08. 異世界の住人
「――え?」
首筋に冷たい刃が触れる。
少しでも動けば皮膚が裂けてしまいそうな緊張感に、背筋を冷たい汗が伝った。
目の前には、私に剣を向けるレオンハルト。その表情はひどく冷たく、明確な敵意が宿っていた。
「お前は、誰だ」
「ど、どうして……待ってください! 私はヴィオレッタ、あなたの婚約者のヴィオレッタです! ……確かに、最近の私は調子に乗りすぎていました。 レオンハルト様に楯突いたりもして......ですが、それは……!」
必死に弁明する私とは対照的に、レオンハルトの表情は険しさを増していく。その眼差しには、もはや疑念ではなく、確信めいた敵意が宿っていた。
――どうして、急にこんなことに!
あまりに突然の事態に頭が真っ白になり、まともに考えることすらできなかった。
「ちげえよ。確かに、お前の言動には少し違和感があったが……そんなのはただのきっかけに過ぎない」
レオンハルトは足元の魔法陣へと視線を落とした。
「……さっき説明しただろう。この魔法陣には概念魔法が込められている。嘘を見抜くことができるんだよ」
「――っ」
「俺に対する想いも、今の問いに対する答えも、どちらも嘘だった。 まあ、そもそも本物のヴィオレッタなら、この魔法陣を見た時点で俺の意図に気づいただろうが……」
レオンハルトは再び私を見据え、剣を握る手に力を込めた。
「もう一度聞く。お前は誰だ。何のためにヴィオレッタの体を乗っ取った?」
魔法陣――確かに原作でも、魔法を発動させる装置として何度か登場していた。けれど、まさかこんな使われ方をするなんて思ってもみなかった。
いや、そもそも私はまだこの世界を現実として捉えきれていなかったのだ。
漫画の中の世界。知っている登場人物たち。どこか物語の続きを眺めているような感覚が、心の片隅に残っていた。
その認識の甘さが、仇となった。
(……どうしよう。もう、取り繕えない)
目の前のレオンハルトは、私が知る漫画の登場人物なんかじゃない。自分の意思で考え、疑い、必要とあらば容赦なく剣を向けてくる、生きてる人間なのだ。
(……だったら、一か八か……!)
私は震える体を必死に抑え、目の前のレオンハルトを見つめ返した。
「……ごめんなさい。私は確かに、ヴィオレッタではありません」
レオンハルトの目が、わずかに細められる。
「……ですが、彼女の、本物のヴィオレッタの行方は私にも分からないわ」
「……は?」
「意図的に体を乗っ取ったわけじゃないの! 気づいたらこの体になっていて……。本当なのよ! あなたなら分かるでしょう!?」
必死に言葉を紡ぐ。
嘘を見抜けるというのなら、私の言葉が真実であることも証明できるはずだ。敵意も誰かを陥れようとしたわけでもない。私だって、突然こんな状況に放り込まれた被害者なのだということを。
「確かに、私はヴィオレッタだって嘘をついた。けど、それは……疑われるのが怖かったから……」
震える声を絞り出す。
「私は本当に何も知らないの! ヴィオレッタやあなた、王家の人間を襲おうなんて魂胆もないわ!」
はあはあ、と荒い呼吸を繰り返す私を、レオンハルトはただ黙って見つめている。その表情からは、何を考えているのか少しも読み取れなかった。
やがて、彼は小さく舌打ちをすると、私の首筋に当てていた剣を静かに下ろした。
「……じゃあ何だ。目が覚めたらヴィオレッタになっていて、下手にバレると怪しまれるから、今まで本人のふりをしていたと」
「そ、そういうことになるわね……」
レオンハルトは未だ納得のいかない様子で、こちらをじっと睨みつけている。
……疑いたくなる気持ちは分かる。分かるけど、だってそうとしか言いようがないんだもの。
私だって、どうしてこんなことになったのか知りたいくらいだ。
「そもそも、何で俺やヴィオレッタのことを知っていた? 知り合いか?」
「それは……」
思わず言葉に詰まる。
あなた達は創作の登場人物で、私はその読者だったから知っていた――なんて、本人を目の前にして言えるはずがない。そもそも、どう説明すれば理解してもらえるのかも分からなかった。
「俺達のことには妙に詳しいくせに、魔法陣のことは知らねえし……。あんた、一体何者なんだ?」
「……私は、遠い世界の住人よ」
慎重に、言葉を選んでいく。
「だから、この国についても正直まだよく分かっていないの。あなた達について知っていたのは……私の世界に、あなた達の物語があったから」
「……物語?」
「ええ。私のいた世界では、あなた達の人生がひとつの物語として語られていたの。だから、あなたの名前も、ヴィオレッタのことも知っていた」
レオンハルトは眉をひそめた。
「……意味が分からねえな。俺達の人生が物語だと?」
「そう言われても、私だってどう説明すればいいのか分からないわ。でも、本当なの。私の世界では、あなた達のことを知っている人がたくさんいたのよ」
「……」
「信じられないでしょうけど……」
「いや、嘘じゃねえことは分かる」
そう言って、レオンハルトは足元の魔法陣に視線を落とした。
「だから余計に意味が分からねえんだよ」
ごもっともである。
そもそも私だって、自分が読んでいた漫画の世界に入り込むなんて、ついこの間まで夢にも思っていなかった。
「……それで? その物語とやらには、俺達の何が書かれていた?」
「え?」
「俺達のことを知っていたんだろ。だったら、これから何が起こるのかも知ってるんじゃねえのか?」
「そ、それは……」
思わず言葉に詰まる。確かに、私は原作の展開を知っている。誰が誰を好きになって、どんな事件が起きるのか。
けれど、それを本人に話してしまっていいのだろうか。何より、私がこの世界でしてきたことは、原作の展開を変えるための行動だった。
「……全部を知っているわけじゃないの。それに、私が知っている物語と今の現実が同じように進むとも限らない。現に今の状況が書かれていた訳ではないし...」
「……なるほどな」
レオンハルトは何かを考え込むように黙った。
嘘はついていない。少なくとも私が意図的にヴィオレッタを乗っ取ったわけではないことは伝わったはずだ。けれど、だからといって彼が私を受け入れてくれるとは限らない。
「わ、私だって元の世界に戻れるなら戻りたいし、ヴィオレッタに身体を返したい……だから」
「勘違いすんなよ」
低い声が、私の言葉を遮った。
「俺はまだ、お前を信用したわけじゃねえ」
「……ええ」
「ただ、少なくともお前が意図的にヴィオレッタを乗っ取ったわけじゃねえことは分かった」
レオンハルトは剣を鞘に収めると、再び私を見据えた。
「だが、それとこれとは別だ。お前が何者で、どうしてここにいるのか。それが分からねえ以上、放っておくわけにはいかねえ」
その言葉に、ごくりと唾を飲み込む。
「……じゃあ、私はどうなるの?」
「さあな。少なくとも、しばらくは俺の監視下に置く」
「か、監視!?」
「当たり前だろ。王家の人間の婚約者が、ある日突然どこの誰とも知れねえ女に入れ替わってたんだぞ」
……それは、確かに。
反論できずに黙り込む私を見て、レオンハルトは深いため息をついた。




