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人ならざるもの

 ベッドの上で顔を撫でた。長く伸びた無精髭が、指にチクチクと刺さる。

 カーテンの隙間から日の光が差し込んでいる。今は昼過ぎくらいか。

 本来なら、今頃大学2年生だった。受かっていれば。

 田中昴はベッドからのっそりと起き上がった。体が重い。ずっと寝ていたせいだろうか。

 ベッドの上に座って頭を掻いた。フケがパラパラと落ちていく。

 空腹を感じている。いつから食事を摂っていないのだったか。


 大学受験に失敗して以来、ずっと引きこもっている。両親はどう声をかけていいのかがわからないのだろう。腫れ物に触れるように接してくる。

「ご飯はダイニングで食べてね」と言われている。さすがに自分の部屋に食事を運んでもらうほどに引きこもっているわけではなかった。

 去年までは「まだ挽回できるわよ」と言っていた母も、今はもう何も言わない。家族3人、同じ家に住んでいるのに、俺との会話はほぼない。両親は会話しているのかもしれないけれど。

 ダイニングで食べろと言われているけれども、家族と顔を合わさないように時間をずらしている。顔を合わせて食べるのはどうにも気まずい。

 時計を見る。針は午後2時を指していた。この時間なら家族はいないだろう。

「飯にしようか……」

 言いながらベッドから立ち上がろうとした。しかし、力が入らず体が倒れてベッドに沈んでしまった。

 まともに歩かない生活を続けているのだから、仕方ない。そう思いつつ太ももを撫でた。細い。あまりにも細い。高校生の間はそうでもなかったはずなのに。

 このまま俺の人生は終わりかな……。

 昴は頭をがっくりと下げて呆然としていた。大学受験に失敗してから2年間、何もできずにいる。高校時代の友人などは今では大学2年生で、20歳になっているはずだ。大手を振って酒を飲み、サークルに顔を出し、バイトに勤しみ、恋人とのデートを楽しんでいることだろう。

 昴はベッドのフレームに掴まりながら立ち上がった。飯、食いに行こう。


 部屋から出た。扉が軋み、床が鳴る。階段の前に立って、下を見た。欠伸を噛み殺しながら、何も考えずに足を下ろした。

「あっ……」と思った時には遅かった。

 足が階段についた瞬間、膝から力が抜けた。太ももにも力が入らない。先ほどベッドに沈み込んだ瞬間のように、体を支えることができず、そのまま滑ってしまった。

 体が転がり落ちていく。手で支えようとしても支えきれなかった。そのまま階段の下まで転がり落ちて、階段の角に後頭部を打って、止まった。


 田中昴、享年20歳。

 葬儀はしめやかに家族葬で行われた。友人も呼ばず、親戚も近くに住む者が数人集まっただけだった。

 母は葬儀場から火葬場まで、ずっと泣いていた。父はずっと唇を引き結んだまま、何も言わなかった。

 静かな葬儀は終わった。

 火葬を終え、炉から遺骨が運ばれてきたとき、誰もが息を呑んだ。

 元から遺体などなかったかのように、そこには少量の灰しか残っていなかった。


 ファンケルバルト男爵邸の一室、アルブレヒトの部屋では赤黒く光る召喚陣の光が強くなっていた。靄はすでに床一面を覆っている。

「なんだこれは……」

 アルブレヒトは慌てて本を取り上げた。何か書いてあるはずだ。だがしかし、何度読んでも「成功すれば、黒い煙が立ちのぼり、人ならざるものが姿を現す」としか書いていない。失敗した時の記述も探したが、見当たらない。召喚術というのは失敗すれば何も起こらないのが基本だ。だから、個別の召喚陣のページに失敗例は載らないのだろう。

 アルブレヒトが震える指で本をめくる間にも、机の上に描いた小さな召喚陣から赤黒い光の線が床に注がれた。光の線はアルブレヒトや部屋の家具を透過し、床に部屋いっぱいの大きさの陣を展開していく。音もなく床に描かれた陣は、ゆっくりと時計回りに動いている。

 踏んでも何も起こらないし、蹴っても足が通り過ぎるだけ。こんなことが起こるとは予想すらしていなかった。

「これ、悪魔召喚じゃないのか……!?」

 言いながら机に駆け寄って本の中の召喚陣と机の上の召喚陣とを見比べてみる。違いはない。本に描かれているものと、机に描いたものは、ちゃんと同じ召喚陣だ。

「なんだよこれ……!」

 叫びにも近い声を上げた瞬間、床に広がったのと同じ陣が天井にも広がった。天井の陣もゆっくりと、今度は反時計回りで動いている。

 アルブレヒトは天井を見上げて動けずにいた。

 大変なことをしてしまったのではないか……? 今になって焦りが出てくる。こめかみを冷や汗がつたった。

「探し物は私かしら?」

 アルブレヒトの真後ろから妖艶な女の声が聞こえた。

 がばっと後ろに振り向いた勢いで椅子に当たって大きな音を立てた。

「あらぁ」

 アルブレヒトの真後ろに、いつの間にか立っていた女は手を口に当てた。女が目をぱちくりと瞬きした瞬間、女の体は壁際まで下がっていた。

 これはーー。

「人間……なのか……?」

 目の前の妖艶な声を出す女は、人の形をしていた。が、その姿は人間のそれではなかった。肌は透き通るほどに白く、陶器のように傷一つない。さらりと伸びた金髪は腰までその長さがある。ここまではまだ人間らしいのだが、問題は瞳だ。金色の虹彩。その中心に赤い瞳孔……。

「人間に見えるかしら?」

 言いながら、背中から生えた白銀の翼を広げた。

 人ならざるものを召喚するのが、召喚術だ。そういう意味では、召喚術は成功している。

「悪魔……なのか?」

「口の聞き方には気をつけなさい」

 人ならざるものは間髪入れずに言って、アルブレヒトに向かって一歩踏み出した。人ならざるものが足をつくと、その場所を中心に波紋のように光が広がる。

「その体が息をできるかどうかは、私次第なのよ?」

 人ならざるものがニンマリと笑い、その顔が妖しく歪む。

 アルブレヒトは一歩、後ろに下がって礼をする。父に連れられて出席したどの夜会よりも緊張する。足がすくんでうまく動かない。腕もずっと震えている。

「ア……アルブレヒト……フォン……ファンケルバルトと申します……」

 声が震えた。うまく舌が回らない。それでも、噛むことなく言えた。

「ふうん。上出来ね」

 感心したように異形の者は言った。

「私はアザリエル」

 言いながらカーテシーをして見せた。

 アザリエルは頭を下げたままで動かない。

「何かなさるのが普通でなくって?」

 頭を下げたままアザリエルが言った。

「あっ……失礼を……」

 アルブレヒトもぎこちなく頭を下げて会釈した。

 アザリエルがニヤリと笑って顔をあげた。

「さて、アルブレヒトとやら、どうして私を喚び出したのかしら?」

 妖艶な声で聞かれて、何も言えなかった。喉がきゅっと締まって声が出ない。アザリエルと目が合った。まるで蛇に睨まれたカエルのように動けなくなる。

「アルブレヒト?」

 名を呼ばれてハッとする。

「父を……いや、父に……」

 言いかけて、口をつぐんだ。

 自分は父を見返したいのだろうか。それとも、父に認めてもらいたいのだろうか……?

 似ているものでありながら、同じものではない気がする。僕はどうして召喚術を使ったのだろう……。召喚術を使ったとしても、魔術か剣術の才が求められる貴族社会では認められないというのに……。

 アルブレヒトは床を見た。肝心なところで何も言えなくなる。肝心なところで言葉に詰まる。無意識に握った拳で手のひらが痛い。それでも、そんなことも気にならないくらいに、情けなさを感じていた。

「私は、あなたの求めに応じてあなたを助けるわ、アルブレヒト」

 アザリエルはそう囁きながらアルブレヒトの顔を両手で包んだ。アザリエルの両手は、驚くほどに冷たい。アザリエルの顔はアルブレヒトの前にある。離れているはずなのに、耳元で囁いているように聞こえる。

「あなたの力になりましょう」

 アザリエルがアルブレヒトの顔を持ち上げる。アザリエルの声が耳に心地よく響く。アザリエルの金の虹彩の中心に光る赤い瞳孔と目が合った。その瞳は心の奥底にしまい込んだ何かにまで触れそうなものだった。背筋の毛が逆立つ。

「僕は……」

「何も言わなくてもいいの。力が欲しいのよね? お父上に愛してもらえるような力が」

 アザリエルが囁く。アルブレヒトは首を縦に振った。

「力くらいあげるわよ。お父上に求められるような力を与えるわ」

 言いながらアザリエルが左手を離す。アルブレヒトの右頬に熱が戻ってきた。

「この世の誰も知らない智恵を持ち、この世の誰もが羨む魔力、そして死なない身体……」

 アザリエルが左手を広げて、手のひらを床に向ける。アザリエルの腰の位置まで下ろしたかと思うと、左手をふわりと引き上げた。床に小さな魔法陣が広がって、光る。魔法陣の中心から、白い物体が引き上げられるように出てきた。

「でもね……」

 アザリエルが言いながら右手をおもむろに離し、指でアルブレヒトの左頬を撫でる。

「代償は、払わなければならない」

 言って、アザリエルが指を離す。床の小さな魔法陣から、頭蓋骨が出てきた。ゆっくりと、鎖骨、肋骨、肩甲骨と、人骨が姿を現していく。

「ヒッ……」

 書物でそれが人骨だと知っていても、実物を見たことがないアルブレヒトは息を呑む。

「あなたはその代償に耐えられる。信じているわ」

 アザリエルが言い切ると、その人骨がアザリエルの横に立った。

 人骨が掠れた声を出した。

「ここ……俺……寝起きで……階段……」

「骨しか残らなかったのね。おかわいそうに」

 アザリエルが人骨を品定めするようにじっくりと見た後、アルブレヒトに顔を向けた。

 そして手を挙げて、人差し指でアルブレヒトの額にそっと触れた。瞬間、アルブレヒトに石でものしかかったように重さを感じて座り込んでしまった。何が起きたのか分からずに天井を見上げるも何もない。ただアザリエルが見下ろしながらアルブレヒトに指を向けているだけだった。

 座り込むアルブレヒトの額に右手をかざした。

「アルブレヒト・フォン・ファンケルバルト」

 アザリエルがはっきりとした口調で名前を呼んだ。


「魂よ、抜け出なさい」


 アザリエルが告げた瞬間、アルブレヒトの視界は真っ暗になった。


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