第7話 魂の破片……グラボが搭載されたらしい
イチロウさんと出会った春が終わり、夏の乾いた風が吹くようになった頃、彼から教会へ連絡が来た。『結論が出たので、町へ来てほしい』と。
あまり気乗りはしない。もうすぐ、人一人の命と人生が終わるという現実に、少しだけ気持ちに影が差している。
それは自分が彼を抽出して終わらせるからとか、情が湧いて別れ難く感じているからとか、悲劇に浸るような派手な感情ではない。名前も知らないどこかの誰かの葬式に立ち会うような、悲しみはなくとも沈むような、何も知らないのに想像して思いを馳せてしまうあの感覚に似ている。
「おぉ、遠くから来てくれてありがとう。待っていたよ」
イチロウさんは最初に会った頃よりも柔らかく、明るい雰囲気で出迎えてくれた。知らない世界での緊張が解けて、数か月ではあるが彼なりに良い時間を過ごせたのかもしれない。
「想像していたよりもご連絡をいただけるのが早くて驚きました」
「期間に関しては、私が勝手に線引きして決めていたのでね。けど、デメトリオくんは本当によく持ち直してくれました。さすが騎士を志していた方です。心も本当にお強い」
イチロウさんは自分の孫を誇るように、嬉しそうに顔を綻ばせている。顔だけなら十代の若者なのに、瞳に宿る光は青年の外見に不釣り合いな哀愁と、芯のある輝きを持っていた。
「そうだ、最後に本来のあなたのお名前と年齢を伺っても?」
「……栗野マサキ、年齢は三十二です」
「あぁ、思っていたよりずいぶんとお若い。それではトリスタンさんも、なかなか思い切れないでしょう。私のような老いぼれとお別れするのとはワケが違いますからね」
そういうものか?
確かに普通の死であれば、若者と老人ではその悲劇性に差を感じやすい。けれど俺もイチロウさんも、もう本来は死んだ人間なのだ。今更そこに年齢差などないのではないかと俺は考えている。それを、トリスタンも理解してくれると助かるのだが。
俺が少し考え込んだからだろうか、イチロウさんは「ふふっ」と微かに息を漏らす。胸の奥にある飲み込めなさを見透かしたように。
「マサキさん、どうか無理はなさらず。お二人が、良い結論を見つけられますように」
「ありがとう、ございます……」
イチロウさんは穏やかな笑みのまま、ベッドへと体を横たえる。それは、魂を抽出する心の準備が整ったという無言の合図でもあった。
彼は、穏やかに終われるのは年齢のおかげだとでもいうような口ぶりでいる。けれど、果たして本当にそうだろうか。年齢を重ね、老人と呼ばれるところまで辿り着けたとして、一体どれだけの人が静かに自分の死を受け入れられるのだろうか。自分で自分は終わってると考えている俺が言うのもなんだが、全員が全員そうなれるとは到底思えなかった。
「抽出を開始してもよろしいですか? デメトリオさんとのお別れは済んでおられますか?」
「えぇ、彼とは本当にいろんなことを話しました。爺さんのつまらない話も熱心に聞いてくれて、私の子供たちより優しい子だ」
そう言って懐かしそうに目を細めて、イチロウさんは苦笑した。それだけで、デメトリオさんも彼の子供もどちらも、彼を慕っていた心の温かな人たちだったことが伝わってきた。
「そうでしたか。では、目を閉じてください。抽出を開始します」
イチロウさんが目を閉じたことを確認し、彼の額に手をかざす。魔力を集中させ、魂の気配を探っていく。
『本当に……するんだね』
トリスタンのか細い声が、子供が服の裾を引っ張るように俺を引き止めてくる。まったく、こういうところだ。こっちだって、血も涙もない人間ではない。思うところがあってもやることはやる、それだけだ。
イチロウさんの気配がする魂に、触れた感覚が指先に伝わってくる。それは彼の平凡で、けれど決して平坦でもなかった人生のように。つるんとしていて、表面が微かに波打っている感触がした。
魂を掬うように柔らかく掴み、そっと引き抜いていく。けれど、少しずつ体の外に向かって離れていくイチロウさんの魂を追いかけるように、デメトリオの魂が傍に寄り、彼の魂と癒着を始める。
おい、どういうことだ。
繋がったら抽出できなくなる……!
魂の抽出という初めての試みに、想定外の状況が降りかかる。デメトリオの魂を引き剥がそうにも、二つの魂は溶けて繋がったガラス玉のようにびくともしない。
俺は内心かなり焦っていた。このまま魂がくっついた状態が良いものなのか、悪いものなのか。もし抽出に失敗したらどうなるのか。下手に力を加えて砕いてしまったら無事では済まない。魔力という慣れない力に微かな恐怖を抱きながら、どうすれば良いのか思考を巡らせていた。
──ピシッ……
小さな亀裂の入る音。そして次の瞬間、イチロウさんの魂がバキッと音を立てて一部割れた。イチロウさんの魂の破片をデメトリオの魂が抱きしめるように自分の中に飲み込むと同時に、イチロウさんの魂は体外へと抽出された。
それは魂を一部切り崩してでもデメトリオを突き放したようにも、一部だけをデメトリオのために遺し、託していったようにも見えた。
俺の手のひらに、透明なガラス玉のような魂が乗っている。拳くらいの大きさのそれは、少しだけ欠けた月のように歪になり、割れた断面を晒している。やがて依代になる体を失った魂はふわりと浮き上がり、淡い光を放ちながら、サラリと風に溶け消えていった。
『さよなら、イチロウさん……』
手のひらに感じていた魂の感触や重さも消え失せ、俺の頭の中にはトリスタンの寂しそうな声だけが残っていた。
* * *
「どうも改めまして、神官のトリスタンと申します。直接お話するのは初めてですね、デメトリオさん。よくも抽出を阻害してくれましたね」
「そ、それについては、本当に申し訳ないと思ってる。オレの弱さで、イチロウさんも危険に晒してしまって……ただ、どうしても……」
俺は目を覚ましたデメトリオに早速説教をかましていた。彼は歯切れ悪く謝りながらも、イチロウさんへの未練を口にしていた。トリスタンも似たようなもので、あまり強く責める気にもなれない。むしろトリスタンと違い、きちんと決別することを決意できただけ褒めてやるべきかもしれない。が、俺はそんなに甘いつもりはない。
「どうしても、ではありません。万が一何かあれば、イチロウさんも、あなたのご両親も、深く悲しむことになります。私は責任取れませんよ」
「……はい」
「家へ帰りましょう。ご両親がお待ちしておりますよ」
しゅんと肩を窄めて反省するデメトリオに、帰宅を促す。彼の両親もイチロウさんに消えてほしかったわけではないが、デメトリオが元の元気を取り戻すことを待ち望んでいた。夢を応援し、都合の良い変化を遂げても息子の違和感を疑ってくれるような両親を蔑ろにしてはいけない。
扉を開いて、デメトリオは外へと出る。日の光の眩しさに手をかざし、彼は目を細める。そうして「あぁ……」と感嘆の声を上げた。
「これが、イチロウさんの目に映っていた世界なんだ……つまんない田舎だったオレの世界が、こんなにも輝いて見えるなんて。あの人の考えや感情が、一緒に息づいて生きている……そんな気がします」
デメトリオはそう呟いて、胸に手を当てて切なげに微笑むと、一粒だけ涙を零した。その透明な一雫は太陽に煌めき、雨のように落ちて土を濡らす。それはどこか、イチロウさんの魂の色に似ているような気がした。
『なんか、寂しいのに……少し胸が温かくなるような、不思議な感じだったね』
『あんたの感想は聞いてねぇよ』
『ひとりごとだよ』
『へー、それにしては頭にガンガン響くひとりごとだな』
イチロウさんが抱いていた定年後の夢、田舎移住スローライフ。期間限定とはいえ、少しは楽しめただろうか。未練は何もなかったのだろうか。つい、そんなことを考えてしまった。
イチロウさんはきっと、俺が知らない多くのことをデメトリオに遺していったのだろう。だからこそ、彼は生きる気力を取り戻して自立できた。
俺がトリスタンに残してやれるものは、なんだろうな。
実るほど、頭を垂れる稲穂かな──昔、誰かから聞いた言葉が頭をよぎる。さざ波のようにざわめく金色の麦の穂に、かつて見た稲穂が揺れる景色を重ね見ていた。




