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第8話

「綺麗でしょ」

 少女の視線の先を追いかける――夜空には冴え渡る月が輝き、無数の星々が天の川を形作っていた。その下には、穏やかに寄せては返す波と、遠くでかすむ光の粒。

 少女は星空を見上げ、背の後ろで両手を組んでいる。

 圧倒されるほど美しい星空に映し出された少女の背中から、俺はしばらく目を離すことができず、思考さえも凍りついたようだった。

 俺が長いこと黙っているのに気づいたのか、少女は振り返ってこちらを見た。

「どうしたの?」

 視線が交わった瞬間、俺は目を見開いた。言葉を発しようと勝手に口が開くものの、音を紡ぐことはできなかった。

 少女は俺の目の前まで歩み寄ると、両手で俺の頬を挟み込んだ。

「私、そんなに怖い? 何その顔」

「う……うう……」

 言葉に詰まる俺を見て、少女はふっと微笑んだ。そして俺の手を引き、海の方へと歩き出す。

「冷たっ……!」

 足首を浸す海水に、少女は楽しげに声を弾ませた。

「『私』ね、すごく怖かったんだよ、あの時。でも、あなたが立ち向かう勇気をくれたの。あなたに出会えて、本当に本当によかった……」

 少女の声が、だんだんと遠ざかっていく。

「『私』、もう思い出せないの。だから……」

 すぐに、ほとんど何も聞こえなくなった。

「……」

「だから、何――!?」

 思わず大声で問いかける。

 少女はハッとしたように俺の目の前まで来ると、つま先立ちになって耳元で囁いた。

「だから、早く『私』を思い出してね――」

 そう言い残し、少女はこれ以上ないほど優しい笑みを浮かべた。そのまま遠くへと走り去っていく彼女を見送る中、俺は激しい目眩に襲われる。

「待って――!」

 彼女を捕まえようと、手を伸ばした。


「待って――!」

 俺は勢いよく目を開けると、九死に一生を得たかのように荒い呼吸を繰り返した。

 目覚めに伴う頭痛が少し和らいだ頃、俺はようやく自分が誰かの手首を掴んでいることに気づいた。

「え?」

 顔を上げると――俺に強く手首を掴まれた女の子が隣に跪いており、どこか怯えたような表情を浮かべていた。

 白羽鴎だった。

「白羽さん!?」

 俺は慌てて手を離し、少し後ろへと身を引いた。

 白羽は立ち上がり、俺に強く掴まれて痛む手首を無言でさすっている。

「ごめん……! 悪気はなかったんだ……その……」

 辺りは暗かったが、それでも白羽の目を見る勇気は全く出なかった。ただ慌てて言い訳を並べながら、彼女の手首に視線を落とすことしかできない。

「その……さっき、夢を見てて……」

 心臓の鼓動が、波や風の音さえも掻き消してしまいそうだった。

 白羽は何も言わず、そのまま背を向けて歩き去ってしまった。

 一瞬、俺は完全にどうすべきか分からなくなる。追いかけるべきか? それとも……せめて謝るくらいはすべきだったし、こんなに遅い時間、女の子を一人で帰らせるなんて……

 俺は半歩踏み出したものの、結局は元の場所に立ち尽くす。

 白羽の姿は、またたく間に夜の闇へと消えていった。

 夢から覚めたばかりの朦朧とした感覚と、現実のトラブルへの困惑が重なり合い、思考がぐちゃぐちゃになる。どこかおぼつかない足取りで自転車に跨がり、帰路についた。

 家の近くまで来ると、玄関の前にひびきが立っているのがうっすらと見えた。自転車の音に気づいたのか、ひびきはこちらへと駆け寄ってくる。

「もう! 兄ちゃん、どこに行ってたの? また海? 遅すぎるよ、心配したんだからね!」

「ごめん、ひびき」

 俺は申し訳なさそうに苦笑いしながら、ひびきの頭を撫でた。

 風呂を済ませた後、俺は再びベッドに横たわり、天井を見つめてぼーっとしていた。

 白羽はなんであそこにいたんだろう。俺が眠りについた時は一人だった。ということは、彼女の方から近づいてきたのだろうか。

 俺は右手をかざしてみると、先ほど白羽の手首を掴んだ時の感触が、今でも鮮明に蘇ってくる。

 白羽のやつ、なんだか極限まで警戒した猫みたいだったな。

「猫……猫か」

「猫?」

 ひびきが二つの湯呑みに入った熱いお茶を運んできて、机の上に置くと、俺の隣にちょこんと腰掛けた。

「野良猫でもいたの?」

「いや、クラスメイトに会ってさ。なぁ、ひびき。こんな夜遅くに、女の子を一人で帰らせる男ってどう思う?」

「一般的には、もう社会的に死んでるレベルじゃない?」

「うわぁ……」

 そこまで言うか……けど、俺と白羽はほんの少しの関わりしかないし、急に家まで送るなんて言ったら、逆に怪しまれただろう。そう自分に言い聞かせることで、なんとか納得しようとする。

「どうしたの? まさか、さっきまで小夢姉ちゃんと一緒にいて、兄ちゃんだけ自転車で先に帰ってきた、とかじゃないよね?」

「そんなわけないだろ。そもそも二人で出かけるなんてあり得ないし、もし万が一そうなったとして、そんな真似したら俺、殺されるぞ……」

 浅見を置いて自分だけ帰った後、次に顔を合わせた時の彼女の表情を想像し、思わず身震いした。

「小夢姉ちゃんはあんなに可愛くて優しいもんね。確かに、兄ちゃんと一緒に出かけるはずないか」

 ひどい言い草だ……

 俺は声に出さず、抗議の意を示した。

「でも、だからこそ兄ちゃんは、小夢姉ちゃんと一緒に登下校するのを必死に避けてるんでしょ?」

「浅見が何か言ってたのか?」

 ひびきはコクンと頷いた。

「小夢姉ちゃんね、『避けられてる気がする』って言ってたよ。せっかく隣の家に住んでるんだから、一緒に登下校すれば楽しいのにって」

「別に避けてるわけじゃ……」

「分かってるよ。兄ちゃんは周りに見られるのが嫌なんでしょ。クラスの噂話のネタにされたくないし、できることなら隣人関係だって隠しておきたい、って」

 やっぱひびきが分かってくれる。その通りだ。今はまだみんなお互いのことをよく知らないから目立たないかもしれないが、これから先、浅見のやつにはたくさんの言い寄る奴が現れるに違いない。

 そんな中、隣の家だからとか、一緒に登下校していたなんてところを見られて、面倒なトラブルに巻き込まれるのは御免だった。

「分かったよ。今度タイミングを見て浅見には謝っとく。何もしてないのに避けられるって、確かにいい気分じゃないもんな」

 湯呑みを簡単に片付け、俺たちはそれぞれの部屋に戻って眠りについた。

 布団に入っても、なかなか寝付けなかった。

 白羽の手首を掴んだのはわざとじゃない。本来なら簡単に説明できるはずのことなのに、あの時の俺はパニックになってしまって上手く立ち回れなかった。それに白羽のやつもそうだ。あの状況なら怒るなりすればいいのに、一言も発さずに立ち去るなんて。

 俺のパニックと白羽の沈黙。それが重なり合って、今や最悪とも言える気まずい状況が出来上がってしまっていた。

「学校で顔を合わせたらどうなるんだ? 写真部は? 白羽はもう来なくなっちゃうのか……? あああ、もう! あいつが何を考えてるのかさっぱり分からん!」

 最悪のシミュレーションを頭の中で止めることができず、俺は両手で頭を抱え、ベッドの上をごろごろと転げ回った。

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