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第10話

 昼休み、青山は俺に一声かけてから友達と飯を食いに行った。席が隣になって一ヶ月以上、彼は俺が一人で食べるのを好むと知っているから、わざわざ誘ってくることもない。

 少し間を置いてから、俺は弁当箱と小説を手に、自分の『テリトリー』の一つである中庭の東屋へと向かった。

 快適なランチタイムの始まりだ……そのはずだったのだが。

 遠目から見ると、すでに東屋には人影があった。どうやらカップルらしい……一足遅かったか。

「俺のテリトリーが……」

 前にもこういうことはあったが、そう多くはない。東屋の近くに何か新しい建物を建てる予定があるらしく、すでにフェンスで囲まれているため、普段は滅多に人が来ないのだ。

 戻るべきか……いや、しかし……

 その時、ふと新たな理想の場所を思いついた――写真部の部室だ。静かな五階、極端に少ない部員、初めて訪れた瞬間に俺の『お墨付き』となった場所。七海先輩はきっと仲の良い友達とご飯を食べているだろうし、部室に入れるだろうか。

 意を決して、俺は五階へと足早に向かった。

 五階はやはり酷く静まり返っていて、廊下を歩いているだけで、まるで世界に俺一人しかいないかのような錯覚に陥る。

 部室の鍵が開いていることを願う。

「お邪魔し……」

 扉が開いたことに安堵したのも束の間、俺の嬉しそうな顔は二秒ともたなかった。

 部室の中に目を向けると、白羽が同じように驚いた目でこちらを見ていた。

「失礼しました」

 俺は反射的にドアを閉めた。

 よし、逃げよう。走ると足音が響くから、早歩きだ。そうして逃げ出そうとした瞬間、白羽がドアを開けた。

「何をしているんですか?」

「たまたま通りかかっただけだ」

 手に弁当箱と本を持った俺は、そう言った。

「白々しいです」

「分かってる……普通、弁当箱と本を持ってたまたま通りかかる奴なんていないよな」

 白羽の食事はまだ終わっていなかった。俺は一番離れた席を選んで腰を下ろし、弁当箱と本を机に置いた。

「食べないんですか?」

「いいのか?」

「ここは私のプライベートスペースではありませんから」

 いつも通りなら、俺は本を読みながらご飯を食べる。普段なら頭の中に本の世界が広がるはずなのに、今はただ文字が右から左へと通り過ぎていくだけで、文章として頭に入ってこない。

 本を置こうかとも思ったが、置いたら置いたで視線をどこに向ければいいか分からず、結局は無理をして掲げ続けるしかなかった。

 白羽は食事を終えると、口元を拭って弁当箱の蓋を閉めた。しかし、すぐに立ち去る様子はなく、そのまま座っている。

 俺の弁当はまだ半分ほど残っていた。もっとも、前半の半分は味なんてまるで分からず、意識のすべてがこの場の空気に持っていかれていたのだが。

「疲れませんか?」

「え?」

「本、ずっと持ったままです」

「これか? 俺、ご飯を食べながら本を読むのが好きで……」

「でも、一ページもめくっていませんよ」

「そ、それは……この章が素晴らしすぎて、じっくり味わいたいからで……」

「へえ、どんな内容なんですか?」

 自分の要約能力にはそれなりに自信があった。俺は手元で止まったままのページを凝視する。

「じ、次回予告……」

 白羽は口元を押さえて、くすくすと笑った。

 こいつも、こんな表情をするんだな。

 どうしてだろう。白羽の笑顔を初めて見たことで、さっきまで張り詰めていた神経が、一気に解きほぐされていくのを感じた。

「この前、鳴海くんは小説を読むのが好きだって言っていましたよね。それに確か、少し前の作文も先生に褒められていましたよね」

 誰かに褒められるなんて、随分と久しぶりのことだった。

「たまたま、あのテーマについて思うところがあっただけさ」

「『誰もが独りよがりの自由の中に生き、自分の自由意志で人生を選んだと思い込んでいる。しかし実際は、無数の有形無形の足枷の下で、唯一マシな選択肢を強制的に選ばされているに過ぎない。そんな現実を、果たして選択と呼べるのだろうか』――私、この言葉がすごく好きです。タイトルもインパクトがありましたね。『弱者は何故弱者なのか』」

 まさか白羽が、俺の作文のフレーズを覚えているなんて思いもしなかった。

「他人の口から聞かされると、やっぱりめちゃくちゃ恥ずかしいな……後から俺も後悔したんだ。もっと普通のタイトルにすればよかったって」

「私は素敵だと思いますよ。制限された檻の中でしか選べないのは、確かに弱者ですから」

 あれ? 俺、今、白羽さんと普通に会話してる? どういう状況だ? いや、でも今ならいける。今のこの空気感と状態なら、いける。

 二人の間に和やかな会話が流れている今こそ、前回の件を謝る絶好のチャンスだ。

「あの、白羽さん……先週の土曜の夜のことなんだけど……」

「先週の土曜日はすみませんでした。起こしてしまったみたいで」

 俺が切り出すより先に、白羽の方から謝られてしまった。

 俺は慌てて手を横に振り、言葉を返す。

「いやいやいや! 起こされてなんかいない。謝らなきゃいけないのは俺の方だ。あの時、夢から急に目が覚めて、お前の手首を掴んじゃって……驚かせただろ。悪気はなかったんだ。夢の中で何かを掴もうとしていたらしくて、それでつい……」

 お互いに謝り合う格好になり、俺たちは少し照れくさそうに笑った。

「じゃあ、お互い様、ですか?」

「ああ、お互い様だな」

 思っていたよりもずっと話しやすい相手だった。白羽には、そのクールな外見よりもずっと柔らかい、独特の空気感があるようだ。

「その本、少し見せてもらってもいいですか?」

 俺は一瞬呆気に取られたが、すぐに本を白羽へと差し出した。

「ああ、もちろん」

 変な内容のページじゃなければいいけど。

「ありがとうございます」

 白羽は本を受け取ると、最初のページを開いて読み始めた。

 俺も早く飯を食い終えないと。普通に会話ができると分かって空気が和らいだせいか、ここにきてようやく弁当の味が分かってきた。

 白羽が本を読む姿は、あの日、職員室で部活のパンフレットをめくっていた時と同じだった。ただ、ずっと盗み見るのも失礼だし、俺は視線を机や窓の外へと移し、できるだけ咀嚼音を立てないように気を配った。

 やがて、残りのご飯を平らげた。

「ごちそうさま」

「食べ終わりましたか?」

「ああ」

 白羽はさっき俺が見ていたページにそっとしおりを挟み直し、本を返してくれた。

「とても面白かったです。ありがとうございます」

 まさか白羽に、この本の良さが分かるのだろうか? 大抵の奴らは退屈だとか何とか抜かす、あの浅はかな人類ども……いやいや、焦るな。ただの社交辞令という可能性だってある。

「白羽さんは、そう思ったのか?」

「はい。波瀾万丈で謎が散りばめられているような作品ではありませんけれど、作者が伝えようとしている感情が、真っ直ぐに伝わってきます」

 おお……! なんという貴重な存在だ。まだ見ぬ我が理解者よ、君に敬礼を。

 俺は心の中で、白羽に最高級の敬礼を送った。

 もっと語り合いたい気持ちもあったが、自分の趣味についてこれ以上熱弁を振るうのはやめておくことにした。

「そうだな、俺も同感だ。だから気に入ってるんだよ。もう何度も読み返してるけど、読むたびに心が落ち着くんだ。もしよかったら、白羽さんにもお勧めするよ」

「私も興味が湧きました。今度、読んでみますね」

 二人とも食事を終え、会話も一段落ついた。この流れなら、どちらからともなく「じゃあ、戻ろうか」と言って教室に帰る段階だ。

 浅見の時とは違い、俺と白羽が一緒に歩いていたところで、気にする奴なんてそういないだろう。何せ俺たちは二人とも目立たない人間だからだ。

 問題は、今は昼休みだということ。二人で弁当箱を持って一緒に戻るとなれば、話は別だ。この状況を切り抜けるには、どちらか一方が先に席を立つしかない。

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