第4話 天地無用
刹那、強風が吹いた。風で煽られた玉麟の身体が、よろめいて。ぐるんと視界が、天地が反転した。入れ替わった。頭から河に突っ込んでいる。
前髪が、大河についた。
「は──ッ……は──ッ……」
怖い。怖い怖い死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ嫌だ誰か助けて。落ち着く。落ち着いて。落ち着こう、落ち着かないと。拍動の分だけ落ちてしまう。震える視線分だけ顔を動かすと、縄に服が引っかかっていた。
「引っかかってる、だけ」
喉が熱くなる。音が遠い。眼筋を横に動かすと、もう土砂は目の前だ。
「……お願い」
何に祈っているか玉麟にも分からない。
けれどここで死んではいけない。戴冠も出来ない、迦迪爾の王太子に正統性を与えてしまう。それに。
「おとうさん、おかあさん……」
両親にも伯言にも皆にも会えない。土砂はすぐそこ。玉麟は身を翻してわざと落ちた。バク転し土砂に足をつけて飛び上がり、再び縄を掴む。
「と、届いた……」
もう一度縄によじ登る。もうダメかと思った。再び括られた留め具は船を運んでいく。
「船は──」
良かった、と安堵した瞬間だった。土砂で船が潰される。対岸にいた兵士達は口々に叫んだ。
「せ、聖女様が!」
「おい、お前ら他の船探せ!」
船は土砂に壊された。今、ここで私ができるのは……。
「縄で、ここを渡る……」
覚悟を決めろ朱玉麟。こんなところで折れるというのなら、人生全てを欺いた『聖女』役をどうやって遂行するというの。
雨でぐっしょり濡れた靴を縄に一歩差し出す。風は冷たく、水が張り付いて冷える。くしゃみする振動すら許せなくて、玉麟はまた一歩踏み出した。
足に雨水がにじむ、その繰り返し。寒さからか恐怖からか分からない、拍動の揺れと目眩に、今にも全てを手放したくなる。
「生きなきゃ……。全部、取り戻すために」
朝を知らぬ春の朝日。母の作る朝ごはん、父の面白い話、友達と駆けずり回ったあの日々を。
私が救う。私なら出来る。やらなきゃだめだ。そうすると決めたのだから。
ふと顔を上げると、玄礼はすぐそこだ。手を伸ばして、足は中空を抜いた。最後の最後で、踏み外す、なんて。肺から空気が抜けて、諦めた瞬間だった。
「ぐッ……!」
玄礼の手が玉麟を掴んでいた。兵士達総出で引き上げると、玄礼は玉麟を抱き締める。
「あ、あの。玄礼」
どくどくと動く拍動。もしかすると、玉麟より速いかもしれない。
「……助けてくれてありがとう」
離してくれると思ったけど全然離れないな。……でも、暖かい。久方ぶりに感じた、人の温度。
「玄礼様ぁ〜?いつまで抱きしめているんですぅ〜?」
茶化すような物言いに玄礼は手を離した。兵士達は玉麟に近付く。
「超心配したぜ」
「いくら何でもお転婆が過ぎますよー」
兵士がほらこれ着なさい、と渡してくれた服を取ろうとすると、近くにいた別の兵士がこっちのほうが似合う、と渡す。玄礼はわざとらしく咳払いした。
「ごほん」
雨は俄に弱まっている。
「玉麟様。歩けますか」
「大丈夫よ」
「ここから西都までは歩いていきます。何とか城門まで辿り着けると良いですが」
墨江から鎮西省までは、半日ほどかかる。早歩きで行けば間に合わないこともないだろう。
「ええ。行きましょう」
同刻。
墨江の対岸、つまり玉麟が元いた岸辺。
「やべぇ、知らせねぇと……」
生き残った迦迪爾の兵士は、雨の中震える手で伝書鳩に紙を括り付けていた。
「届けよ……王太子殿下に……!」
内容は『大明皇国側に聖女あり。黒髪の女で、玄礼と共にいる』
白い鳩が飛んでいくのを見届けると、兵士は糸が切れたように倒れ込んだ。
夕刻。
雨は止んだ。西都。
戦火の色など感じさせない、夜の街の色。心を透かすような夜の色が、城壁に辿り着いた流民を照らしていた。
「いろんなお店があるのね。初めて来たわ。えっと、皇太子殿下がいらっしゃる議事堂は……玄礼?」
辺りを見渡しても玄礼の姿はない。いや、いる。屋台の前に。肉まんを売ってる屋台の前に。
「饅頭二つずつ」
「玄礼?」
「中は肉餡と野菜餡です」
玄礼はぱか、と中を割ってみせた。
「なるほど」
「あげませんからね」
眉間に皺を寄せた玄礼は、玉麟の分の肉まんも渡す。そういうことを言ってるわけじゃない。
「そうじゃなくて。あぁ、えっと……貴方って、食べることが好きなのね」
「腹が膨れれば何でも良いのですが、これは思い出の味です」
軒先の下で玉麟は饅頭を頬張った。背中とお腹がくっつきそうなくらいお腹が空いていることを思い出して食いつく。
「翠朧に来て初めて、長官から頂いたものです。見るたびに買ってしまいます」
「んぐ、美味しい」
「首都の祭りに行けばいつでも──」
買えますよ、と言いかけて玄礼は止めた。首都はそう容易く農民が行ける場所ではない。
「申し訳ありません。失言でした」
「農民が行けないの気にしてるの?別にいいわよ」
「……宿を探しましょう」
「いいえ。難民の野営地に行くのよ。私だけ宿屋とか論外だわ」
先程から視界に入る野営地には、玉麟と変わらない年の娘が頭を伏せて座り込んでいた、
私だって、一度間違えればああなっていた。ただハッタリと嘘で誤魔化して、ここまで来ただけ。端の方に空いている場所を見つけた。
「ねぇ。ここなら──」
「おい。お前、龍門堂 玄礼じゃねぇのか」
玄礼の姿に気づいた男が近付いてくる。
「……いかにもそうだが、何か」
「お前……何でそんな涼しい顔してやがる!」
男の声が野営地に響いた。まずい。視線が集中している。
「お前は長官様を売ったんだ!あんなお優しい長官様を!今どこにおられるんだ!」
男は玄礼の首を掴んだ。慌てて兵士達が近寄ってくるが、玄礼は制した。
「悪いが知らぬ。私も何処に居られるか探している」
「ふざけるなぁ!」
男は泣きながら玄礼を殴り倒す。縋り付くように、足ものに転げ落ちる。
「お前が翠朧を売ったんだ!迦迪爾のやつに乗っ取らせて、お前がいなければ、長官様さえいればこんなことにならなかったんだ!俺の娘を返せよぉ……!」
変わらぬ瞳で、鼻血を拭いながら玄礼は男を見下ろしていた。玉麟は膝をついて男の手を握る。それしか出来ない。それ以外に何が出来よう。祈りで戦は終わらない。命も蘇らない。
「あんた……あんたは、誰なんだ……」
「私は聖女、朱玉麟。お父様の命を受けて──」
「何でこんな男に付いてるんだ!こんな、こんな……俺達の故郷を壊したやつに……」
……あぁ、そうだ。玉麟にはこの男の気持ちが痛いほど分かる。玄礼は玉麟の目の前で、老婆の命乞いを知らぬと通した。彼は素直ではない。愚直なのだ。きっと、どこまでも。
「玄礼の行ったことは、全て長官様の仰ったことです」
喉奥から知らぬ言葉が出てくる。男は弾かれたように顔を上げた。
「売った訳ではありません。貴方の苦しみが無くなったわけでもありません。しかし、長官様は少しでも民が逃げられるよう手配して下さいました」
知らないけど、きっとそうだ。玄礼は愚直だ。愚かと言える。けれどその愚かさは、人を殺すためにあるわけでは無い。もしそれほど愚かなら、玉麟を引き上げる手は無かったはずだ。
「太平の世がまもなく来ます。貴方がもう泣かなくて済むような世界が。私は皇太子殿下を戴冠させるために参ったのです」
「なら!どうしてこうなる前に来てくれなかったんだ!」
どうして。男は力無く繰り返しぶつぶつと言って、そのままどこかに行ってしまった。血が出そうになるくらい拳を握って、玉麟は呟く。
「……私だって」
助けて欲しかった。救いが欲しかった。昨日と同じ日々を繰り返したいだけだった。兵士も周りの、玉麟の言葉を待っている。
「ごめんなさい。端の方に行きましょうか。ここじゃ目立つわ」
先程までいた門の近くまで戻って、ゴザを敷く。玉麟はくちゅん、とくしゃみをした。兵士達は口々に言う。
「風呂入った方が良いんじゃないですか?」
玄礼の瞳にわずかに色が戻る。
「冷えますからね」
顔を上げると『難民支援 大浴場無料解放』と道に掲げられている。
「とにかくあったまりましょうよ。風邪引いちゃ世話ない」
じゃあまたここに戻ってきますね、と兵士達はばらばらにはけていく。残されたのは玉麟と玄礼だった。あぁ、だめだな。皆疲れちゃってる。
「……玄礼は、どうしてあの連中の支配を受けていたの?」
慰めないと駄目なのに、玉麟の口から出るのは傷つける問いかけだった。ただ、今の玄礼にとってはその抉り方が好ましかったのかもしれない。
「私が信仰と武しか知らぬ、愚か者だからです」
吐き捨てるように言って、道を歩き始める。
「私には軍才も無ければ、政など出来ません。役割を得て天龍様を信じることしか出来ないのです。未だ陥落していないのは、翠朧省、鎮西省、首都天京近くの承天省のみ。東はすべて侵略され、西都に救いを求めようと、長官である劉先様から留守を預かっていたのです」
その劉先の居所が分からない、ということか。翠朧省と西都がある鎮西省は隣接している。どこでいなくなってしまったのだろう。
「気付いた頃には翠朧の民全ての首に刀が当てられていた。従う他ありませんでした」
玄礼は足を止めた。顔を伏せて感情を滲ませる。それは果たして、己の愚かさへの憎みか。
「翠朧は私にとっても大切な場所だったんです。売りたいなんて思うわけがない……!」
表情を緩めて、玄礼は引き攣った笑顔を浮かべた。
「ですが聖女が現れた。やはり天龍様は私達を見て下さっている。私が欲しかった役割を授けて、こうして道を開いて下さる」
ちがう。それは、私じゃない。
私は聖女じゃない。聖女は、私じゃない。
「玄礼、本当はね、私は──」
いつの間にか銭湯に来ていた。玄礼は僅かに首を傾げたまま、玉麟を見ている。
「ごめん、何でもない。あぁ、えーっと、お風呂はいらないと風邪引くよね。後でね」
「はい。ごゆっくり」
玉麟は暖簾に手をかけた。




