第2話
雨の夜、林道。
迷子。真っ暗闇。
星も月も光を遮られ、寒さと泥濘が全身にまとわりつく。
走る、走る。
やさしい笑顔。でも顔は見えない。
あたたかな感触。それは、差し伸べられた手。
映像の断片が、散りゆく桜の花びらのように瞬時に過ぎ去っていく。
「……」
再び目を開けたとき、夜空に広がる星の紗が一瞬で視界に飛び込んできた。高くて低い波の音律が意識を現実世界に引き戻し、夜風が身体を冷たく包む。
「寒……だからあんな夢を見たのか」
「起きた?」
「うん、起き……え?」
なかば寝ぼけながら返事をして、ようやく気づく。いつのまにか、すぐそばにもうひとつ人影がある。
「だ、誰?」
あわてて数歩後ずさった俺に、相手はあからさまに不満げな表情を浮かべた。
「ちょっと、なんで私を見て後ずさるのよ」
「夜這いに遭遇したら、普通怖がるだろ」
「はあ――!? 誰があんたみたいな奴を夜這いするか!」
勢いよく立ち上がり、彼女はぎっと俺を睨みつけてきた。よく見ると、俺と同じ制服を着ている。なぜこんなところに。長い時間の観察によれば、ここには俺以外に人が来たことなどないはずだ。
「君は? どうしてここに?」
「鳴海、まさか本当に私のこと知らないって言わないよね?」
「え? なんで名前を……同じ制服で、クラスメイトか?」
まさか、あんなに抑揚のない無感動な自己紹介を、本当に覚えている人がいるとは。しかも女子だ。
「浅見小夢」
自己紹介のとき本を読んでいたから聞いてなかった――なんて口が裂けても言えない。けれど、驚いたことに、その名前は本当にどこかで聞いたことがある気がした。
首をかしげて考え込む俺の前へ、浅見が一気に詰め寄ってくる。その顔は抑えきれない怒りでいっぱいだ。
「ひっど――い!」
「いや……浅見さん、そんなに怒らなくても。自己紹介のとき、ちょうど俺が……」
「とっくに引っ越してきてたのに、挨拶ひとつないし。私がお宅に行っても相手してくれたのはひびきちゃんだけだし。隣人として初めての顔合わせが学校で! しかも、まるで心当たりゼロの顔! 信じられない!」
怒っていても、その可愛らしい顔立ちは少しも損なわれていない。透き通った瞳は純粋で無垢そのもの、まるで野原に咲くたんぽぽのように屈託がない。
「ねえ、聞いてるの?」
「聞いてる、聞いてる。なるほど、ご近所の浅見さんか。ちょっと思い出せなかっただけ」
「嘘つき。どうせ私のことまったく知らなかったくせに、よく思い出せなかっただけって言うね」
「……」
ふたりのあいだに、しばし沈黙が落ちる。実を言うと、俺はこういう空気がひどく怖い。ここは戦略的撤退を取るべきか。
「悪かった。あとでちゃんと挨拶にうかがう。今夜のところは、ひびきに夕飯を作らせてお詫びにするってのはどうだ?」
「はあ……あんたね。引っ越してきてもうどれだけ経ったと思う? 今さら挨拶って。っていうか、なんで自分のやらかしを妹に責任転嫁しようとするのよ」
「ごほん……とりあえず帰らないか。もう夜だし」
言いながら、地面に置いた鞄を拾い上げる。浅見もうなずき、俺に一冊の本を差し出した。俺の小説だ。
「けっこう面白かった。タイトルから哲学書かなんかかと思ったけど、小説だったんだ」
小説を鞄に入れ、浅見とふたりで自転車を停めた場所へ向かって歩き出す。今さらながらよくよく思い返せば、妹がたしかに隣の浅見さんのことを何度か口にしていた。ただあまり興味がなかったから、真面目に聞いていなかっただけだ。
「浅見さんはどうしてここに?」
「友達を送ってた帰りで、ちょうど通りかかったから、もしかしたらいるかなと思って。放課後に声をかけようとしたのに、気づいたらいなくなってた。前にひびきちゃんと散歩したとき、ここに連れてきてもらったことがあってね。そのとき言ってたよ、あなたの……秘密基地だって。高校生にもなって」
最後のひと言はずいぶん小さな声だったけれど、夜の海辺は信じられないほど静かで、俺の耳にはしっかりと届いた。
「秘密基地じゃない! 静謐の地だ」
「うわ……ますます恥ずかしくない?」
どうやら心の底から呆れられたらしい。とはいえ、今しがた浅見が放課後に俺を探そうとしていたというのは、なぜだろう。
隣人だからか? いや、隣人という関係があるからこそ、余計に当然のように友達になろうとしているのかもしれない。新しい高校生活の始まり、みんな友達が欲しいものだ。
一緒に歩いている以上、自分だけ先に自転車で帰るわけにはいかない。そんな無粋な真似はできない。だから俺は鞄を前かごに放り込み、自転車を押しながら浅見とふたりで帰ることにした。
まだ二、三歩も進まないうちに、浅見はひらりと後ろの荷台に腰掛けた。
「浅見さん?」
「あんたのせいでわざわざ遠回りして、しかもこんなに待たされたんだから。乗せて帰ってよ、文句ある?」
「ないない。はいはい、かしこまりました」
ときどきほんの少し服の裾を掴まれているだけでも、ひどく気恥ずかしい。だけどどういうわけか、その感覚は、まるで静まりかえった世界に不意に波紋が広がるようで、次第に緊張がほどけていくのがわかった。
「こっちから挨拶に来なかったのはともかく、一度も顔を合わせたことがないって、いったいどうやったらできるの? 私も何度かひびきちゃんに会いに行ったけど、あんたはいつもいなかった……ああ、でも、脱ぎ散らかした服ならあったけどね」
「ごほん……っ」
こいつ、なんて失礼なことを言うんだ。俺は気まずさのあまり、咳払いをふたつ重ねた。
「……引っ越してからはずっと外をふらついてて、家にいる時間もまちまちだったから、たまたますれ違ったのかもな。でも一度も会わなかったのは、ある意味すごい偶然だ。縁がなかったのかもしれない」
浅見はしばらく何も言わなかった。前を見なければならない俺は、浅見の表情をうかがうことができない。もしかして、何かまずいことでも言っただろうか。ペダルを漕ぐ速度をじわりと緩める。
「あの……」
「あははははは――」
声をかけようとしたところで、背後から浅見の笑い声がふりかかってきた。
「そうだね――縁がなかったのかもね!」
声の調子からして、怒ってはいなさそうだ。ならよかった。しくじったわけではないらしい。
表札に「浅見」とあるのを確認して、自転車をしっかりと停めた。
「それじゃあ、俺も帰る。今日は悪かったな、長々と待たせてしまって。ありがとう、浅見さん」
「今さら口だけはいいこというね」
浅見は口元を手で押さえて笑うと、俺にひらひらと手を振り、家の中へと入っていった。
自転車を駐輪場に置き、俺も家へと入る。




