表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
3/18

第2話

 雨の夜、林道。

 迷子。真っ暗闇。

 星も月も光を遮られ、寒さと泥濘が全身にまとわりつく。

 走る、走る。

 やさしい笑顔。でも顔は見えない。

 あたたかな感触。それは、差し伸べられた手。

 映像の断片が、散りゆく桜の花びらのように瞬時に過ぎ去っていく。


「……」

 再び目を開けたとき、夜空に広がる星の紗が一瞬で視界に飛び込んできた。高くて低い波の音律が意識を現実世界に引き戻し、夜風が身体を冷たく包む。

「寒……だからあんな夢を見たのか」

「起きた?」

「うん、起き……え?」

 なかば寝ぼけながら返事をして、ようやく気づく。いつのまにか、すぐそばにもうひとつ人影がある。

「だ、誰?」

 あわてて数歩後ずさった俺に、相手はあからさまに不満げな表情を浮かべた。

「ちょっと、なんで私を見て後ずさるのよ」

「夜這いに遭遇したら、普通怖がるだろ」

「はあ――!? 誰があんたみたいな奴を夜這いするか!」

 勢いよく立ち上がり、彼女はぎっと俺を睨みつけてきた。よく見ると、俺と同じ制服を着ている。なぜこんなところに。長い時間の観察によれば、ここには俺以外に人が来たことなどないはずだ。

「君は? どうしてここに?」

「鳴海、まさか本当に私のこと知らないって言わないよね?」

「え? なんで名前を……同じ制服で、クラスメイトか?」

 まさか、あんなに抑揚のない無感動な自己紹介を、本当に覚えている人がいるとは。しかも女子だ。

「浅見小夢」

 自己紹介のとき本を読んでいたから聞いてなかった――なんて口が裂けても言えない。けれど、驚いたことに、その名前は本当にどこかで聞いたことがある気がした。

 首をかしげて考え込む俺の前へ、浅見が一気に詰め寄ってくる。その顔は抑えきれない怒りでいっぱいだ。

「ひっど――い!」

「いや……浅見さん、そんなに怒らなくても。自己紹介のとき、ちょうど俺が……」

「とっくに引っ越してきてたのに、挨拶ひとつないし。私がお宅に行っても相手してくれたのはひびきちゃんだけだし。隣人として初めての顔合わせが学校で! しかも、まるで心当たりゼロの顔! 信じられない!」

 怒っていても、その可愛らしい顔立ちは少しも損なわれていない。透き通った瞳は純粋で無垢そのもの、まるで野原に咲くたんぽぽのように屈託がない。

「ねえ、聞いてるの?」

「聞いてる、聞いてる。なるほど、ご近所の浅見さんか。ちょっと思い出せなかっただけ」

「嘘つき。どうせ私のことまったく知らなかったくせに、よく思い出せなかっただけって言うね」

「……」

 ふたりのあいだに、しばし沈黙が落ちる。実を言うと、俺はこういう空気がひどく怖い。ここは戦略的撤退を取るべきか。

「悪かった。あとでちゃんと挨拶にうかがう。今夜のところは、ひびきに夕飯を作らせてお詫びにするってのはどうだ?」

「はあ……あんたね。引っ越してきてもうどれだけ経ったと思う? 今さら挨拶って。っていうか、なんで自分のやらかしを妹に責任転嫁しようとするのよ」

「ごほん……とりあえず帰らないか。もう夜だし」

 言いながら、地面に置いた鞄を拾い上げる。浅見もうなずき、俺に一冊の本を差し出した。俺の小説だ。

「けっこう面白かった。タイトルから哲学書かなんかかと思ったけど、小説だったんだ」

 小説を鞄に入れ、浅見とふたりで自転車を停めた場所へ向かって歩き出す。今さらながらよくよく思い返せば、妹がたしかに隣の浅見さんのことを何度か口にしていた。ただあまり興味がなかったから、真面目に聞いていなかっただけだ。

「浅見さんはどうしてここに?」

「友達を送ってた帰りで、ちょうど通りかかったから、もしかしたらいるかなと思って。放課後に声をかけようとしたのに、気づいたらいなくなってた。前にひびきちゃんと散歩したとき、ここに連れてきてもらったことがあってね。そのとき言ってたよ、あなたの……秘密基地だって。高校生にもなって」

 最後のひと言はずいぶん小さな声だったけれど、夜の海辺は信じられないほど静かで、俺の耳にはしっかりと届いた。

「秘密基地じゃない! 静謐の地だ」

「うわ……ますます恥ずかしくない?」

 どうやら心の底から呆れられたらしい。とはいえ、今しがた浅見が放課後に俺を探そうとしていたというのは、なぜだろう。

 隣人だからか? いや、隣人という関係があるからこそ、余計に当然のように友達になろうとしているのかもしれない。新しい高校生活の始まり、みんな友達が欲しいものだ。

 一緒に歩いている以上、自分だけ先に自転車で帰るわけにはいかない。そんな無粋な真似はできない。だから俺は鞄を前かごに放り込み、自転車を押しながら浅見とふたりで帰ることにした。

 まだ二、三歩も進まないうちに、浅見はひらりと後ろの荷台に腰掛けた。

「浅見さん?」

「あんたのせいでわざわざ遠回りして、しかもこんなに待たされたんだから。乗せて帰ってよ、文句ある?」

「ないない。はいはい、かしこまりました」

 ときどきほんの少し服の裾を掴まれているだけでも、ひどく気恥ずかしい。だけどどういうわけか、その感覚は、まるで静まりかえった世界に不意に波紋が広がるようで、次第に緊張がほどけていくのがわかった。

「こっちから挨拶に来なかったのはともかく、一度も顔を合わせたことがないって、いったいどうやったらできるの? 私も何度かひびきちゃんに会いに行ったけど、あんたはいつもいなかった……ああ、でも、脱ぎ散らかした服ならあったけどね」

「ごほん……っ」

 こいつ、なんて失礼なことを言うんだ。俺は気まずさのあまり、咳払いをふたつ重ねた。

「……引っ越してからはずっと外をふらついてて、家にいる時間もまちまちだったから、たまたますれ違ったのかもな。でも一度も会わなかったのは、ある意味すごい偶然だ。縁がなかったのかもしれない」

 浅見はしばらく何も言わなかった。前を見なければならない俺は、浅見の表情をうかがうことができない。もしかして、何かまずいことでも言っただろうか。ペダルを漕ぐ速度をじわりと緩める。

「あの……」

「あははははは――」

 声をかけようとしたところで、背後から浅見の笑い声がふりかかってきた。

「そうだね――縁がなかったのかもね!」

 声の調子からして、怒ってはいなさそうだ。ならよかった。しくじったわけではないらしい。

 表札に「浅見」とあるのを確認して、自転車をしっかりと停めた。

「それじゃあ、俺も帰る。今日は悪かったな、長々と待たせてしまって。ありがとう、浅見さん」

「今さら口だけはいいこというね」

 浅見は口元を手で押さえて笑うと、俺にひらひらと手を振り、家の中へと入っていった。

 自転車を駐輪場に置き、俺も家へと入る。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ