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第6話 異世界終活【イチロウ視点】

 私がイチロウとして見た最後の記憶は、倒れた私のもとへ駆けつけてくれた妻の顔だった。彼女がどうか私のことを引きずらず、子や孫たちと穏やかに、そして健やかに暮らしていることを、この遥か遠い異世界の地から願っている。


 トリスタンという神官が訪ねてきてくれてから、私の生活は一変した。それまでは戸惑いの眼差しばかり向けていたデメトリオくんの両親も、彼のついた優しい嘘のおかげで『精霊イチロウ』として温かく受け入れてくれるようになった。


『なぁ、農作業のどこが楽しいんだ?』


 彼の両親と共に農作業に精を出す私に、デメトリオくんは尋ねる。彼は騎士を志して、夢破れて田舎へと帰郷したということはすでに知っていた。


『なんだろうね。子育てが終わると、爺さんってのはまた何かを育ててみたくなるものかもしれないね』


 デメトリオくんは、わけがわからないと言いたげに嘆息した。若いというのはそういうものだ。まだ自分が育つ途中の段階で、何かを育てることを楽しいと思えるのは心に余裕のある側だけだろう。


 夢の中のデメトリオくんは、いつもベッドの隅っこで膝を抱えて壁にもたれかかっている。昼間なのに少し薄暗い、狭い一室。外に見えているのは、欧州の都市を思わせるような……田舎とは程遠い街並みの風景だ。


 彼はそれをぼんやりと眺めては、ふとしたときに言葉を漏らす。私はそれを拾って、少しだけ会話を交わす。それが日課になっている。


「オレはこのまま田舎で、変わり映えしない毎日を過ごして死ぬだけ。退屈で、無意味で、生きてる意味なんてないだろ」

「あぁ……懐かしいね。私も若い頃は、そんなふうに燻ってたなぁ」

「……イチロウさんが?」

「そうだよ」


 あの頃の私は何が欲しかったのか、正直なところ自分でもよくわかっていない。見えない何かに追い立てられて、このままではダメだという焦燥だけはあって、けれどどうすればそれを打開できるかもわからなかった。


 会社に勤めれば一人前になれた気がして、金を稼げば幸福が掴める気がして、結婚すれば誰かに認められる気がして、子を持ち育てあげれば何者かになれる気がして──気づけば、結局何者でもない爺さんになっていた。


「私は気づくのが少し遅かったんだ。どんなに功績を残そうと、興味のない人にとってはただの背景でしかない。私はこの世に生きる大半の人からすれば、通りすがりの爺さんだ。けど、家族の前では“寅木(とらき)イチロウ”という人になる。それだけで十分だったんじゃないかって」


 だから、不思議と後悔はない。愛する妻がいて、大切な子供がいて、かわいい孫にも恵まれた。叶わない老後の夢を密かに胸に抱きながら、ベランダのプランターのミニトマトが実るのを楽しみにしているだけの、平凡な人生で終わりを迎えてしまったとしても。


「それをデメトリオくんにわかってくれとは言わないよ。これは死んだ爺さんの境地だからね。私から言えるのは、もう一度、君の心の向くままに走ってみるといいってことくらいかな」

「けど、オレはもう……」

「騎士だけが君の人生とは限らない。かといって田舎にいて、農業に専念しなきゃいけないってこともない。元々君は、一度夢に挑戦した勇気のある人間だってことを忘れないでほしい。燻っている理由を探しもせず、夢に挑むこともなかった私より、君は遥かに強い。この失敗と挫折を乗り越えられたら、向かうところ敵なしだよ、きっと」


 デメトリオくんは視線を一度自身の膝へと落とし、やがてまた窓の外へと向けた。外に広がる、もう手の届かない都会の風景に焦がれるように。


「少し説教臭くなってしまったかな。爺さんの悪い癖だと思って、大目に見てくれると助かるよ。まぁ、今決めたところで、しばらくは私のカブ栽培に付き合ってもらうことにはなるけど。いやぁ~、カブなんて初めて育てるから、つい年甲斐もなくわくわくしてしまうね」


 特に返事を期待したわけでもない軽口に、クスッと小さく息が漏れる音が答える。ふと視線を向けると、デメトリオくんが呆れたような眼差しで微かに笑っていた。



* * *



 それから月日は流れ、順調に育ったカブは収穫の時期を迎えていた。電線一つないだだっ広い青空の下、畑一面に揃ったカブに感動し、胸の奥が震えていた。試しに手近にあった一株を抜いてみると、大きくて丸々と太った真っ白なカブが顔を出す。


『立派なカブだね。素人だとこうはいかないんだろうなぁ』

『そうか? あ、張り切るのは良いけど、あんまり無茶しないでくれよ』

『すまないね。若くて体が軽いから、ついつい』


 やはり十代の体というのは、六十代後半の爺さんのものとは比べものにならない。特にデメトリオくんは、騎士見習いとして鍛え上げられてきている。軽いだけでなく力も体力もあって、つい調子に乗ってしまいがちだ。


 借り物の体なんだから、最後まできちんと大切にしないといけないね。


 そう自制して、今日の収穫にとりかかる。それはいよいよ、デメトリオくんと取り決めた期日になったということでもあった。


『カブを収穫して、食べる。それが終わったら、君は自分の体を取り戻して、君の人生を生きるんだ。私は君が健やかに生きてくれていれば、もう思い残すことはないよ』


 デメトリオくんは返事をしなかったが、なんとなくお互いの暗黙の了解のようになっていた。私は彼の母が作ってくれたとろとろのカブのスープを味わい、一度失われたはずの団らんのひとときに身を置かせてもらった。


 その夜、夢の世界に一つの変化が現れた。それは窓の景色が都会の街並みではなく、麦の穂が揺れる田舎の田園風景に変わっていたことだった。きっと彼は彼で、気持ちの整理を済ませて覚悟を決めたのだろう。


「本当にいなくなる、のか?」

「そうだね。約束したはずだから」


 デメトリオくんは眉を下げ、潤んだ瞳を窓の外へと向けて逸らす。彼はそのまま俯いて、背中を少し丸めていた。


 元々私とデメトリオくんの関係は健全ではない。一つの体に二人の人間、それも体を動かしているのは本人とは別人だ。彼を待っているのは両親だけではない。町には友人もいた。彼は必ず、元のあるべき姿へ帰るべき人間だ。


「老いぼれの爺さんのワガママに付き合ってくれて、嬉しかったよ。人生の最後にこんなにも楽しい時間をもらえて、神様がいるならずいぶんと粋なことをなさるものだね」


 最近のデメトリオくんは膝を抱えることもなくなっていたのに、とうとうまた膝を抱えてしまっている。別れを惜しんでくれることは嬉しく、けれど離別の痛みを彼の心に遺してしまうことは少しだけ心苦しくもあった。


「なぁ、カブの花って見たことある?」


 ぎゅうっと縮こまった彼から、くぐもった声がする。弱々しい微かな吐息の震えに、私は気づかないフリをした。


「そういえば知らないなぁ」

「だったらさ、カブの花を見てからにしない?」


 それは遠回しの、期限付きの関係の終わりをほんの少しだけ先送りにする、延命。私は、トリスタンさんに言われた言葉を思い出していた。


『ですが、心配しておられるご家族がいらっしゃることは忘れないでください。特に、デメトリオさん』


 私は、デメトリオくんがまた自分の人生を生きられるように、ほんの少しだけ前を向けるようになる手伝いがしたかった。あの言葉は、その過程でこうして別れ難くなってしまうことを危惧していたものだったこともわかっていた。


 そしてそれは、トリスタンさんもきっと同じだったのだろう。少し交わした会話の中で、そう感じていた。彼は、他人の人生を我が物にするタイプではない。本当のトリスタンさんに引き止められて、体を返せずにいるのだと。


 きっと彼は、まだ若いんだろうね。

 距離感を取るのは上手だったけど、他人へ向ける刃はまだずいぶんと丸い。


 私は長寿というほどではないが、それなりに長く生きた。優しくすることの意味も、突き放して厳しくすることの意味も、経験を通して踏み越えてきた。


「カブの花が咲くのは、そんなに先じゃない。ワガママ聞いてやったんだから、オレのも聞いてくれよ」

「そうだね、それもいいかもしれない。せっかくのお誘いだから、花を見てからにしようか」


 ワガママのお礼に、私は一つだけデメトリオくんの願いを聞き入れた。口にはしないが、これが最後の約束。貸し借りも、それで清算だ。


 それからしばらくして、一株だけ残しておいたカブが花を咲かせた。黄色くて小さな愛らしい花が、控えめに風に揺れている。


「菜の花に似た、かわいらしい花だね。最後まで、知らないことを学ばせてもらえるなんて、ありがたい話だよ。見せてくれてありがとう、デメトリオくん」


 心の中で話しかける方法は身に着けていた。けれどもういよいよ終わりが近い。感謝くらい、声に出して伝えたかった。


『イチロウさんがしてくれたことに比べれば、こんなの大したことない』

「デメトリオくんにとってはそうなんだろうね。けどね、相手にとっても同じ大きさとは限らないからね、こういうのは」


 風に吹かれるまま、気ままに。カブの花は根を張ってここから一歩も動けない。けれどその凛とした素朴な佇まいは、どこまでも自由に見えた。

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