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第3話

「ただいま」

「おかえり」

 俺を出迎えたのは、妹の鳴海ひびきだった。現在15歳、中学三年生。俺より一つ年下だが、我が家の台所事情を完全に支えていると言っても過言ではない。ぶっちゃけ、俺が数少ない尊敬する人間の一人だった。妹だけど。

「ひびき、隣の家の人のこと知ってるか? 浅見さんのところ」

「小夢姉ちゃんのこと? 兄ちゃんと同じクラスの」

「本当に隣の家だったんだな……」

「さっきまで小夢姉ちゃんから連絡が来てたよ。兄ちゃんが自分のことを全然覚えてない上に、態度が悪かったって。あ、それとこれ、海辺で寝こけてる兄ちゃんの写真」

「お前ら……リアルタイムで繋がってんのかよ」

 それにしても、態度が悪かった? そんな覚えはない。俺は心の中で、浅見の独断と偏見に満ちた言いがかりを断固として糾弾した。

 いつもと違って、家に帰った瞬間から、ひびきは期待に満ちた目を俺に向けていた。まるでクリスマスにサンタクロースを待つ子供のようだが、あいにく俺はプレゼントなんて持ち合わせていない。

「あのさ、兄ちゃん。そんなことより、今はもっと重大な問題があるんだけど……」

「なに?」

「今夜の我が家は、食料が底を突いたみたい」

「なんでだよ!? えっ? じゃあ……今までいつも謎のタイミングで届いてたあの物資補給は?」

「なんで真っ先にそれを思い浮かべるのさ! っていうか、あれは謎の物資でも何でもなくて、小夢姉ちゃんが作ってくれたものだって前にも教えたでしょ!」

「はぁ!? 浅見が作ったって!?」

 確かに、隣の人が届けてくれたとは聞いていた気がするが、まさか彼女の手作りだったとは。高校が始まる前に、女子の手作り弁当をすでに堪能していたなんて。

 ……いや、今はそんなことに浸っている場合じゃない。

「悪い……でもさ、もう手遅れなのか? なんで買い出しに行ってないんだ?」

「『明日は俺が食材を買ってくるから、ひびきは家でゆっくり休んでなよ』――昨日、自信満々にそう言ったのは誰ですか?」

 ひびきの言葉に、俺はその場に硬直した。それから、恐る恐る鞄から一冊の小説を取り出す。ページの間には、響が書いてくれた買い物リストが、忘れないようにとご丁寧に「しおり」代わりに挟まれていた。

「ああ……昨日の自信に満ち溢れていた自分の姿が目に浮かぶようだ……」

「小夢姉ちゃんが送ってくれた写真で、兄ちゃんがあんまり気持ちよさそうに寝てたから、もう買い出しは済ませたものだと思ってたよ」

「もう……何も言わないでくれ……」

「よし、行くよ」

「どこに?」

 ひびきはため息をつくと、俺の腕を引いて浅見の家の玄関先までやってきた。浅見に助けを求めるのは確かに賢明な判断だ。二人の仲も良さそうだし。しかし、ひびきは俺の背中をぐいと前に押し出した。

「ひびき、お兄ちゃんがこういうの苦手なのご存知でしょ……?」

 ひびきは何も答えず、ただにっこりと微笑んだ。その笑顔を見た瞬間、ここで逆らうのは絶対に悪手だと本能が察した。仕方なく、俺は一歩踏み出してインターホンを押した。

 待っている間の時間は、おそろしく長く感じられた。俺はドアの前に釘付けになり、視線をそらせない。やがて浅見が扉を開けて姿を現した瞬間、俺は自分にできる限界突破の愛想笑いを浮かべた。

 そんな俺を迎え入れたのは、明らかに普段よりワントーン高い声だった。

「あら――どちら様でしょうか? こんな夜更けに、我が家に何かご用ですか?」

「なんで敬語なんだよ……浅見さん、俺だよ、鳴海だ」

「見覚えのない方ですね。ナルミ? ひびきちゃんの親戚の方かしら?」

 怖い怖い怖い。笑顔なのにどうしてこんなに圧が強いんだ。俺はぎこちなく首を回し、ひびきに助けを求める視線を送った。ひびきは小さくため息をつくと、俺の後ろからひょっこりと顔を出して助け舟を出してくれた。

「小夢姉ちゃん、こんばんは!」

「ひびきちゃん! ちょうど今、晩ご飯作ってるところなんだけど、一緒にどう?」

「行く行く! でも、その前に」

 ようやく俺の出番が来たようだ。俺はすっと背筋を伸ばし、引きつりそうな笑みをキープする。

「この、小夢姉ちゃんの家の前に立ってる人、誰なんだろうね?」

「……おい」

「ひびきちゃんも知らない人? ちょっと不審者っぽくて怖いし、早く中に入って鍵閉めちゃおう」

「……おい!」

 助け舟を出すどころか、後ろから撃たれた!? いつの間に妹は浅見の陣営に寝返っていたんだ。俺が実の兄だろうに。

「お前ら、俺の目を見て言えよ」

 浅見とひびきが浮かべていたわざとらしい驚き顔は長持ちせず、すぐに二人して腹を抱えて爆笑し始めた。

「……まったく。俺の妹に変な影響を与えないでくれよな。じゃあひびきをよろしく。俺は戻るから」

「ちょっと、鳴海はどうするの?」

「俺はいいよ。放課後にちょっと買い食いしたから。ありがとね、浅見さん」

「でも……」

 浅見がまだ何か言いたそうに言葉を濁らせると、ひびきが後ろから彼女の袖をちょんちょんと引っ張った。もう一度軽く礼を言って、俺は自宅へと引き返した。

 放課後に買い食いしたなんて、当然真っ赤な嘘だ。ただ、浅見の家でご飯を食べる気にはなれなかった。絶対に気まずいし、味なんて分かりっこない。

 少しばかりの空腹に耐えるか、あの針のむしろのような空間に身を置くかの二択なら、俺は迷わず前者を選ぶ。

 自室に戻り、勉強机の前に腰を下ろす。引き出しを開けて、一冊のノートを取り出した。そこには、俺が思いついた突拍子もないアイデアやインスピレーションのようなものが書き殴られている。エッセイのようでもあり、備忘録のようでもある。

 ほんの少し目を通した後、俺はそれを机の隅へと放り投げた。部屋の明かりを消し、カーテンを開け放つ。ちょうど月光が、俺のベッドを真っ直ぐに照らし出していた。満足げに頷くと、俺はその月の光を全身に浴びながら、静かに目を閉じた。


「鳴海……鳴海……!」

 声……? 誰かが俺を呼んでいるのか。

「鳴海ってば、起きなさいよ!」

 浅い眠りから引き戻された俺の視界に、月明かりに照らされた浅見小夢の姿が映り込んだ。

「浅見……さん?」

「あんたね、寝る以外にやることないの」

「まさか。俺のスケジュールは過密そのものだよ。浅見さんが、たまたま俺の休憩時間を引き当ててるだけだ」

 浅見が机の上に置いていた弁当箱を差し出すと、ふわりと広がった芳醇な香りが一瞬で俺の意識を支配した。物欲しそうな俺の様子を見て、浅見は思わずクスリと笑った。

「『縁のない私』が作ったご飯だけど、鳴海くんは受け取ってくれるかしら?」

 どうやら、さっきの失言の尻尾を完全に掴まれてしまったらしい。恐る恐る、これから相当な長期間、この件でいじられ続けることになるのだろうと予感する。

「俺の休憩時間を二度も引き当てるなんて、浅見さんはもう誰よりも『縁がある人』だよ」

「あんたのその縁の基準、ガバガバすぎじゃない?」

 浅見の話によると、ひびきは今お風呂に入っているらしく、だから代わりに彼女が届けてくれたのだという。

 あんな減らず口を叩いたくせに、結局はわざわざタッパーに詰めて家まで運ばせる羽目になってしまった。ひびきが裏で上手くフォローしてくれたのだろうとは察しがつくが、やはり浅見には迷惑をかけてしまった。

「浅見さん、本当にありがとう」

「別に。基本的にはひびきちゃんのためだから」

「分かってる」

 今更そんなことを考えるのも遅すぎる気がするが、そもそも何故、浅見はこうも堂々と俺の部屋に入り込んでいるのだろう。

 彼女とひびきの仲が良いのは分かるが、俺とはまだ出会ったばかりの関係だ。それに気づくと、急に居心地が悪くなってきて、そわそわと身体を揺らしてしまう。同年代の女子が自分の部屋にいるという状況は……

「ねえ、鳴海。あんた、何にも期待してないの?」

「期待? 何にだよ」

「四月の春、高校生活の始まり。普通ならみんなワクワクするものでしょ? これからどんなことが起きるのかな、どんな人と出会うのかな、って」

 期待、か。

 それは人に対しても、物事に対しても、酷く曖昧な響きを持つ言葉だ。

 誰かに期待するにせよ、何かに期待するにせよ、そこにはどこか言いようのない無力感が付きまとう。手に入らないからこそ、期待という感情が生まれるのだから。

「……あるよ。ただ、期待のカタチなんて人それぞれだからな。俺が思い描く期待のカタチが浅見さんのそれとは違うから、不思議に思ったんじゃないか?」

 浅見はすぐには答えなかった。訝しんで顔を上げると、ちょうど俺をじっと見つめる彼女の瞳と視線がぶつかった。

「浅見さん?」

「やっぱり、鳴海ってひびきちゃんが言ってた通りの人ね」

「ひびきが? 俺について何て言ってたんだ?」

「いろいろ、ね」

 浅見は立ち上がって帰る支度を始めたので、俺も玄関まで彼女を見送ることにした。別れ際、俺はもう一度、今度は真面目に感謝の言葉を伝えた。

「それじゃあ、鳴海。もし明日の朝、私たちに『縁』があったら、一緒に学校に行こっか」

「隣の家だからか?」

「それとも、入学早々、孤高の一匹狼を気取るつもり?」

 俺が答えるよりも早く、浅見は「おやすみ」と言い残して足早に自分の家へと駆け込んでいった。後に残されたのは、その場に呆然と立ち尽くす俺だけだ。

 もし明日の朝、縁があったら――か。

 思わず、ふっと口元が緩んでしまった。

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