第5話
新学期が始まってから、もう数週間が経った。クラスメイトの名前を覚えることを完全に放棄している俺でさえ、いつの間にかいくつかの名前が頭に刻まれていた。
あの夜の出来事以来、浅見とはそれなりの知り合いになった。とはいえ、女子と一緒に登校するなんてのは、やっぱり勘弁してほしい。
仮にばったり出くわしたとしても、なんだかんだと理由をつけて先に行くか、あるいはその場に居残るようにしている。
明るくて可愛い浅見は、いわゆる『モテ要素』をこれでもかと詰め込んだような女子だ。彼女と隣人同士だなんて、周囲から見れば羨望の的以外の何物でもないだろう。
透明人間として生きたいだけの俺がこんなことを言うのは傲慢かもしれないが、彼女とはあまり深く関わりたくない。
「今日のホームルームはここまで。みんな、お疲れ様。この後は部活動だから、しっかり息抜きするんだぞ。まだ部活が決まってない人は、ちょっと先生のところに来るように」
「は—い!」
教室が一斉に歓声と活気に包れる。
俺はハナからいい子ちゃんになるつもりなんてない。先生だって、クラス全員の部活状況をいちいち把握するほど暇じゃないはずだ。
賭けてみる価値はある。そもそも部活なんて強制じゃないし、万が一見つかったとしても言い訳くらいどうとでもなる。
腹は決まった。あとは先生が教室を出ていくのを静かに待ち、タイミングを見計らって校門へとダッシュするだけだ。
だが、世の中そう上手くはいかない。浅見が俺の行く手を遮るように立ちはだかった。
「ちょっと、あんた、このまま帰る気でしょ? さっきの先生の話、聞いてなかったの?」
「滅相もない。先生の言葉を無視するわけないだろ。俺はこれから部活動に行こうとしてるんだよ」
「帰宅部?」
「なんで分かった!?」
「中身が空っぽの鞄を背負ったその瞬間に?」
「人間観察……!」
「まったく、あんたって人は。宮本先生は優しいから無理強いはしないだろうけど、部活の加入率ってクラスの雰囲気とか積極性の評価に響くらしいよ」
認めざるを得ないが、浅見の言葉は俺の痛いところを突いていた。他の教師ならいざ知らず、宮本先生が本当に良い先生なのは事実だ。
よりによって俺のせいで先生に余計な迷惑をかけるとなれば、待っている結果は二つに一つ。自分がクラスの注目を浴びてしまうか、あるいは周囲からの冷ややかな視線に晒されるかだ……
「見学だけでも行ってみなよ。もしかしたら気に入る部活があるかもしれないし。どうしてもダメなら、私と一緒に料理部に来る?」
現在と未来のメリット・デメリットを天秤にかけ、俺はついに妥協した。
「男の俺を料理部に誘うなんて、お前……はぁ、分かったよ。宮本先生に迷惑はかけない。けど、同じようにお前にも迷惑をかけたくないんだ。先生のところに行ってくるから、安心しろ」
「私に迷惑をかけるって、どういう意味?」
こいつ、本当に何も考えてないんだな。
「ちょっと意外だな。浅見さんって、他人の目を気にしないタイプだったんだ」
「……別に, そんなに気にしてるわけじゃないけど」
「料理が得意な浅見さんなら、料理部はうってつけだよな。じゃあ、先生のところに行ってくる。未来の料理部エース」
浅見はそれ以上何も言わなかった。彼女が俺の後ろ姿を見送っていたかどうかは、分からない。
トントン。
「失礼します。1年B組の鳴海悠也です。宮本先生に用があって来ました」
「入りなさい」
「失礼します」
宮本先生は、一人の女子生徒と話をしていた。先生の手にある部活パンフレットを見て、彼女も俺と同じように、まだどこの部活にも所属していないのだと察する。
クラスで未加入なのは本当に二人だけなのか? みんな積極的すぎるだろ。
俺と全く同じ選択をした唯一の女子生徒に対して、ほんの少しだけ興味が湧いた。
「ん?」
鋭い視線が、真っ直ぐ俺の目を射抜いた。その女子生徒は、恐ろしいほどの強面で俺を睨みつけていた。
まるで、飼い猫が「主人がまた別の猫を連れて帰ってきた」のを察知したかのような、強い警戒心。全身から「近寄るな」と言わんばかりのオーラが漂っている。
間違いない、こいつは——上位存在だ!
俺は白旗を揚げるように、引きつった営業スマイルを返し、慌てて彼女の視界から逃れた。
「部活動も高校生活の重要な一部だからな。もちろん強制じゃないけれど、みんなには楽しんでほしいんだ。勉強以外の世界に足を踏み出さないと、せっかくの出会いのチャンスを逃してしまうかもしれないからな」
宮本先生はもう一枚の白い入部届を取り出し、俺に手渡した。
「私たち同じクラスですか?」
「俺たち同じクラスですか?」
完璧にハモった。そのあまりのシンクロ率に、俺と彼女は驚いてお互いを見合わせた。
宮本先生は苦笑いをもらした。
「入学してそれなりに経つんだけどなぁ……高校生活は一度きりだ、大切にするんだぞ」
宮本先生はこれからバドミントン部の様子を見に行くらしく、「もう一度よく考えてみるんだぞ」と言い残して行ってしまった。職員室の一角は、一瞬にして二人きりの空間になる。
静寂。空気が、まるで凍りついたかのようだった。
「鳴海悠也」
俺から名乗った。
「白羽鴎」
まるでロボットのように、名前だけを告げる自己紹介。
「部活の加入状況って、先生の勤務評定とかに響くらしいよ」
俺は探るように尋ねてみた。
「私も聞きました。宮本先生は、良い先生……」
「そうだな。ついでに聞くけど、白羽さんは部活に打ち込みたいタイプ?」
「違います……今は、早く帰りたいです」
白羽の声は終始フラットで、一切の感情が削ぎ落とされていた。だが、俺はその答えに大いに満足した。利害が一致したこの瞬間、俺たちに協力の余地があることが確定したからだ。
それに、俺をいつだって叩き潰しにくる眩しい青春エネルギーが充満した部活パンフレットなんて、一ページたりとも捲りたくない。
正直、部活なんてどこでもいいし、真面目に活動する気もさらさらない。名前さえ登録できれば、あとは俺の特技である気配を消すことに徹するだけだ。
ならば、話は早い。
「じゃあ、もし嫌じゃなければ、名前だけで済むような部活に一緒に入らないか? それで速攻帰る。どう?」
しばし、白羽からの返答はなかった。西に傾いた太陽が放つ残照が彼女の横顔を照らし、逆光のせいで表情がよく読み取れない。数秒の後、彼女がゆっくりと頷くのが見えた。
職員室にパラパラとパンフレットを捲る音が響く。俺は適当な椅子に腰掛け、真剣にページを追う白羽の姿を眺めていた。
口元は一文字に結ばれたままで、彼女の心境は窺えない。ただ、その瞳はひどく綺麗だった。言葉で表現するのは難しいが、一言で表すなら、それは間違いなく「静」という文字が相応しい。
お洒落に気を遣うタイプではないのだろうが、制服の着こなしも顔立ちも、非常に整っていて清潔感がある。客観的に見ても、確かにどこか特別な雰囲気を纏った少女だった。
「……何を見ているのですか?」
「あ、いや、ごめん」
俺は慌てて視線を逸らした。
「見つけましたよ。この部活、今は部員が一人しかいません。他の部活が色んなアピールをしてる中で、ここだけ何の広告も出していません」
「良さそうだな。何部だ?」
「写真部」
「……」
「どうしたんですか?」
「どう考えても、活動がなさそうな部活には見えないんだけど」
「アクティブに動いていた先輩たちは卒業してしまったみたいです。今は2年生の先輩が一人残っているだけ。他の部活は人数が多くて、その数字を見ただけで頭が痛くなります」
宮本先生がまだ戻ってこないため、俺たちは書き終えた入部届を先生の机の上に置いておくことにした。パンフレットに記載されている写真部の部室は5階。
物事には一長一短があるというが、5階は登るのがしんどい反面、校舎の中で最も静かなフロアでもある。
写真部の紹介欄にあった、極限まで手抜きされた「写真部 部長:七海千晴 部活動内容: 」という記載を思い出すたび、俺と白羽は、その部長に対して言い知れぬ疑問と恐怖を抱かずにはいられなかった。
普通、活動内容という最重要項目を真っ白な空欄のまま放置するか?
5階の最奥。俺たちは、写真部がある『504号室』の前にたどり着いた。




