第5話 お風呂と議事堂
改めてだが、玉麟は村娘である。
父に馬と土を習い、母に針と料理を習った。
美容と言えば毎日の運動、適度に日焼けを避け、保湿を欠かさないくらいしかない。
全身を石鹸で洗っていた。ありがたいことに父の友人がくれる蜜蝋の石鹸だ。
ごちゃごちゃ思ったが、何が言いたいかと言うと。
「どれ使うの、これ」
露天風呂付きの大衆浴場で三つ液体石鹸が並んでいると、何を使えばいいか分からないのである。石鹸が液体になってるのも不思議だし、玄礼のとこにあった十種類の石鹸に比べたらマシかなと思ったり。
「身体を洗うのはこれよ」
目尻を下げた女は左側の瓶をちょんちょん、とつついた。
「真ん中が髪、一番右が保湿剤」
「あ、ありがとうございます。えっと……髪に保湿剤をつけるんですか?」
「そうよ。洗い流すけど」
「あらいながす……?」
つけたらそのままじゃないの?首を傾げた玉麟に、女はくすくすと笑った。
「うふふ。そうよ。こっちにおいで。洗ってあげるわ」
上からお湯をかけられて、玉麟は大人しく泡でもこもこになっていた。
「……翠朧から来たんでしょう」
女は玉麟の背中を擦りながら言った。
「私もそこ出身なの。都で勤めたくて西都に来たのだけどね。よく手伝ってたのね、お父さんのこと」
その手よ、と女は言った。玉麟の手は豆と、擦り切れた傷がある。染みることに今気付いた。
「はい。私は馬に乗って遊んでばかりでしたけど」
「あらほんとう?」
上からお湯が降ってきた。きもちいい、あったかい……。ぬくぬくしたお湯に浸かって、力が抜けていく。うとうとと眠気が襲ってきた。女は玉麟の背を優しく撫でる。
「ここはもう安全だからね」
「う、うぅ……」
しゃくりをあげて泣き始めた玉麟の声を聞いて、周りの女達も近付いてくる。
「その子、難民の子かい?」
肩に触れながら、女は落ち着くよう何回もなだめる。
「そうよ。話しかけたのが悪かったのかしら。ね、怖くないわ。ごめんね、怖かったわよね……」
「疲れてるんだよ。もしかしたら両親ともはぐれたのかも知れないし」
両親、という言葉に玉麟の何かが堰を切って溢れ出る。会いたい、元気かな。
「お父さぁん、お母さんっ……!うぇぇぇっ……!」
泣くのつかれる、呼吸が、温度が暖かい。重たいまぶたに従って、玉麟は目を閉じた。
大浴場の休憩室。
戦争もあってか、夜遅くになっても人はひっきりなしに訪れる。番頭はてんてこ舞いだ。
兵士達も休憩室で眠る者。新聞を読んで情勢を知る者、笑い本を読んで現状を忘れる者、さまざまがあった。一人の兵士が頭を拭きながら、端に座る玄礼へ問いかける。
「玄礼さまー。聖女様知りませんか?」
「私も先程からお待ち申し上げているのだが」
「遅いの心配ですねー。長風呂派なんですかね?」
「いえ。屋敷の時は、あまりの速さにもう一度侍女が浴槽に浸けたと聞いた」
「もしかして連れ込み」
「そのような趣味はない」
きっぱりと玄礼が言い切ったところで、休憩室に声が響いた。
「どなたか、この子のお連れの人はいませんか?」
女の声をする方を見て、玄礼は立ち上がる。視線の先では何人かの女達が面倒を見ているが、身動きしない姿がある。玉麟だ。死んだように眠っている。
「服は着せたんだけど、一向に目覚めなくて……」
女達の傍に寄って、玄礼は言った。
「その方は私の者だ」
「玄礼様、言い方……」
『玄礼』、という名前に反応して、女達は平に伏した。
「龍門堂様!?」
「あ、あんた……いや、貴方、南部の玄礼様!何でこんなところに!」
「ということは、翠朧はもう落ちているということですか!」
玄礼はこういう時、しかるべき言葉を持たない。ただあるのは思し召しだけだ。
「来たる後、天龍様の思し召しがあるだろう。その御方によって」
玉麟に手を伸ばし、抱きかかえる。女達の面倒のおかげが、湯冷めはせずぽかぽかだ。
「手間を掛けたな」
去ろうとする玄礼に、女達は伏せながら叫んだ。
「龍門堂様、過ぎたお言葉かと存じますが、その娘はたいそう疲れているようです。どうぞ、ご静養を」
「私もそうしたいが休もうとなさらぬ。慈悲深き方だ」
「あの、その方は何者なのでしょうか?」
「この方は……」
言って、良いのだろうか。視線が集まっているのを感じて、玄礼は逡巡した。
あぁしかし、もし告げれば。翠朧が落ちたことも、納得できる者がいるかもしれない。
「大明皇国をお救いになる、聖女様であらせられる」
冷たい風。城門の近く。
ゴザの上で玉麟は目を覚ました。そうだ、昨日は西都に入って、お風呂入って寝ちゃったんだっけ。ちょうど炊き出しが見える。隣に座る玄礼を見て、玉麟は声をかけた。
「玄礼、おはよう……」
「おはようございます。と言っても昼ですが」
「昼!?」
慌てて空を見上げる。ほんとだ。頭上に太陽がある。玉麟は頭を抱えた。
「起こしてくれれば良かったのに!」
「大層お疲れでしたので」
あの河の綱渡りをしたところから記憶が朧気だ。疲れていたのは間違い無い。でも、と言いかけたところで難民達の話し声が聞こえた。
「聞いた?聖女様の沐浴のお話」
「えぇ。傷が治るお湯でしょ。『天命反転』の炎になぞらえて、翡翠色の綺麗なお湯になっているのでしょう?」
知らない。私知らないよそんな話。聖女やってるけど。玉麟は玄礼の服の裾を引っ張った。
「あの、ねぇ。何の話?昨日お風呂に入っただけよ?」
「聖女様が入った湯に浸かると傷が癒えるとか、肌のハリが良くなるとか、若返るとか」
「へ、へぇ……違うと思うけどな……」
玉麟は作り笑いを浮かべて、眉を動かす。
いや替えなさいよ。汚いでしょ。
絶対銭湯の人、水替えなくてラッキーくらいに思ってるでしょ。
とにかくご飯を食べないと。玄礼は察してか、取りに行って戻ってくる。おかゆだ。トウモロコシ粥。
「貴方は皇太子様に謁見したことある?」
「御簾越しに拝謁したことはありますが、それ以外のことは」
「うーん。それ以外は?」
「お話されることはないので、何も分かりません」
じゃあ駄目じゃない。どうやって皇太子様を探すのよ。
「ですが、聖女様は会えば分かるのでは?そこまで心配なさらずとも」
「そうかもねぇ。天龍様のお声が聞こえるかもね……」
聞こえるわけない。
「そもそも、謁見できるかどうかよね」
「出来ますとも。万一無理な場合は私の肩書を使います。私は翠朧省長官秘書ですから」
長官、という言葉に劉先のことを思い出す。
「……長官様。劉先様。どうしてるのかしら」
「西都の議事堂に援軍の嘆願を出してから、所在が分かっていません。ご無事だと良いのですが」
突然玄礼は顔を上げた。目を細めて遠くを睨んでいる。
「どうしたの?何かいた?」
玉麟は粥を置いた。あまりお腹いっぱいにならない。これからずもっと食べる量が減っていくはずだ。早く慣れていかないと。
「こちらを見てくる男がいました」
玄礼は眉間に指を当てる。
「目悪いの?」
「はい。生まれつき。弓は苦手ですが、剣なら南部で私に勝てるものはおりませんので、心配なさることはありません」
どうやら彼は実力を不安に思ったと取ったらしい。玉麟は慌てて首を振った。
「ううん。心配してないわ。強かったからね」
「そうですか。それは良かった」
玄礼は立ち上がる。
「玉麟様、お身体の方は」
「大丈夫よ。えっと、これからは──」
「議事堂へ向かいましょう。兵士を待たせております」
全て手配されている。玄礼はドがつくほどの真面目だが、気遣いが出来ないとか、そういう訳では無いらしい。粥の入っていた器を戻して、二人は歩き始めた。西都は相変わらず賑やかだ。そこに戦乱は、ない。
「現皇帝の孔雅陛下は、あまり政が得意な方ではありませんでした」
玄礼の言葉に玉麟は頷いた。
「そうかもね。何となく先代の遺産を食い潰してるって感じがしたわ」
「病状が悪化し、伏せっていることが増えると側近である内朝 至院泰然と全権を握る承相 欧陽天宇が手を組み、国を乗っ取ったのです」
「殿下はお優しい方だと聞いたわ。摂政であった二人を信じて、名誉職の大博に押し込められちゃったのよね」
「至院と欧陽の手腕には驚くばかりです。私にはとてもそんな器用な真似は出来ません」
それって皮肉なの?玄礼のことだから純粋な驚きだったりするのかな。それにしても。
「玄礼は政治のことに詳しいのね」
「……まぁ、私も官吏の端くれですので」
玄礼は僅かに目を伏せた。話をしていると、議事堂の前に辿り着いた。玄礼は門番に近付いた。
「王太子殿下に謁見したい。私は翠朧省長官秘書、龍門堂玄礼だ。劉先様の命によりこちらに参った」
ちゃんとハッタリも使えるんだ。玄礼の傍に玉麟は侍った。
「こちらは聖女・玉麟様であらせられる。劉先様にお会い出来ればと思い参上した」
ぼーっとしていた門番の目が見開かれる。
「え……そ、その娘……その方が、聖女様なんですか!て、『天命反転』の!」
「相違ない。お目通り願えるか」
門番は詰所から出てくると玉麟に伏せた。
「こ、これはこれは!ご無礼をお許し下さい!皇帝と同じ御位にいらっしゃる聖女様に伏せず言葉を紡ぐなど……!」
ここで慌てて顔を上げるように言うのは良くない。お互い引くに引けなくなってしまう。玉麟は息を吸って、吐いた。
「顔を上げてください」
ですが、と必死に伏せる兵士に玉麟は笑った。
「私は天龍様の娘ですが人の身です。貴方と私、身分に何の違いがありましょうか」
兵士は涙ぐみながら手を合わせ、膝をついた。
「あ、ありがたき御言葉……では、こちらで」
「あら。立って下さって構わないのに」
「い、いえ。本当にお顔を拝見することが恐れ多く……あぁ、それで……謁見ですね。もちろんです、ご用意しましょう」
思っていたよりも話が早く進みそうだ。玉麟はほっと胸をなで下ろした。しかし、男は紙を確認すると、苦々しく言った。
「あぁ〜!申し訳ありません!本日集会は行われず、殿下はいらっしゃいません……。明日なら皆集まるようですが……」
溢れんばかりの笑顔に、玄礼も安心したような笑みを浮かべた。
「そうなのか」
「少々お待ち下さい!明日用の通行証も発行いたします!」
玉麟は少し眉間に皺を寄せた。守衛の様子がどこかおかしい。何というか機嫌が良すぎる。
現在西都には難民が押し寄せている。ならば、議事堂の出入りが多くなるのは明白だ。だというのに、先ほどから誰も入っていない。しかも集会がない?
大明皇国で落ちていないのは西都くらいなのに、議事堂の静けさは何なのだろう。
難民用の粥も、銭湯の開放も大盤振る舞いだ。だが、臨時政府の国庫に自由があるとは思えない。
通行証を書いている兵士に、玉麟は声をかけた。
「すみません。私、殿下にお会いするのは初めてなのです。失礼が無いよう、特徴を教えて頂きたいのです」
兵士は作業の手を止めた。にっこりと笑う。
「殿下はですね、いつも特別豪華な服を着ていらっしゃいますよ。身長は……そうだな、そこの龍門堂様と同じくらいか、それより少し大きいくらい。金の目をした、亜麻色の髪を持つ方です」
「……そう。ありがとうございます」
「こちらが明日の通行証になります」
兵士が差し出した通行証を、玄礼は受け取った。そのやり取りを、見る者が一人。
「玉麟、か。吉兆をもたらす良い名だ」
「おめーなに見てんだよ」
黒髪の小姓を、別の小姓が小突く。そのままよろめいて男は笑った。
「ん?サボり」
「早くこれ持ってけ。明日宴だから」
小姓は木箱を差し出した。品目は『酒』。最高級品だ。黒髪の男は笑った。
「なぁ。この金どっから出てると思う?」
「知らねぇよ。マジで早く持ってってくれ」
「まぁまぁ。こういうのは適当にやるのが肝要なんだ」
うざ絡みしてきた黒髪の男を慣れた手つきであしらいながらため息をついた。
「それはオレらが決めるんじゃなくて、お上が決めるんだろ」
「お上は優しい人だよ。摂政に騙されるくらいね」
にぃ、と黒髪の男は笑った。精悍な顔つきにあんまり似合ってない。
「なるほどな。働け」
そうして、別の小姓──亜麻色の髪をした男は、言った。




