第13話 社会復帰の夢【トリスタン視点】
国王陛下から依頼されたフェルミン殿下の件が解決してから数日、僕は時折あの日のことを思い出しては考えている。マサキが知れば、きっと僕を「暇人」だと罵るだろう。
とはいえ、マサキがトリスタンとして体を動かし、仕事をして、生命維持してくれているからこそ思考に耽ることができるのだから、「暇人」という罵倒はあながち間違いでもなかったりする。
フェルミン殿下の中にいた転生者は、その前に会った転生者のイチロウさんとはずいぶんかけ離れた印象の人だった。僕はあの転生者と出会ったことで、マサキがどれだけ僕に気を使って、大切に扱ってくれていたのかを理解した。
もちろんそれ以前から大切に扱ってもらっているとは思っていたが、本来のフェルミン殿下が塗り潰すように消えていくのを見て、改めて実感したのだ。けれど、それと同時に僕は気づいた。マサキが頑なに、僕に体を返そうとする理由が、そこにあるのだと。
マサキは恐らく、自分が行動をすることで本物のトリスタンを塗り潰していくことを忌避している。それはマサキが、僕が体を取り戻したあとも困らずそのまま生活を継続していける形を築いて維持していることからも感じられる。
それでも、どうしようもないところもある。それがマサキと僕の性格と能力の差だ。できるだけ本物から乖離しないようマサキが僕を再現するなら、今の『トリスタン』はない。もしかしたら今もあの狭い屋敷で家族に詰られて、虐げられたままだったかもしれない。
トリスタンという存在をより良く、これまでの暗い人生を好転させようとすれば、当然本物のトリスタンからは乖離していくことになる。マサキが僕に、真っ当に生きられる道を拓けば拓くほどに、本物のトリスタンは消えていく。いや、きっともう消えてしまったのだろう。
僕を知ってるのは、大嫌いな家族だけ。
教会のみんなが知ってるのは、マサキだから。
本物のトリスタンとはもう、マサキのことなのだと僕は思っている。だから僕が体を取り戻すということは、転生者がフェルミン殿下にしたことをするようなものなのだ。
違いがあるとすれば、そこに明確な破壊意思があるかどうかだけ。僕はきっと壊したくない思う。けど、能力も勇気も足りなくて、少しずつ削られて、ヒビが入って、最後には瓦礫しか残らない。
フェルミン殿下を知る人たちはみんな、フェルミン殿下らしさが消え失せた姿に戸惑い、嘆き悲しんだ。彼がどれだけ慕われていたか、愛されていたか、信頼されていたかが見えた。その強い光に影が濃く長く伸びるように、転生者のフェルミン殿下には深い落胆と失望が見えた。
転生者のフェルミン殿下、あれは未来の……トリスタンとして体を取り戻したあとの僕の姿だ──
「今日めちゃくちゃ静かだな。俺は快適だけど、あんた大丈夫か?」
マサキの声がして、ハッと意識が現実へと向く。精神空間に置かれた、明らかに風景からは浮いている寝台。その縁にもたれかかって座るマサキは、退屈そうに足元の雪を踏み固めていた。
「そんなに静かだった?」
「あぁ、それはもう。普段ならクソどうでもいいことでも、あれは、これはって聞いてくるのに」
「今日はあまり、気になることがなくて」
「へー」
僕の返答を、マサキはあまり信じていないようだった。けれど、それ以上踏み込んで詮索してくることもなかった。気にならなければ話題にする必要もなかったはずなのに、彼は興味なさそうな反応で話を終わらせた。
マサキが、あの転生者みたいに人生を欲しがってくれたら良かったのに。
全部俺のものだ、俺が生きる、って言ってくれたら良かったのに。
マサキが第二の人生だと喜んでくれていたら、きっと僕はこんな苦しい思いを抱えずに済んでいた。マサキが好転させていく人生のお零れをもらって、小さな幸せに浸って生きていけたのに。
『でもこうなってるのは、死んだ俺に神様がチャンスをくれたってことだろ?』
『神様から見て、フェルミンは要らない人間ってことなんじゃね?』
あの転生者の言葉が胸の奥に刺さり込んでしまったのか、ずっと頭を離れない。マサキは神様が認めるくらい必要とされる存在で、僕はマサキに書き換えられても問題がない不要な人間。
実際トリスタンの中身がマサキになって困っているのは、この世界にただ一人マサキだけだ。フェルミン殿下には当てはまらない的外れな言葉も、僕の場合はすでに環境が証明を終了してしまっていた。
「なぁ、トリスタンは体を取り戻したら、最初に何がしたい?」
「僕は、取り戻さない。今のままでいい」
「脊髄反射かよ。ったく、マジでそこだけは頑固だな……俺がしてるのはもしもの話だ。そんな深刻に受けとらず、雑談だと思って軽い気持ちで考えてみろって」
マサキの意図が読めなくて、じっと彼を凝視する。呆れながら笑っている顔、軽く竦めた肩、楽に崩した体勢。うん……やっぱり、何もわからない。それでも、今こんな話題を振ってきたことには何か意味があるはずだ。
「……それで、『体を取り戻したら、それができるな!』とか、言わない……?」
「言わない、言わない。今日だけは、な」
「じゃあ明日には『昨日したいこと見つけたよな!』って迫るってこと!?」
「どんだけ警戒してんだよ……逆に引くわ。そんなことしないって」
「本当?」
「本当。あんたは、毛ぇ逆立ててる猫かよ」
「わかった……それなら、少し考えてみる」
体を取り戻したら、最初に何がしたいか。聞かれるまで考えようともしなかった。考えてみて初めて、自分に何もしたいことがないことに気づく。いや、できると思えることが何一つ思い浮かばないというのが、正しいのかもしれない。
「そんな考え込む話か? 肩の力抜いて考えてみろって。あんた今、自分が食べるもんすら俺に決められてんだぞ……なんか食べに行きたいとか、そういう簡単なやつとか、なんかあるだろ」
食べたい……もの?
僕は、何が好きなんだろう……?
考えても、自分がどんな食べ物を好んでいたのか思い出せない。幼い頃にはあったような気もするし、なかったような気もする。
もう何年も何年も、水で薄められた冷たい野菜の欠片スープや、乾燥して固くなったパンの切れ端の記憶しかない。マサキが家を出てからはいろんなものを食べたが、自分で体を動かしたわけでもなく摂取したものの記憶はあまり深く残っていなかった。
「……悪い。まさか食べ物すら出ないとは思ってなかった」
「あっ、謝らないで。マサキがいろいろ食べてくれてたのに、覚えてない僕が悪いんだから」
僕が何も言わないせいで、マサキに嫌な思いをさせてしまった。気を使わせたかったわけではないと、慌てて言葉を口にしたものの、マサキは変わらず気まずそうに頭を掻いていた。
「ねぇ、マサキは何が好き? 何か食べたいものはあるの?」
「俺? 俺は肉とか魚とか……あー、魚って言ったら寿司が食べたくなってきたな。あと味噌汁と……クソ……ここにきて和食が無性に食べたくなってきやがったな……」
突然マサキは頭を抱えて俯くと「海外慣れしたホームシックと無縁のこの俺が!」と髪の毛をぐしゃぐしゃとかき混ぜ始めた。こんなマサキは見たことがない。いつも気さくで、風みたいに気ままに見える彼が、故郷に強く焦がれている姿に少し驚いていた。
「聞いたことない食べ物ばっかりだね。すしとか、みそしるとか、わしょくとか」
どんなものか質問すると、マサキは一つずつ教えてくれた。まず『和食』は、マサキの故郷の料理全般を指す言葉らしい。『味噌汁』は魚の出汁に味噌という調味料を溶かしたスープで、具材はわりと自由なのだとか。スープは僕もよく飲んでいたから、なんとなく想像はできた。
一番驚いたのは『寿司』だ。リゾットにも使うあの“米”に砂糖と酢を混ぜて、一口くらいのワイン樽みたいな形に握る。そのあと、魚の切り身を生のまま上に乗せて、醤油という調味料とわさびをつけて食べると言っていた。マサキの世界の『寿司』は、未知すぎる。
そもそも米はワイン樽みたいな形に固められるのか。魚の切り身は生のままでお腹を壊さないのか。米に砂糖と酢を入れておいしいのか。僕の知識が足りないせいか、『寿司』の外観にすら想像が及ばなかった。
「僕の世界にはないものがあって面白いね」
「そうなんだよな……だからジェネリック寿司もジェネリック味噌汁もない……俺は一体どこで寿司と味噌汁を摂取すれば……」
「ジェネリック?」
「代替品ってこと」
「あぁ……それはないね……」
見たことも聞いたこともない調味料を使ったり、突飛な食べ方をする料理が、その辺にあるわけがない。世界中を駆け巡ればもしかしたら奇跡的に見つかるかもしれないが、少なくとも僕の生活圏に似たものはなかった。
「そうだ、マサキ。僕、体を取り戻したらやりたいことできたよ」
「お、なんか食べたいものが思い浮かんだか?」
マサキは一瞬目を丸くし、フワッと崩れるように目元を和らげて笑う。この表情を見ると、胸が温かくなる。親しみの込められた眼差しが、僕がここにいて、僕を友人の一人として認めてくれているような気持ちにさせてくれるから。
「食べたいものはないけど……マサキと二人で、どこかに食べに行きたい。それが、僕が体を取り戻したら一番最初にやりたいこと……かな……」
「そうか。いつか、叶えばいいな」
「……うん」
体を取り戻せば、マサキは消える。僕は実現は難しいとわかっていて、それでも心からの本心を口にした。だってこれは、ただの気楽な雑談だから。
そして叶わないとわかっているはずなのに、マサキも否定はしなかった。これは、軽い、なんでもないただの気楽な雑談だから。
叶わない夢を、夢のままに……今だけは受け止めてくれていた。




