第8話 臆病な引きこもり【トリスタン視点】
僕の地獄は、僕が十歳のときに始まった。父さんは外に愛人がいて、母さんが離婚して家を出たのとほぼ同時に再婚し、継母と婚外子だった腹違いの弟がやって来た。それからは……思い出したくもない毎日の繰り返しだった。
動物みたいに飼われて、「穀潰し」「目障り」「気持ち悪い」と“かわいがられる”のが僕の日課で、そうやって気持ちをスッキリさせてあげるのが、家族から与えられた役目でもあった。期待を向けて縋れば殴られて、呼吸をしているだけで嘲笑を浴びて、存在を生きたまま埋葬するように、隅へ隅へと追いやられた。
このまま一生を終えるなら、一秒でも早く死んでしまいたい。
この日々から抜け出せるなら、もうその形はなんだって良かった。良かったのに……突然僕の中に現れた不思議な人は、たった一人で世界をぶち壊して、一瞬で景色を変えてしまった。
黒髪黒目の、僕より少しだけ背が低いその人は、気楽な笑顔で名乗る。
「俺は栗野マサキ、マサキの方が名前な」
* * *
「あー、疲れた。神官の仕事マジつまんねぇ。辞めてぇー……」
僕の声が、僕ではない人の言葉を紡ぐ。最初は不思議だったその感覚も、繰り返されるうちにすんなりと慣れてしまった。
『どこがつまんないの? みんなマサキに感謝してるのに』
僕は、誰かに感謝されるという経験があまりない。それは父さんが継母と再婚する前からだった。父さんは当時仕事を理由にして家に帰らず、母さんは不倫している父さんに恨み言を吐いていて、誰も僕を気にかけてくれる人がいなかったからだ。
毎日働いて、それが誰かの感謝に繋がっている。それを見ると、僕の体にも誰かの役に立てる力があって、生きている意味があったのだと思えて嬉しかった。
働いているのはマサキだし、呼ばれてるのも本当はマサキのことだけど、誰かが親しみを込めて……笑顔で『トリスタン』って呼んでくれる。それがどれだけの幸福かを、マサキが僕の体で『トリスタン』として振る舞うようになって初めて知った。
だから僕は、マサキが僕の代わりにトリスタンとして生きてくれていることにホッとしている。
『そりゃ決まってんだろ。毎日毎日、同じ場所で同じことの繰り返し。どんだけ頑張ろうが、給料は一律で変わらないしな。向いてるヤツには天国でも、向いてねぇ俺には地獄ってこと』
『じゃあ、マサキはどんな仕事だったら楽しいの?』
『そうだな……成果と評価が給料に反映されるのが一番かな。自分の努力が数字で、実益で見えるって最高だろ?』
マサキは元の世界では営業の仕事をしていたらしい。詳しいことはわからないけど、世界中を飛び回って、商談ってのをたくさん成立させるとその分だけ報酬が上乗せされていたと言っていた。
それだけでわかる。マサキは自分の実力に自信があって、未知にも飛び込んで、自分で自分の道を切り拓いていける人だということが。僕は一生かかっても、マサキには届かない。彼がしていた仕事の話を聞いただけで、足が竦んでしまいそうなほど怖く感じたから。
そもそも元の僕には家を出ていくなんて発想もなかった。あんなに痛い思いをして、悲しい思いをしても、ここだけが僕がいてもいい場所なんだって信じていた。
マサキがスープの皿を父さんに叩きつけたとき、僕は初めて「みんな大嫌いだった」と自覚した。マサキが家を出て、教会に保護されて初めて、僕が呼吸して良い場所は他にもあるのだと知った。マサキが道を切り拓く人だからできたことで、僕が一番最初にマサキから教わったことでもあった。
『マサキの好きな仕事は、僕には向いてなさそう』
『向いてなさそう、じゃない。絶対向いてない、病むぞ。俺の同僚も、どんどん病んで辞めてったからな』
そう言ってマサキは意地悪く、ケタケタと笑い飛ばしていた。けれどそうやって、ちゃんと本当のことを教えてくれることがどれだけ優しいことなのかは、わかるようになってきた。
マサキが向いてない神官の仕事を続けるのも、僕がトリスタンとして戻ったときにできる仕事として残そうとしてくれているからだ。誰かに感謝されて、出来不出来で左右されずに給金がもらえる、無理なく続けやすい仕事を。それはマサキがマサキとしてではなく、あくまでも『トリスタン』として生きている証明でもあった。
僕は、マサキの期待に応えられるのかな。
いつか自立して、トリスタンとして生きていく、なんて。
無理だ……マサキを死なせたくない。
マサキがいないのに、一人でなんて生きていけない……怖い……
情けない話だ。こんなに丁寧に土台を固めて、基礎まで築いてもらっているのに。自己嫌悪に沈む僕の思考に、先日会ったデメトリオさんの姿が浮かぶ。
『デメトリオさんは、元気にしてるかな。デメトリオさんは騎士になりたかったって話だったけど、騎士と農業……どっちが向いてたんだろう?』
騎士になる夢を見て、夢破れて田舎へと帰ってきた青年。そして田舎を疎み、家業である農業を嫌っていた青年。ちょうど僕と同じ年齢くらいだった。彼も僕と同じように、『転生者』の魂を体に宿していた。
『さぁ? 採用試験落ちたなら、少なくとも騎士は向いてなかったんだろ。下手に騎士になって、殉職しても微妙だしな』
『それは、そうかも』
騎士団の採用試験。最初は、それで夢が潰えて、努力まで消えてしまったなんて残酷だと感じていた。しかしそれが向き不向きを判定するためのものなら、採用試験とはマサキだ。向いていないのに無理をして命を落とさないよう、悲しみを未然に防いでいる優しさなのかもしれないと思った。
『じゃあ、農業は?』
『騎士よりはマシなんじゃないか?』
『マシ?』
『まだそっちの方が幾分かは良いって意味。そもそもやりたいことやれてるヤツの方が少ないし、農業やってくしかないだろ』
『そっか……デメトリオさん、少しでも農業楽しめるようになってるといいね』
デメトリオさんの中にいた転生者のイチロウさんは、マサキとはまた違う雰囲気の人だった。田舎でのんびりと農業をやるのが夢だった人で、落ち着いていて、穏やかで柔らかい話し方をしていた。
ほんの少し会話しただけなのに、親しみが湧いてしまうような人柄で、一緒にいたらきっと「死んでほしくない」と全力で引き止めてしまうのだろう。今まさに、マサキにしてしまっているように。
魂を抽出するとき、デメトリオさんはイチロウさんを追いかけた。魂が癒着したとき、「本当は消えてほしくない」「いかないで」というデメトリオさんの声が聞こえた気がした。きっと僕が同じ立場でも、マサキに同じことをしてしまうのだろう。
いや、そんなことを思うことがもう、おこがましいのかもしれない。僕はデメトリオさんとは違う。たったの一度だって、「自分の体を取り戻し、マサキとお別れしよう」なんて決断できたことがないのだから。
デメトリオさんはどうして、イチロウさんと別れる決断ができたんだろうか。何をきっかけに思いきれたのか、どうやって気持ちに整理をつけたのか。
イチロウさんがいなくなったあとも、デメトリオさんは農業を継続していると、先日届いた手紙に書いてあった。家族と共に、一人前になって、立派に。最初は横並びの位置にいたのに、彼はずっと先へ行ってしまった。そして置いていかれた僕は、今日も変わらず同じ場所でじっと突っ立っているだけ。
だから僕は考えている。どうしたらマサキが納得して、このままここに留まってくれるようになるかを。僕は別に、トリスタンとして生きてくれなくていい。この体をマサキとして使ってくれたって構わないと、生きることを諦めてしまった経験があるこそ、本気で思っている。
けれどその話をしても、マサキは決して受け取ろうとしてくれなかった。マサキにはマサキの価値観があって、譲れないものがある。道を切り拓いていける人の信念に、弱い僕の願いが通るはずもなかった。




