1.忘れ薬
古びた木枠の窓から差し込む淡い月の光が、明かりを落とした室内を照らす。
ぶくぶくと煮立ち鍋を覗き、完成してしまった忘れ薬を前に私は大きく息を吐き出した。
禍々しくどんよりとした緑色をしていた液体が、完全に透明になった。独特の匂いは残るが、色がなくなることが成功の証だ。
「成功、しちゃった」
ぽろりと漏れた声が、自分の本心を物語る。
大事な人に、一緒に過ごした時間、感じたことや得た情報を忘れてもらおうと作り出した忘れ薬だが、どこかで成功しないことも願っていたとわかる本音に苦笑する。
慣れた手つきで小瓶に詰め、テーブルの上に置く。
しばらく無言で見つめていたが、ふっと息をつき私は一つにまとめていた髪紐を解いた。少し癖のある赤い髪が、ばさっと肩の下まで落ちる。
そのまま窓に視線を写すと、眉尻を下げた情けない顔がぼんやりと映りこちらを見返していた。
「嘘であってほしかった」
金の髪に透き通った美しい水色の瞳を持つ恋人のウィルフレッドの姿を思い浮かべ、この期に及んで未練たらたらの自分に嫌気が差して唇を噛み締める。
今は暗くて色味がわからないが、光が当たるとオレンジの瞳がゆらゆらと不安そうに揺らいでいた。
ぱしんと両頬を叩き、自身に言い聞かせる。
「めそめそしていても事実は変わらないのよ!」
恋人が私に近づいた理由が、魔女の末裔として引き継がれてきた私の知識であることを、この耳で本人が騎士仲間に話しているのをはっきりと聞いたのは一か月前。
半年以上付き合っていた恋人が、裏切っていたなんて思いたくない。
いや、違う。
裏切るとかそんな次元の話ではなく、最初から騙す目的で近づき付き合っていたなどと信じたくなかった。
「魔女の知識、かぁ」
私は魔女の末裔で、占いやお手製の薬をメインに販売しながら細々と生活している。
魔女の知識といっても幅広く、確かに人に知られたくないものもある。だが、個人的な時間を使ってまで騎士が欲するような貴重な知識がどれなのかは検討がつかなかった。
これまでのすべてが嘘だと知ってから、この一か月どうすべきか悩みに悩んだ。
好きだから、好きになってしまったから、まだ心のどこかで信じたい気持ちがあるのは否定できない。
何より、優しくて、完璧な恋人なのは裏切りを知った後も変わらず、なかなかしっぽを掴ませてくれなかった。
問いただし魔女の知識に言及されても困るため、怖くて結局直接言及することはできなかった。
最後まで嘘であってほしいという思いとともに、逃げ出すことしかできなくて。
恋した気持ちも、優しい思い出も、現状では捨てることもできなくて。
何より、気づかないうちに漏れてしまったかもしれない情報と今後のこと思うと、この方法しか浮かばなかった。
魔女の知識をフル活用し作った『忘れ薬』の小瓶を眺め、大きく息をつく。
この薬は特定の『記憶』を忘れることができるものだ。
作用を限定する薬は作るのは複雑で、そのため一か月も要してしまったがこのたび無事完成した。
服用すると、ウィルフレッドは私との個人的な付き合いの記憶を忘れることになる。
私の存在自体を忘れると任務のこともあり周囲に疑われるため、本当は私のすべてを忘れる魔法をかけたかったがそれは断念した。
忘れたとしてもまた情報を知るために接近してくる可能性はあり、正直面倒くさいが怪しまれるのは困るため仕方がない。
「もとの生活に戻るだけ。相手が忘れたら必然的にこの想いも薄れていくはず」
偽りの恋を終わらせるだけ。
この関係は、ウィルフレッドの目的ありきで終わりが決まっていたものだと言い聞かせる。
ウィルフレッドにすべて忘れてもらい、私から終わりにするのだとエプロンも外し椅子にかけた。
椅子にはウィルフレッドにもらったクッションが置いてあり、視界にとめてしまったことにはぁと溜め息が漏れた。
これは座る時に腰を痛めないようにと、思いやりでプレゼントしてもらったものだ。
私はそこまで気にしていなくてもちょっとしたことにすぐに気づき差し伸べられる手に、何度も助けられてきた。
気持ちを外に出すことが不得意な私を急かすことなく、穏やかな笑みを浮かべながら待ってくれた。
五歳上の恋人の包容力に助けられ、毎日が彩られ、ウィルフレッドとの付き合いはとても楽しかった。一つも嫌なことなんてなかった。
見目もよく、王都騎士と憧れの職に就いているウィルフレッドはものすごく女性にモテる。
彼自身が社交的なため交友関係は広く、彼を知るたびに人との付き合いのうまさに感心し、自分に持っていないものを持っている彼を尊敬もしていた。
その分多忙な彼だが、付き合ってからは常にプライベートは私を優先してくれていた。
そのため恋人として微塵も不安になることなく、穏やかな時間を過ごせていた。
時間を見つけては会いに来てくれ、この半年は甘くぽわぽわと優しい時間のなかにいた。
誕生日を迎え十九歳になったが、十八で初めての付き合いで困惑する私のペースにウィルフレッドはずっと合わせてくれていた。
ゆっくりと愛を育み大事にされ、ものすごく幸せだと、うまくやっているから安心してと両親のお墓に報告したのはつい先日のことだ。
生前、母は父と出会って目に見える世界が変わったと言っていた。
両親の恋物語を聞いて育ち、父が母をとても愛しているというのは母を見つめる眼差しでわかったし、娘の私にも愛情をたっぷり注いでくれた。
家族との思い出は、人と過ごすことは、私にとってものすごく優しいものだった。
「最初に告白された時、もっとはっきり断っていたら、そこで終わっていたら、こんな苦しい気持ちにはならなかったのに……」
悔やんでも悔やみきれない。
家族以外で当たり前のように向けられる優しさや温もりを知らなければ、ひとりでいることの寂しさを知ることもなかった。
ウィルフレッドと付き合い、恋人という存在がどのようなものかを知らなかった時はそれがすべてで、恋人がいなくても困らなかった。何も思わなかった。
裏切られていると知っていてなお、憎ませてくれない相手。
こんなに苦しい気持ちは早くなくしたくて、淡く月の光に照らされた小瓶を眺めた。




