第二話
一睡も、できなかった。
目の下にできた酷いクマを、コンシーラーとファンデーションで入念に、執念深く隠す。
鏡の中の私は、今日もいつも通り「完璧な如月ひより」だ。
でも、ローファーを履く足が、自分のものじゃないみたいに震えていた。
*
「おはよ、ひより」
「おはよー」
教室に入ると、いつものように友達が声をかけてくる。
私は脳の震えを必死に抑え込んで、口角を上げる。
「おはよ。あ、その髪型可愛いね」
いつもの、何の意味もないお喋り。
けれど、私の意識は、教室のいちばん後ろ、窓際の席に完全に持っていかれていた。
蓮見くん。
彼はいつも通り、机に突っ伏して寝ている。
昨日、私を多目的トイレに閉じ込め、私の人生を終わらせる動画を撮った男。
──『学校の裏掲示板に流されたくなかったら、大人しくしてて』
耳の奥で、昨日の冷たい声が何度もリフレインする。
授業中も、先生の声なんて1ミリも頭に入ってこなかった。
蓮見くんがスマホを触るたびに、心臓が口から飛び出しそうになる。
今、送信ボタンを押されたら?
もし、もう誰かに見せていたら?
手汗が止まらない。
ノートの端が、私の汗でふやけて波打っていた。
お昼休み。
友達とお弁当を食べているときも、生きた心地がしなかった。
私の前に広がる、彩りの良い、ヘルシーなお弁当。
「ひよりのお弁当、いつもオシャレで美味しそうだよねー」
「お母さんが頑張ってくれてるからね」
嘘だ。自分で作った。
そして、このあと全部、トイレで吐き捨てる食べ物だ。
喉が詰まって、唐揚げが砂のように味気ない。
チラリと後ろを見ると、蓮見くんと目が合った。
彼は私の手元のお弁当を見て、口元だけで、ふっと小さく笑った。
バカにされている。
私のこの、必死に保っている「偽物の日常」を。
*
キーンコーンカーンコーン──。
放課後を告げるチャイムが、私にとっての処刑の合図だった。
クラスメイトたちが部活や遊びに散っていく中、私はわざと居残り、机を片付けるフリをした。
教室内には、私と、蓮見くんの二人だけ。
夕日が教室を不気味なオレンジ色に染める。
蓮見くんがゆっくりと席を立ち、私の机の前まで歩いてきた。
彼の影が、私をすっぽりと覆い隠す。
「……蓮見くん」
かすれた声で、彼の名前を呼ぶ。
「何が、望みなの。お金? それとも、何か別のこと?」
私は、自分がこれから要求されるであろう「最悪のこと」を想像して、ギュッとスカートの裾を握りしめた。男の人が、女子の弱みを握って要求することなんて、相場が決まっている。
けれど、蓮見くんの口から飛び出したのは、私の想像を斜め上に裏切る、ひどく歪んだ命令だった。
「如月さん。今から僕と一緒に、マック行こう」
「……え?」
拍子抜けして、声が抜けた。
マック?
「これ、今日のメニューね」
蓮見くんはポケットから、クシャクシャに丸められたメモ用紙を私の机に置いた。
・ポテト Lサイズ 2個
・チキンマックナゲット 15ピース
・ダブルチーズバーガー 2個
・マックシェイク チョコレート Mサイズ
「これをさ」
蓮見くんは、私の顔にゆっくりと自分の顔を近づけた。
死んだ魚のような、でも、奥のほうでドロドロとした狂気がギラギラと光っている目。
「僕の目の前で、残さず全部、おいしそうに食べてよ」
頭が真っ白になった。
「僕さ、ずっと見てみたかったんだよね。学校一の美少女が、どんな汚い顔して食べ物を胃袋に詰め込むのか」
彼は私の右手をそっと取り、その親指の付け根──ゴツゴツと固くなった「吐きダコ」の痕を、自分の指で優しく、愛おしそうになぞった。
「そのあと、僕の前で全部吐いて。一滴残らずさ。そしたら、昨日の動画は消してあげる」
背筋に、冷たい氷水を流し込まれたような戦慄が走った。
この男は、私に身体を求めているんじゃない。
私の、いちばん隠したい「病気」を、おもちゃにしようとしているんだ。
「嫌、ならいいよ? 今すぐこれ、グループラインに貼るから」
蓮見くんがスマホの画面を私に見せる。
昨日、暗闇のトイレでゲロまみれになって泣いている私の顔が、いつでも送信できる状態で表示されていた。
「……いく」
私は、震える声でそう答えるしかなかった。
「うん。いい子だね、如月さん。じゃあ、いこっか。おいしいごはん、食べに」
蓮見くんは嬉しそうに微笑み、私の先を歩いていく。
私は彼の背中を追いかけながら、喉の奥が、じわりと酸っぱくなるのを感じていた。




