第6話
「失礼します。七海先輩、いらっしゃいますか?」
返事はない。
「まだ来てないのかな。先輩、一人きりだって言ってたし。とりあえず中に入ってみよう」
写真部のドアを開けると、そこにあったのは他の教室と変わり映えのない光景だった。
ただ、机や椅子が整然と並んでいないだけ。教室の中央にはお茶を飲むための小さなローテーブルが置かれ、横の黒板があった場所には、色とりどりの写真が所狭しと貼られている。どうやら、これがこの部屋の全貌らしい。
廃部を待つ身で、他に部員もいないからだろうか。どこか物悲しく、けれど温かみとも言い切れない夕暮れの光に照らされながら、一人の女子生徒が机に突っ伏してうたた寝をしていた。俺たちの存在にはまったく気づいていないようだ。
――実に絵になる光景だな。
「待ちますか?」
どうせすぐに帰らなきゃいけない用事もないし、ここに残る分には何の問題もない。
「うーん、起こしたほうがいいのかな?」
「はっ! 新入生っ!?」
あ、起きた。
「君たち! ここは見学に来ても何もないよ! 新歓ライブもないし、美味しい料理もないし、手に汗握るパフォーマンスも華やかな衣装もない! だから見学なわけがないよね。見学じゃないってことは……入部希望だよねっ!? そうでしょ!? 入部希望一択だよねっ!」
声の主である先輩がガバッと顔を上げると、そこからの勢いは予想外なほどポジティブだった。
……いや、そんなに熱意があるなら、もうちょっと新歓の宣伝に力を入れればよかったんじゃないだろうか。
隣にいる白羽は思わず二歩ほど後ずさりし、今にもドアから飛び出して逃げ出しそうな、引きつった表情を浮かべている。
さすがにここで二人して何も言わずに逃げ去るのは、先輩に対してあんまりだ。
やれやれ。
「あの……先輩、初めまして。1年B組の鳴海悠也です」
さすがに白羽の手を掴んで引き留めるわけにもいかないので、俺は強い視線だけで「行くな」と訴えかける。
白羽は俺を見つめ、少しだけ葛藤するように身悶えしたあと、諦めたようにため息をこぼした。
「……白羽鴎です。彼と同じクラスです」
「鳴海くんに、白羽さんね、覚えた! 私は七海千晴。一応、この写真部の部長をやってます!」
「一応……?」
「うん。前の部長も他の部員もみんな卒業しちゃってさ。写真部唯一の生き残りだから、自動的に部長になっちゃったんだよね。一人だとちょっと寂しいなって思ってたところだから、二人が入ってくれて本当に助かっちゃうな!」
七海先輩は、人類には到底拒絶できないようなスマイルを浮かべた。
どうしよう。「先生への义理立てで来ただけです」なんて言える雰囲気じゃないぞ……
どうしよう。「先生の顔を立てるために合わせただけです」なんて口が裂けても言えない……
激しいアイコンタクトの応酬の末、俺と白羽は、やはり七海先輩に真実を伝えるべきだという結論に達した。ここで言わずに先延ばしにすればするほど、お互いに傷が深くなるだけだからだ。
「あの……七海先輩。実は、ですね……」
「あ、久しぶりに部活動ができるんだね! いいね! たまに生徒会からお手伝いの依頼が来るけど、心配しなくていいよ? 大体はパンフレット用の校内風景の撮影だから。それが終われば、あとは自分たちの好きなものを好きなように撮っていいからね!」
……俺、そもそも何のために写真部に来たんだっけ?
「自分が残したいって思った景色や、人や、モノ……ううん、その『時間』そのものを切り取って、大切に形にして残す。それって、すごく素敵なことだと思わない?」
七海先輩は胸の前で両手をきゅっと合わせ、完全に自分の世界に浸りきっている。俺たちの顔が引きつり始めていることには、微塵も気づいていない。
帰りてぇ……
――キーンコーンカーンコーン……
どう切り出すのかさっぱり分からない時、、放課後のチャイムが鳴り響いた。
「あ、もうこんな時間! 二人とも、今日はお疲れ様! ごめんね、私これからちょっと外せない用事があるから、今回はここまで。明日の放課後にまたここへ集合ね。記念すべき最初の一枚、あるいは最初の動画に何を撮るか、考えておいて。私、二人のことすっごく気に入っちゃった! それじゃあ、また明日ね、バイバーイ!」
七海先輩は、文字通り嵐のように去っていった。
……っていうか、明日って土曜日じゃん。
「あ」
「行っちゃいましたね……」
これ、絶対に面倒くさいことに巻き込まれてるよな……
部室に残されたのは、俺と白羽の二人だけ。校舎の最果てとも言える5階のこの部屋には、グラウンドから微かに聞こえる運動部の声くらいしか届かない。
お互いに椅子に座る気にもなれず、かといってその場に突っ立っているのも決まりが悪い。俺はなんとなく窓辺へと歩み寄り、サッシを開けて眼下の景色を眺めた。
「どうしますか? 入部、しますか?」
白羽も俺の隣に並び、そっと問いかけてくる。
「もうちょっと詳しく話を聞ければよかったんだけどな。先輩、用事があるって言ってたし……入部届はもう宮本先生に渡しちゃってるし、何より、ここで俺たちが来なくなったら先輩が不憫すぎるだろ……あんな感じの先輩だしさ」
白羽は小さく頷き、入り口のドアに向かって歩き出した。
「ええ。それでは、私もそろそろ失礼します……すみません、あなたにとっても私にとっても、苦手そうな仕事を選んでしまって」
「いや、気にするな……っていうか、これ『仕事』って呼ぶんだな」
「……仕事では、ないのですか?」
こいつの人生、絶対に俺以上につまらないものなんだろうな。俺は苦笑交じりに、小さく肩をすくめた。
ドアノブに手をかけた白羽が、ふと足を止め、振り返る。
「あの……鳴海くん」
「ん? どうした?」
「鳴海くんは、部活に入ろうとは思わなかったのですか? 何だか鳴海くんは、どんな場所にも気配を消して溶け込めてしまいそうな気がします」
人をタチの悪いステルスウィルスみたいに言うのはやめてほしいのだが……
「どうしてそう思うんだ?」
「……直感、でしょうか」
俺はぶんぶんと首を横に振った。
「気のせい、気のせい。俺はただのモブ、背景に同化してるだけの透明人間だから。そんな器用な真似できるわけが――」
……あれ? でも、そういう奴って、結果的にどこにでも溶け込める素質があるって言えるんじゃないか?
「……まあ、とにかく。俺は面倒ごとを避けて、自己防衛することしか考えてない人間なんだよ。一応、通りすがりを装って文芸部を覗いてみたりはしたんだけどさ。なんか目立つ女子が数人いて、すぐに諦めた。いかにもこれから青春ラブコメのドタバタ劇が始まりそうなオーラが漂ってたし……」
「文芸部、ですか?」
「唯一の趣味、と言っていいのかな。小説を読むのが好きなんだ。実は、昔も――」
脳裏にいくつかの記憶の断片がよぎり、俺は言葉を途中で飲み込んだ。
「昔は?」
訝しげな視線を向けてくる白羽に対して、俺はあいまいに笑って首を振るに留めた。
軽く挨拶を交わして彼女を見送った後、俺は再び窓枠に肘をついて、眼下へと視線を戻した。
――この場所も、避難所としては存外悪くないかもしれないな。
しばらくすると、校門へと向かう白羽の姿が視界に飛び込んできた。エネルギーに満ち溢れた生徒たちの群れの中を、ぽつんと一人で通り抜けていく彼女の背中は、どこか周囲から浮いて見えた。
──まあ、俺も似たようなものか。
それにしても、俺はどうして「二人で一つの部活に入ろう」なんて提案したんだろう。
今になって冷静に考えれば、断られる確率の方が圧倒的に高かったはずだ。もしあの時、あっさりと一蹴されていたら、俺はどんな顔をしていたんだろうか。
想像するだけで冷や汗が出るほどの黒歴史的シチュエーションを思い浮かべ、思わず身体がぶるりと震えた。
本来なら交わるはずのない、二本の平行線。まるで俺が自ら進んで接点を作ってしまったかのような現状に、微かな居心地の悪さを覚える。
どこか、共鳴する部分があったのだろうか。いや、俺たちはまだお互いの名前を知ったばかりの関係だ。
これはただの「衝動」として片付けるべきなんだろう。だけど、俺の心の片隅は、冷徹なまでに理解していた。――今日のこの衝動が、のちに途方もない代償を支払うことになるかもしれない、ということを。
白羽はどうやら、宮本先生の教員評価に響くのを気にして部活参加を決めたようだが、俺にはそんな殊勝な心がけはない。
あの先生がいい人なのは確かだし、できることなら余計な泥は塗りたくないが、そもそも本人がそんな些細なことを気に病むタチだとも思えない。
じゃあ、俺の理由は一体何なんだ。
脳裏に、宮本先生のあの言葉が不意に蘇る。
『誰かと、出会うためのきっかけ……か』
彼女の姿が完全に校門の向こうへ消えるのを見届けてから、俺もまた、重い腰を上げて家路についた。




