番外・ある少年の一歩
真夏になり、水害対策から水不足対策を取らなくてはならない八月。
だが、シュヴスで水不足が起こったことはないので、取るべきは蝗害対策だ。
それらの書類に向かうエリーサは無表情。
ガウフ達の件は見切りをつけたようなので、イウリアは何も言わない。表情で仕事をするわけじゃないから。
ただ、現在、書類を持って来たライアンは、背中に嫌な汗が噴き出すのを感じていた。
はっきり言って、怖い。
十人中十人が美人というだろうエリーサの無表情は、威圧感がある。だが、怖いのは表情ではない。かもしだす空気が怖い。
その原因が分かるだけに、恐怖が増す。それをどうにも出来ないから、さらに恐怖が増す。
執務室の本棚の前に座って、鼻歌交じりに本を読む諸悪の根源を、ライアンは蹴りとばしたくなった。
「……目標時間に届かなかったな。今日は出かけられないのか…」
諸悪の根源、もといロイの呟きに、エリーサの肩が揺れ、ライアンは反射的に飛びすさった。
黒い空気が、ぶわっと広がった気がした。
「……毎回毎回、うるさい!外に行きたいなら行けばいいだろうっ?!」
「俺は殿下の護衛ですので」
「胡散臭い口調をやめろ!それに、殿下はお前もだろうが!!」
「嫌ですねぇ、俺は伯爵家傍流の放蕩息子ですって」
「人をおちょくって楽しいか………!」
「かなり」
ロイの素直すぎる発言に、エリーサが怒髪天を衝く。
その様子を生暖かい目で見守りつつ、ライアンは執務机に近づく。
最後の書類に署名し終えてから怒鳴っているあたり、真面目だ、としみじみ思う。もしかしたら、ロイがタイミングを計っていたのかもしれないが。
裁可が欲しい書類を置いて、財務に分類された書類を手に取る。
いい加減慣れてきたので、ライアンはまだ言い争っているエリーサとロイを放って出て行こうと扉に手をかける。
肩越しに振り返ってみた二人に、ライアンは何とも言えない表情を浮かべる。
楽しそうに笑っているロイは、声も瞳もエリーサへの好意が駄々漏れだ。
それを分かっているのかどうかは分からないが、エリーサの頬は赤く染まっている。
(…絶対、分かってないな)
怒鳴り続けているエリーサだが、その口元は少し笑っている。おそらく無自覚だろう。
そして、ロイはそれに気付いている。
片や無自覚、片や確信犯でこのやりとりを楽しんでいる。
(……バカップル……)
どれだけエリーサが否定しても、この様子を見ればライアンと同じ感想を誰もが持つだろう。
はぁ、と深いため息をついてライアンはそっと退室していった。
※※※
財務部へ戻る途中、普段着姿で前方からやってくるリュトを見て、ライアンは苦笑した。
「……今日はお出かけになられないから、戻っていいと思うぞ」
「えっ?!」
呼びとめて伝えれば、ガーンという効果音が聞こえそうなほど驚いて瞳を丸くした。
「そこまでショックを受けるか?」
「いえ、少し、楽しみだったので……」
「……護衛、だよな?」
「うっ……」
王族の護衛は、普通ならかなりの重責で名誉な役目だ。
それを素で楽しんでいるのはいかがなものか。
(まぁ、まだ十二歳だし……)
十二歳の少年を護衛にすることがおかしい、と結論して、ライアンはぽふっとリュトの頭をなでる。
二番目の弟と同い年のリュトは、ライアンにとっては可愛い存在だ。
「……ほら、見習いは仕事が多いだろう?」
「はい。ありがとうございます」
礼儀正しく頭を下げて来た道を戻っていくリュトを見送って、視線を移す。
「……何してんの、ダニエル」
「いえ、たまたま通りかかっただけなんですが……」
ライアンが立っているのはT字路の分岐点で、リュトが戻っていった道とは別、ライアンの横手にあるところにはダニエルが立っていた。
「別に気配を殺す必要はないんじゃ…」
「すみません。無意識なんです」
「そう」
はぁ、とため息をつくライアンに、ダニエルは首を傾げる。
「どうかしましたか?」
「何で?」
「いえ、ため息がどこか重いような気が……」
「執務室で、ちょっと……」
それに、思わず納得する。
エリーサとロイがはたから見れば痴話喧嘩でしかない口論を見たのは、ライアンだけではない。
雑務官として控えることの多いダニエルは、誰よりも遭遇率が高い。
だが、それだけではないような気がして、ダニエルはライアンの手元に目を留める。
「……剣を、習われているんですか?」
「えっ、あ、や………まぁ、自己流で、体を鍛えようかと…」
ライアンの手には、細かい傷やまめができている。
あきらかに、慣れてないことが分かる。
ダニエルは武術、特に体術を修めているから、それが分かる。
無意識に、ダニエルはライアンの体を隅々まで見つめていた。
それに、ライアンがちょっと体を引く。
「な、何だ?」
「あ、いえ……一つ、いいですか?」
「?ああ」
「おそらく、剣よりも体術の方が向いていると思います」
「そう、なのか…?」
「はい。よければ、僕が教えますよ?」
「いいのか?」
「教える、というほど腕が立つわけでもありませんが……。ベレニセさんからリュトの指導を頼まれていますので、時間があれば一緒に…」
「そう、だな…」
ちょっと遠い目になる。
そこで、ダニエルも苦笑いを浮かべる。
はっきり言って、ライアンは超多忙である。
財務を取り仕切る権限を持っているが、指揮官として慣れていないライアンには全てが手探りなのだ。それに加えて、莫大な領地経営費用の計算は神経がすり減るような緊張感がある。
精神的にも肉体的にもきつい。
「……時間があれば、顔を出させてもらう」
「はい。いつでもどうぞ」
ダニエルも色々な仕事の雑用をしているからかなり忙しいはずだが、にっこりと笑って頷いた。
それに苦笑して、ライアンは歩みを再開させる。
「……そういえば、どうして鍛えようと思ったんですかね…?」
根本を聞き忘れ、ダニエルは一人になってから疑問符を浮かべた。
それに答が返ることは、当然、なかった。
財務部長室で、机に突っ伏してライアンはため息をついた。
「……ダメだよなぁ、オレ……」
ライアンは、自分の情けなさを改めて実感していた。
武術を始めた理由は、なんでもない。
自分だけが闘う、守る術を知らないことに、わずかな焦りを感じたからだ。
イウリアは一見そうは見えないが、かなり腕が立つことは噂で知られていたし、ベレニセもそういった発言をしていることがあった。
ベレニセは言わずもがな。
ダニエルは担っていた役割上、結構ハイスペックだ。
マリファは女官だから武術には関わりがないようだが、官吏としてはかなり有能だ。
エリーサ自身が相当な剣の腕であることは、素人目からも分かるほど。
ロイは護衛となるぐらいだから腕が立つのだろう。
二人が演習場で訓練しているのを見たことがあるから、分かった。
年下(一歳だけだが)のダニエルに教えてもらうのも情けないが、十二歳のリュトと同様というのも何とも言えない。
「……まぁ、リュト以下だってのは確かだなぁ」
それが分かっているが、すでに成人した年上としての無駄なプライドが邪魔をする。
感じている焦り自体が無意味なものだとも分かっている。
だが、どうしても関わりを多く持ちたかった。
これから、長く深く関わっていく人達と共通する物が一つでも多く欲しかった。
子供じみたことだと分かっている。
バカバカしいとも思っている。
だが、身を守る術を持つのは間違っていない。それは必要なことだ。
「………よしっ」
自己嫌悪を何とか、納得させて頷く。
顔を上げて、塔を成している書類を手に取る。
まずは、自分がすべきこと、自分に出来ることを、こなさなくては何も意味がない……。
影の薄かったライアンのお話…。陰で頑張ってるんですよ、という…。




