第10話 雲閑にて
翠朧省の省都──言うなれば省の首都である雲閑は、省の中心にある。東龍砦の通過点だ。
「久しぶりに来たわ……」
馬に乗りながら、玉麟はほぅ、と息を吐いた。翠朧は農家の省、目立って都市部も大きい訳では無いが、それでも玉麟にとって一番身近な都会だ。
「省都なんて数年に一回来るかどうかですもんねぇ」
「そうそう。だいたい戸籍内容の変更か税金納めに来るかのどっちかよね」
「村役場行っても手続きできない時に来るんですよねー」
玉麟は陰陽とのんびり話しながら、一行は省都の行政施設である省庁、翠朧殿へ向かっていた。
「玄礼、良かったの?省庁もあまり余裕がないんじゃ……」
「軍用の備蓄ならまだ何とかなるでしょう。最悪国庫をどうにかします」
「良いのそれ」
「権限は秘書官である私と長官にあります」
「俺は聞かなかったことにするからな」
玄礼は下馬すると翠朧殿の扉を叩いた。
「私だ。今帰った」
その音を聞いて、扉の向こうが慌ただしくなった。扉が開かれ、数十人の役人達が膝をつく。少ない顔ぶれの中には、玉麟の面倒を見てくれた侍女達もいた。
「玄礼様!」
「秘書官様がお戻りになったぞ!」
「すまない。暫く留守にした。また留守にするが」
一番扉の近くに座っていた老人が孔青を見つけた。気持ちよく笑い手を振る彼を見て、老人は晴れやかに玄礼へ視線を戻す。
「もしや、殿下を戴冠させるおつもりで!」
「相違ない。お前達、お客人だ。出来る範囲で良い。もてなせ」
「おお……ちゃんと役人やってる」
陰陽の言葉に、玉麟はそうね、と小さく同意を示した。玄礼は扉を開けると中へ誘った。
「どうぞ。玉麟様は翠朧殿は久しぶりですね」
「そうなの?」
「はい。初めてお通しした時の場所です。あそこは迎賓館ですが」
「あれ玄礼の家だと思ってた」
あの時の玉麟は疲労困憊だった。何処へ行ったかよく分からず、貴族の家って大きいんだなぁと思ったのだ。
「実家は天京ですから」
絶対大きいじゃない。実家の玄礼ってどんなのなんだろう。ずっとこんな感じ?それとも家だとだらけたりするのかしら。
「ここで働いてるときはどこに住んでたの?」
「住み込みです。いい部屋は貰いましたが」
「貴族の息子が、住み込み」
「あまりこだわりがありませんので」
玄礼の部屋って何もなさそう。何を考えているんだろ、私は……。
「少しお休みになられては」
玄礼の言葉に玉麟は顔を上げた。
「え、あ、そうね!」
「お眠りになっても良いですし、先が長いですから湯浴みも良いでしょう。ここには資料室もありますから、本を読まれるのも良いかと」
軽く礼をして、玄礼は言った。
「私は少し用がありますので失礼します」
ぱち、ぱち。
曇天の空の下、庭の隅で玄礼は書類を焼いていた。墨 滄海 千、風 蕭々 二百五。名前の隣につけられた数字たちが、墨となって消えていく。これを使うのはすぐだと思っていたのに。
「あ、玄礼!ここにいた!分かんないところがあっ、て……」
書物を何冊か持って走り寄ってきた玉麟を見た。目を逸らして彼女は言う。
「ごめんなさい、席を外しましょうか」
「聖女様に見つかったとなれば言い逃れは出来ますまい」
玉麟は墨の山を小さく指した。
「えっと、それは何?」
「これは税の帳簿です。裏帳簿といいましょうか」
玄礼はゆっくりと燃えている書類に手を伸ばすと、まだ大部分が残っている紙を玉麟に見せた。
「迦迪爾人が二重税を課していたのは早くから知っていました。彼らにバレないよう、なるべく取り分を減らしていました」
燃え残りを炎の中に入れて、名前も何もかも、消えていく。
「私が全てつけていたので、誰がどれくらい払ったかは記録してあります。何とかして返したかったのですが……手遅れですね」
玄礼の青い瞳に赤い炎が揺らめいていた。
「これは燃やしてしまいます。翠朧の民に何かあったら困りますから」
「で、でも、いつか帰ってきた人の為に……」
「私が覚えています。忘れても収益簿で帳尻を合わせるでしょう。ここは私も長官もいなくなっても、問題なく動きます」
玄礼は腕を組んで玉麟の持っていた書物を覗き込んだ。
「それで、分からないところでしたか」
「うん。読み方が分からない」
「それはこう読みます」
玄礼は玉麟が指差した場所を見た。確かに村の寺子屋では習わない、貴族間でしか使われない言葉だ。
「へぇ。これ何なの。寺子屋で習った文字が簡単な書き方ってこと?」
「いえ。行政でしか使われない特殊文字です。二千文字近くあります」
玉麟は後ずさった。
「は!?常用文字くらいあるじゃない!」
「はい。文書の流出を防ぐ為で、意味も熟語も全く違います」
玉麟は再び書物に視線を戻した。
「玉麟様は迦迪爾語も読めるのでしたね」
「そうよ。なかなか面白いわ」
玉麟は迦迪爾語の書物を取り出した。資料室に置いてあったか。頁一面、一本の棒があり、そこに払いや点や棒が書いてある。
「私にはどこが一文なのかさっぱり……」
「そう?文法は大明語と同じよ。記している言語は違うだけで、どっちの国でも大明語も迦迪爾語も通じるし」
「誰かに教えてもらったのですか?」
「ううん。自分で勉強したの。ここに原文と翻訳文があるでしょ。原文の何単語かを丸で囲って、翻訳文を照らし合わせるの繰り返し。分からない単語は別の書物から探すこともあるわね。意味を推測するの」
玄礼はほぅ、と息を吐いた。
「……貴方は、凄いですね」
「えへへ。こういうの得意なの」
陰陽が玉麟を呼ぶ声が響いた。
「教えてくれてありがと」
「いえ。書類の整理が済み次第、積み荷を準備します」
待ってるわね、とひらひら手を振る玉麟を見届けて、玄礼は記録庫へ急いだ。入口では一行を迎えた老人が書を書いている。
「戸籍が見たい」
玄礼の指示に、記録官は頭を下げた。鍵束を取って、薄暗い記録庫を行く。
「聖女様は麓村出身であられましたか」
「ああ。橋の……」
「墨江の橋ですか」
振り返ったその言葉には怯えがこもっている。玄礼は眉間に皺を寄せた。
「そうだが、何か知っているのか」
「凄惨な出来事だったと聞いております。あまりの濁流と土砂で、死んだ者は皆バラバラに……」
麓村の名簿を受け取ると合わせて問う。
「西都から戦災名簿は来ているか」
「来ておりますが、生死の情報は後から訂正されることも多く御座います。一家離散も少なくなく、全体の死者はいざ知れず」
「……そうか。助かった。下がれ」
奥の部屋で戸籍を開いた。一覧に示されているのは『死亡』。玉麟の名を探して父母の名を辿るも、『不明』の二文字。
この乱世に聖女は現れた。
あの方は心を痛めている。だからこそ、生きていれば良い報せをと思ったのに。
元はと言えば、戦乱を止めるのは官人の務め。
だというのに、五十年も侵略に甘んじていた。
屈辱だと武器を取ることもなく、いつか終わると信じて。終わらせる努力もせずに。
「……私には何も出来ない。貴方がいなければ」
玄礼はそう呟いて、記録庫を後にした。
翌朝。翠朧殿の前。
新たに加わった兵士達も含めて六千人いる。
老人は玄礼の前で頭を伏せていた。
「留守にする。頼んだ」
「は。お帰りをお待ちしております」
玄礼は屋敷の中にいる者達へと声をかけた。
「身に危険を感じたのなら逃げろ。今度私が帰る時は」
馬に乗っていた玉麟は手綱を握った。
「劉先様も一緒だ」
馬に乗った玄礼の言葉に官人達は目を輝かせた。
「ははっ!殿下も聖女様も、どうぞご無事で!」
目指すは東龍砦。人々に見送られながら玉麟達は街を出る……のだが、熱狂っぷりが少しおかしい。玉麟は孔青に耳打ちした。
「何でこんな歓迎されてるの?貴方が来てるから?」
「まぁ俺の威光もあると思うが。聞いた話だと、西砦を奪還したあと、我が物顔で翠朧にいた敵が逃げてったらしい」
『俺の威光』、の部分を素通りして玉麟はへぇ、と言った。馬上から玄礼が言った。
「玉麟様。東砦の通り道には麓村があります。もしよろしければ……」
珍しく玄礼の瞳に感情が揺れていた。それを示すところを玉麟は知らない。家族と過ごし、友達と一緒に遊んでいた村。燃え盛る家の中から連れてこれなかった、きらりと目が光る黒猫の人形。それを全て押し込んで。
「んー。良いや。故郷に帰るのは、戦争が終わってからにする」
頑張ってにこ、と玉麟は微笑んだ。歩いていた陰陽も笑う。
「っすよねー。気が緩んじゃうっていうか、落ち込むっていうか」
「俺も天京に帰って落ち込まないようにしないとな」
「孔青様はそう簡単に落ち込まないでしょ」
戦時に不相応な、和気藹々とした雰囲気。それに影が差したのは開けた農地に出て少し経ってからだった。
「この辺は酷かったのね。村が焼けてるわ」
見慣れない柔らかい丸太が死体だと分かって数時間後。未だ燃えている家があった。玉麟の顔が弾きつる。
「なんか、様子がおかしくない?」
「陰陽。見てこい」
「あいあいさー」
孔青の言葉に陰陽は燃え盛る家を軽く見に行った。すぐに戻ってくる。
「ここ数時間で燃やされたみたいですね」
「成る程。では東龍砦は」
孔青の視界の先には、燃え盛る石造りで作られた巨大な砦がある。東龍砦は二番目に巨大な砦だ。そう安々と陥落しないし、一度掌握されると奪還は難しい。玄礼は淀んだ。
「奪還した、のでしょうか」
「だったら良いんだがな」
玉麟は服の裾を掴んで、手綱を強く握った。




