第7話
「ただいま」
返事はない。リビングに入ると、テーブルの上に一枚の置き手紙があるのに気づいた。
『ひびきちゃんはうちにいる』
親切な人が近所にいるのはありがたいことだ……とはいえ、妹を誘拐されたようなこの妙な感覚はなんだろう。そして、今日の夕飯はもしかして――
「あ、肉なしのホイコーロー」
飯を平らげ、適当にごろりと横になって天井をぼんやりと見つめる。
どれくらい時間が経っただろうか。ふと現実世界に引き戻されたように、俺は時計に目をやった。
ひびきはまだ戻ってこない。二人は何をしてるんだろう。
そう思って電話でもかけようとしたが、すぐに気づいた。俺は浅見の連絡先を知らない。
やっぱり、自分で足を運ぶしかないか。
ピンポーン――
少し待つとドアが開き、浅見と響きが部屋から出てきた。
「兄ちゃんおかえり」
「うん、ただいま。今日は学校でちょっと用事があって遅くなっちゃった。帰ろうか」
「じゃあ、小夢姉ちゃん、先に帰るね!」
「明日もまたおいでね!」
浅見がひびきの頭を優しくなでる。それを見て、思わず「俺の妹なんだけど」と主権を主張したくなってしまった。
ひびきが家に向かって走っていくのを見送りながら、連絡先を聞こうか迷った。でも、ひびきなら絶対に知っているはずだ。なにしろ、俺たちがここに引っ越してきてからもう随分と経つのだから。
「何ぼ—っとしてるの? 部活はどうなった?」
「安心しろ。人が少なそうな部活に入部した。写真部」
「一人で?」
「いや、クラスメイトの白羽さんといっしょ」
浅見は一瞬きょとんとして、信じられないという目で俺を見た。
「白羽さん? 私も一応話しかけたことはあるんだけど、なんか嫌われてるようなリアクションをされちゃって……」
「あいつは確かにそういう空気を出してるからな」
「……仲がいいの?」
「まさか。ただお互いに部活に入ってなくて、タイミングが合っただけ。一時的な同盟だよ、同盟」
そう、俺と白羽の関係は、結成されたばかりの「消極的同盟」だ。宮本先生に余計な迷惑をかけないこと、そして本来参加するつもりのなかった部活動から逃れること――その二つの目的を同時に果たすための。
すると、浅見の表情ががらりと変わり、ニヤニヤと興味深そうに近づいてきた。
「へえ……で、何人いるの?」
「俺たち二人を除けば、2年生の先輩が一人だけ」
「へ—え。2人きりじゃん」
「だから先輩が一人いるって言っただろ!」
「あんたさ、実は気があるんじゃないの? 白羽さん、確かにすごく綺麗だしね」
浅見のその表情は、玩味しているというか、からかっているというか。
彼女の可愛らしい顔立ちにはおよそ似つかわしくない表情で、見ていて少し寒気がした。
だが、俺はこの状況の切り抜け方を知っている。
「まさか。俺、浅見さん一筋だよ」
左手を胸に当て、右手を行儀よく挙げる。
「は?」
勝った。
浅見は呆然とした表情を浮かべ、夜闇の中でも彼女の顔がみるみる赤くなっていくのが分かった。
「へ、変態――!」
バタン――!
勢いよくドアが閉められ、後に残されたのは、小学生のいたずらが成功したかのようにドヤ顔を決める俺だけだった。
そのまま家に帰るつもりだったが、ふと見上げると月が朧げに輝いていた。どうにも気まぐれを起こした俺は、自転車に跨がり、夜の静寂へと漕ぎ出した。
いつの頃からか、俺にはいくつかの「静謐の地」があった。静かで、誰もいない場所。
そこで歩き回り、空想に耽り、長い時間自分の世界に浸るのだ。そして今、この海岸こそが俺の最もお気に入りの場所だった。
自転車を止め、波打ち際へと歩いていく。
頬を撫でる穏やかな風は、まるで過去の記憶を呼び覚ますかのように幻想的だった。そっと手を伸ばし、風の輪郭をなぞるように指を動かす。
あの遠くでぽつぽつと滲む光は何だろう。
灯台か、船の灯りか、それとも対岸の街並みか。
俺はただ呆然とそれを見つめていた。すると、不意に心地よい眠気が押し寄せてきた。




