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無能な嫡男

 音を立てて、木剣が落ちる。拾わなきゃ、と思うけれど、木剣を握る指にもう力は入らなかった。

「坊っちゃま」

 低い声が上から聞こえる。

「いつまでそうなさっているおつもりですか。お立ちください」

 剣術の稽古は、もう二時間近く続いていた。相手をしているのは、執事のセバスだ。

 セバスはよく晴れた今日、直射日光の下で燕尾服を着て直立している。アルブレヒトの剣の稽古に付き合い、体を動かしているはずなのに汗ひとつもかいていなかった。左手を背中に回し、右手には木剣を握ってアルブレヒトに向けている。

 対するアルブレヒトは、額から汗を垂れ流し、地面にくずおれていた。

「お立ちください」

 セバスの声が冷徹に響く。優しさは、そこにはない。

 声をかけられたアルブレヒトの足に力は入らない。切れた息を整えるのに必死だった。セバスがため息を吐くのが聞こえた。

「このままではファンケルバルト家を継げませんぞ」

 僕が継ぐことはもうないクセに、という言葉は言わなかった。いや、言えなかった。息切れは、まだ続いている。

 セバスが懐中時計を取り出して開いて時間を見た。

「限られた時間を割いて、私が指導をしているのです。一秒たりとも無駄にはできないのですよ」

 セバスの言葉はわかる。

 もともと剣術のための家庭教師を雇っていた。だが、家庭教師から教えを受けながらアルブレヒトは剣の腕を伸ばすことができなかった。

「恐れながら、他の才をお探しになるのが賢明かと」

 剣術の家庭教師が最後に残したのはこの言葉だった。

 家庭教師はアルブレヒトのもとを去り、グレアムの指導についた。父が家庭教師を止めることはなかった。

 それ以来、セバスの時間が空いたときに剣術の指導を受けている。

 セバスが剣を下ろした。

「私は先にお屋敷に戻っております。坊っちゃまも早々にお戻りください」

 言ってすぐ、セバスは屋敷に戻っていった。

 遠くから「次は魔術の練習ですよ」とセバスが言うのが聞こえた。

 魔術も同じだ。家庭教師をつけたのに、伸びなかった。

「魔術の前に、魔力を溜めることが先決ですな」

 そう言って、魔術の家庭教師はアルブレヒトのもとを去り、グレアムの指導についた。

「魔術の練習か……」

 少し息が戻ったアルブレヒトは立ち上がって膝を叩いた。

 重い足を引きずるようにして、アルブレヒトも屋敷へ戻った。


 アルブレヒト・フォン・ファンケルバルトは15歳だった。

 ヴァルテル王国の北東に小さな領地を持つファンケルバルト男爵家の嫡男。

 本来なら、いずれこの男爵家を継ぐ男子だった。

 しかし、アルブレヒトはきっとここを継げない。屋敷の誰も、もうそんな未来を信じてはいない。

 アルブレヒトには、男爵家を継ぐ者に求められる資質がなかった。

 剣術はからっきしダメ。

 魔力はいまだに感じたことすらない。

 学問は人並み。だが、それでは剣術や魔術の不足を補うことはできない。だから男爵家は継げない。貴族の跡取りなら、剣術か魔術かのどちらかは身につけていて当然なのだから。


 10歳を超えたあたりから、父と顔を合わせることもなくなった。

 父が僕を見限ったのはいつ頃だったろうか。きっかけは思い出せない。

 砂時計のように、少しずつ”期待”という砂つぶが落ちていくのを、僕は見ているしかなかったのだ、と思う。

 あの砂時計をひっくり返せたなら、落ちきった期待も、もう一度戻せただろうか。

 そうしたら、父上もまだ——。

 いや、やめよう。甘い期待に縋るのはやめようと何度も思ってきた。けど、やっぱり——。


 屋敷の中では使用人たちが忙しなく働いていた。アルブレヒトが屋敷に戻っても何も言わない。顔も見てくれない。

 使用人たちがアルブレヒトに関わるのは、必要最低限のときだけだ。こうなったのもアルブレヒトが10歳になったあたりから。少しずつ、アルブレヒトに声をかけてくる使用人が減ってきた。今では、どの使用人がどんな声をしているのか、思い出せない。

「グレアム様、書斎にて旦那様がお待ちです」

 使用人が足早に歩いていった。その先にはアルブレヒトの腹違いの弟のグレアムがいる。

 アルブレヒトもグレアムの姿を見た。グレアムは体型に合わせた服を着ている。半ズボンにシャツ、ベスト、コート。履いているブーツまで、ひと目で上質なものだとわかる。対して僕は……。アルブレヒトは自分の服装を見た。

 よく見ないとわからないが、つぎはぎの多い長ズボン、町の男たちが着ていそうなシャツ。貴族だとは、誰も思わないだろう。よくて使用人、せいぜい町の平民だと思われる。

 グレアムはよく通る声で「すぐ向かいます」と言って父の書斎に向かって歩いていく。そのとき、グレアムはちらりとアルブレヒトの姿を見た。グレアムと目が合い、すぐに目を逸らされた。声も何もかけずに書斎に向かって歩いていく。昔はよく話をして、一緒に剣術の稽古もしたのに。グレアムが稽古を始めてしばらくしたら、アルブレヒトでは相手にならなくなった。

 グレアムは父に呼ばれているようだが、ここ5年、僕は呼ばれていない。それが全てを物語っているような気がする。

 ホールに飾られている父ブレヒト・フォン・ファンケルバルトの肖像画を見上げる。威厳ある父の全身がホールを見下ろしている。現実の父の顔と目も、ここ久しく見ていない。そんな父から視線を向けられた日はもう思い出せない。肖像画の父ですら、アルブレヒトに視線を向けていない気がする。


 アルブレヒトは自室に戻った。

「遅かったですね」

 机の横にセバスが立っている。懐中時計をちらりと見て、懐にしまった。机の上には一冊の本が乗っていた。魔術の本だろう。

「おかけください」

 セバスが椅子を示す。言われたとおりアルブレヒトは座った。

「それでは前回の続きから行いましょう」

 セバスが魔術の説明を始めた。何度か読み込んだ本だ。内容はわかっている。だが、それを実践できたことはない。

 セバスの説明が終わり「それでは実践に移りましょう」と言った。

 本に書いてあるとおりに手のひらを上にむけて、胸の前に持ってくる。そこに水晶玉があるイメージを強く持って、体の中にある魔力を引き出す……のだが、何も起きない。魔力を手のひらの上に集める以前に、そもそも体内の魔力を感じない。

 目を閉じて、魔力の流れとやらを感じようとするのだが、感じない。前いた家庭教師は「体の中に熱を帯びた白い光を感じるでしょう」と言っていたが、そんなものを感じたことはない。熱も、光も、流れも。アルブレヒトの内側には、空っぽの暗がりだけだった。

「何も変わりませんか?」

 セバスが尋ねてくる。アルブレヒトはそっと目を開けた。

「はい。何も変わりません」

「そうですか」

 セバスは表情を変えなかったし、肩を落とすこともなかった。きっともう落胆することもないのだろう。

「それでは坊っちゃまはこのまま練習を行なってください。私は仕事に戻ります」

 セバスはそう言って部屋から出ていった。

 アルブレヒトは机の上にある本を見る。魔術入門の本だ。文字の読めない子が、読み聞かせをしてもらいながら実践してできる程度のもの。弟のグレアムは三歳の時点で家庭教師に読み聞かせてもらってこの課程を終えた。今、グレアムは中級魔術を行っているのではなかったか。時折、屋敷の裏庭から火炎が昇るのを見かける。アルブレヒトは15歳。グレアムが三歳の時に通った道を、まだ通りきれていない。

 アルブレヒトはもう一度、両手を胸の前に挙げて目を閉じた。


 10年前、アルブレヒトが5歳のある日を思い出す。

 父に呼ばれ、魔術の訓練の様子を聞かれた。アルブレヒトは「まだできないけれど、楽しいよ」と笑って答えた。同席した家庭教師は「魔力の発現はまだですが、アルブレヒト様は晩成型なのだと思われます」と補足する。父は家庭教師を見て「そうか」と言って、アルブレヒトを一瞥した。

 その時、父の書斎の扉が開いた。

「父上〜」

 幼い声が入ってくる。使用人が「坊っちゃま!ノックをお忘れです!」と慌ててついてくる。

「グレアム!」

 父が笑顔で声をかけた。同時に使用人に片手をあげて制止する。すっと使用人が壁際に下がった。家庭教師は胸に手を当てて一歩下がった。

「見て!」

 グレアムは言って、目を閉じ、胸の前で両手のひらを上に向けた。

 すぐに手の上に淡い光として魔力が集まっていくのが見えた。

「すごい……」

 アルブレヒトは初めて見る光景に目を見張る。父も家庭教師も感嘆の声を上げた。僕の時は何も言わなかったのに。

 すぐに溜まった魔力の中から、小さな火がついた。父と家庭教師が目を見張る。

「すごい!すごいぞグレアム!お前は火属性魔法に適性があるんだな!」

 父に言われて、グレアムが目を開けた。

「すごい!?」

 胸の前に広げていた手を握って拳を振った。グレアムの顔は喜びに満ちていた。

「すごいぞ!グレアム!さすが私の息子だ!」

 父がグレアムに抱きついた。弟が褒められたのだから、兄として笑って「すごいね」と言って、喜ぶべきだと思った。言えなかった。うまく笑えなかった。

 笑顔の父に抱きしめられ、嬉しそうにするグレアムを見て、胸の奥でざらざらと砂時計の砂が流れ落ちるのを感じた。


 思い出を振り払うように、アルブレヒトは目を開いた。

 こんなことを繰り返して、何になると言うんだろうか。

 アルブレヒトはため息を吐いて手を下ろした。椅子から立ち上がり、書棚に向かう。何冊かの本を取り出して、横に置く。本の裏に隠しておいた一冊の本を取り出す。表紙には『召喚術の理論と実践』と書かれていた。

 魔術は体内の魔力を使って発動する。それに対して召喚術は召喚陣と生贄を使って人ならざるものを喚び出す。魔獣、精霊、そして悪魔。種類によって危険度は違えど、召喚術に魔力は必要ない。

 多分、僕に魔力はないから……。でも、召喚術ならきっと使える。召喚した魔獣を使えば、砂時計を回せる。砂がまた流れ始める。そしたらまた、父と僕の動かない時間が動き始めるから……。

 アルブレヒトは本を開いて、挟まっていた栞を取り上げた。このページに書かれている召喚陣を見つめる。

 この陣でいいだろうか。僕が喚びたいと思っている魔獣は、来てくれるだろうか。

 アルブレヒトは左手に本を持って、召喚陣を机の上に描き始めた。

 夕飯までの時間はある。

 本に書かれている召喚陣の見本を書き写していた。ゆっくりと、丁寧に、机の上に書き込んでいく。書き写そうとしているのは”悪魔召喚の陣”と書かれているものだ。

 何もできないこの世界は、もういい。何もできず、無能とすら言わず、声すらかけられず、いないものと扱われる。僕などいなくても、いいだろう。


 でも、願わくば、もう一度、父に笑顔を向けて欲しい——。


 仮に本当に悪魔が召喚されて魂が喰われたとして、それでも構わない。悪魔の力で魔術なり剣術なりが手に入ったのなら、それはそれでいい。召喚されたのが悪魔ではない魔獣であったとしてもそれはそれでいいだろう。

 本に載っているのは、禁忌とされていない召喚術だ。公開されている本に書かれている召喚陣で召喚できる悪魔など、たいしたことはないということだ。実際に召喚できるのかすらわからない。


 とにかく、いま、現状を変える力がほしい——。


 召喚陣を描き終え、陣を閉じた。召喚術の本では、あとは術師の血を陣に注げばよいとされている。成功すれば、黒い煙が立ちのぼる、と本には書かれていた。

 引き出しに駆け寄って、開けた。ナイフが転がっている。取り上げた。召喚陣の前に戻る。ナイフを右手に持って、左腕を召喚陣の上に出した。ナイフの切っ先を左腕に当てた。ちくりとして、赤い線が引かれる。つう、と赤い血が垂れた。召喚陣の上に垂れた血が陣に広がった。

 召喚陣が赤黒く光りだし、白い靄が出てきた。白い靄が机からこぼれ落ち、床に広がっていく。


 あぁ、来てくれるのか……?

 僕は砂時計を、回すことができたのだろうか?

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