね、自由気ままに生きているのを見ると、素敵だなって思います。」
少し間を置いて、マヤさんは口を開く。
「話は変わりますが…。冴木さんって年下の私にも敬語ですよね?なんでですか?」
「僕は誰に対しても敬語を使ってます。なぜかって言われると…。」
…何故だろう。気にしたこともなかった。僕は少し考え込み、正しいと確信はないものの答え始めた。
「昔から僕は、同級生や年下に対しても敬語を使っていました。あまり知らない人でも、親しい仲の人でも。」
彼女は真剣な目で聞いている。僕は続ける。
「…多分、理由は一つじゃないんだと思います。相手に失礼にならないように。相手のデリケートな部分に踏み込まないように。相手を1人の人間として対等に思うために。そんな感じ、ですかね。」
纏まりがない答えをひねり出した感じがした。難しかったかな、と思った。ただ、彼女は少し間を置いた後、小さく頷き始めた。
「…なるほどです。少しだけ理解できました。相手を大切に思っているからこそ、なんですね。」
「そういうことです。」
彼女のほうが上手くまとめてくれている。僕よりも僕のことを考えているかのように。
「でも、私には敬語を使わないでほしいです。友達なのに、距離を感じます。」
「とはいえ、癖になっているので直すのも大変なんです。」
そういうと、マヤさんは小指を立てて、そっとこちらに差し出した。
「約束しましょう。冴木さんがどんな口調で私に話しかけてきても、私は冴木さんが私のことを大切にしてくれていることを絶対に忘れません。」
「…。」
「その代わり、冴木さんは私に敬語を使わないよう、気をつけてください。」
あまり対等な約束じゃない気がする…。だが、そこまで言われたらこちらも頑張るしかない。
「分かりまし…分かった。なるべくタメ口を使うようにするよ。」
「タメ口…?」
「敬語じゃない言葉、って意味。」
「なるほどです。分かりました!」
僕はマヤさんの小指に自分の小指を絡め、軽く握った。するとマヤさんは楽しそうにこちらの指を力強く握ってきた。




