第五話・見つめるべきは Ⅰ
下町の大衆宿屋『山猫亭』。
ベレニセとも親しい主人は、二十年ぐらい前に妻を亡くし、一人娘(現在二四歳)とその夫(現在二五歳)、数人の使用人と店を切り盛りしている。
娘はベレニセから格闘術の手ほどきを受けていてかなり強いらしい。
そもそも、店の主人からして、元は山賊だと言う。山に迷い込んだ妻を助け、一目惚れされ、ほだされ、仲間のリンチから逃げ、最終的に婿入りして今や宿屋の主人だ。
中々に波乱万丈で、大恋愛。同年代からいまだにはやし立てられるという。
もろもろの情報をベレニセに聞いた翌日、エリーサは山猫亭の前に立っていた。
仕事は山積みで、いまだに解決していないことは多い。自警団員の面接はまだ終わっていない。
だが、なんとなく、エリーサはここに来るべきだと思った。
イウリアとは別に、全く違う視点で、知るべきことと見るべきことを、教えてくれると思ったから。
息を深く吸って、扉を押しあける。
明るい笑顔で声をかけてきた女性に、要件を告げる。
目を丸くした女性は、何を言うこともなく上階の客室に向かう。
数分して、目的の人物がうすら寒さを感じる愉しそうな笑みを浮かべて、下りてきた。
「…まだ二日。お友達には何も言われなかったのか?」
隣国の名門貴族の名を名乗りながら、傭兵をしている男。怪しいことこの上ないだろう。
実際、ベレニセとマリファは渋面で、苦言をこぼした。ライアンとダニエルは意見を控えた。
来るべきだと思ったというエリーサのあいまいな主張を後押ししたのは、イウリアだった。
最も意外な人物の後押しに、少々恐れを抱きながらも幸いと思ってやってきた。
「……警戒を怠らず、学べるだけ学んで来い、と」
事実、話を聞いたイウリアが言ったのはそれだけだった。
行くことを認める言葉はないが制止する言葉もないので、ベレニセは黙ったし、直後に何やら話していたマリファはため息をついて頷いた。
「なるほど」
視線が、エリーサの腰に向けられる。
そこには、この間はなかった細身の剣がある。
「腕に覚えが?」
「…私の師は、近衛軍師団長クラスの実力を持った人だ。勝てる者はさほどいないだろう、と言われた」
「へぇ。じゃぁ、今度、手合わせしよう。強い奴と試合するのは好きなんだ」
さっきまでの笑みとは違い、一気に柔らかく子供っぽさを表した笑みが浮かべている。
急な変化に立ち尽くしていると、ロイがエリーサの腕をつかみ、出入り口は邪魔だ、と外に出る。
「で、どこに行く?領主様」
「……名で良い。私も名で呼ばせてもらうから」
「了解、ラフィー」
「……それは…」
「ん?ああ、ルックロワーズでは違うのか。シェルドアースでは、王族や貴族はファーストネームで呼び合わない。セカンドネームが呼び名、ファーストネームは真名とされている」
「なるほど……」
ロイにとっては、エリーサのセカンドネーム・ラフィーで呼ぶのが当たり前。エリーサにとっては、滅多に呼ばれることのない名前という認識。
ここでもまた、エリーサが知らない新事実。
外交に携わる者なら知っているだろうが、エリーサは知らない。
知らず、ため息が出る。
「街中では良い偽名になると思うけど?本名だけど、そうと言い切れない名前だから」
確かに、全く違う偽名を名乗るよりも抵抗は少ない。
「それに、領主の名前は、粛清の時に広まってるだろうし」
言われて、エリーサは気付いた。
号外にも布告にも領主としてフルネームを載せている。
滅多にない名前と言うわけではないが、今現在、民の耳と記憶には強く残っている名前だろう。
同年代の少女が全くの同名なだけだ、と主張するのは非常に怪しい。ごまかすことは難しい。
この国では、セカンドネームはおまけだ。同じ名前で被りでもした場合に判別しやすくするためであったりもするらしい(王族と下級貴族で被った場合は悲惨、不敬罪に問われたり)。
王族のファーストネームを覚えてはいても、セカンドネームまで覚えている民はあまりいないだろう。
ロイの提案は、実に全うで都合がいいと分かり、頷いた。
慣れない呼び名に反応できるか大いに疑問だが。
「では、ベル、と呼んだ方が?」
「それはマジでやめて」
遮る勢いで返答があった。
ロイのセカンドネームはベルなので、当然の疑問なのだが。
「ラフィーみたいに名前を隠すような立場じゃないから。それに……なぁ」
ふっと遠い目になる。
首をかしげて、しばし考えたエリーサは気付いた。
ベル、は女性名だ。
セカンドネームとはいえ、男性につけるのは珍しい。だが、エリーサに近しい不老の人物も、男なのに女性名なので、もしかしたら土地によっては珍しくないのかもしれない。
本人がどう思うかは別にして。
「じゃぁ、ロイ、と……」
「うん、呼び捨てにしてもらえると嬉しい」
嘘偽りなく、嬉しそうに笑うロイに、エリーサはわずかに頬を緩めた。
和やかで、穏やかな空気をまとう二人を、背後からつけ狙う者がいることに、気付かずに。




