第8話 競走訓練
その日の朝、水面は静かだった。
風は弱い。
波も低い。
訓練には、ちょうどいい条件だった。
けれど、風見灯の胸の中だけは、落ち着いていなかった。
今日は、初めての本格的な競走訓練。
六艇で並び、スタートし、一マークを回り、二マークまで競う。
ただ走るだけではない。
順位がつく。
誰が前に出て、誰が遅れ、誰が道を失うのかが、はっきり見える。
養成員たちは整備棟の前に集まっていた。
白瀬玲央は、いつも通り表情を崩さない。
鳴宮迅は、誰とも話さず、水面だけを見ている。
灯はその二人を見て、少しだけ視線を落とした。
自分とは違う。
玲央は強い。
鳴宮は速い。
二人は、最初から勝負の場所にいる。
灯はまだ、その後ろにいる。
「今日の訓練は、六艇で行う」
教官の声が響いた。
「ただの旋回練習ではない。スタート、進入、スリット、一マーク、そして道の取り方。全部を見る」
養成員たちの背筋が伸びた。
「順位も見る。内容も見る。だが、勘違いするな。今日一着を取った者が強いとは限らない」
教官は一人一人を見渡した。
「大事なのは、自分が何をしようとして、実際に何ができたかだ」
灯はその言葉を胸の中で繰り返した。
何をしようとして、何ができたか。
それなら、自分にも見るべきものはある。
「第一組、準備」
名前が呼ばれていく。
玲央。
鳴宮。
灯。
灯は六号艇だった。
一番外。
それだけで、少し息が詰まった。
六号艇は遠い。
一マークまで距離がある。
内の艇が先に回る。
少しでも遅れれば、何もできないまま外に流される。
「風見」
教官に呼ばれ、灯は顔を上げた。
「はい」
「六号艇だからといって、最初から諦めるな」
灯は息を呑んだ。
「外には外の見え方がある。内より遠い分、全体が見える。お前が見るべきものは、そこだ」
「はい」
返事をしたものの、灯の手は少し震えていた。
全体が見える。
それは、灯にとって武器になるかもしれない。
でも同時に、怖さにもなる。
見えすぎると、迷う。
どこへ行けばいいのか。
誰についていけばいいのか。
どの波を避けるべきなのか。
迷っている間に、レースは終わる。
艇に乗り込むと、エンジン音が体の芯に響いた。
灯はハンドルを握った。
水面を見る。
いつもの練習より、広く見える。
前に五艇いる。
それぞれの艇が、違う音を出している。
違う角度で水を叩いている。
一号艇は白瀬玲央。
二号艇は別の養成員。
三号艇は鳴宮迅。
四号艇、五号艇、そして六号艇が灯。
「進入開始」
教官の声が聞こえた。
艇がゆっくりと動き出す。
枠なり。
一号艇の玲央が内へ入り、二号艇が続く。
三号艇の鳴宮は静かに位置を取った。
灯は外で、距離を保ちながら助走に入る。
時計を見る。
まだ早い。
もう少し待つ。
内の艇が起こす。
鳴宮も起こす。
灯も艇を起こした。
加速。
スリットが近づく。
内の艇がわずかに先行する。
玲央は遅れていない。
鳴宮も伸びてくる。
灯は外からついていく。
スリット通過。
遅い。
そう感じた。
一艇身まではいかない。
でも、明らかに前を取られている。
一マークまでの短い距離で、灯は焦った。
このまま外を回っても届かない。
内に入る場所もない。
前の五艇が壁になる。
一マークが近づく。
玲央が先に回る。
鳴宮が三コースから握る。
二号艇が少し遅れて、内側に空間ができかけた。
灯は見た。
ほんの少しだけ、道が開いた。
外を握るのではない。
全速で大きく回るのでもない。
鳴宮が握った外側の波。
二号艇が遅れて作った内側の隙間。
その間。
細い道だった。
普通なら、入らない。
狭すぎる。
少しでも遅れれば、引き波に捕まる。
少しでも角度を間違えれば、外へ流れる。
でも、灯には見えた。
そこだけ、水面が少しだけ空いている。
「行け」
誰かの声ではなかった。
自分の中の声だった。
灯はハンドルを切った。
艇が跳ねる。
引き波が艇底を叩く。
視界が揺れる。
怖い。
でも、戻れない。
灯は身体を低くして、艇を細い道へ入れた。
一マーク。
玲央は先頭で抜ける。
鳴宮が外から迫る。
二号艇が流れる。
四号艇がその外に膨らむ。
その内側を、灯の六号艇が差し込んだ。
完全に捉えたわけではない。
綺麗なターンでもない。
艇は少し暴れた。
出口で減速もした。
それでも、灯は前に出た。
二艇を抜いた。
バックストレッチに入る。
目の前にいるのは、玲央と鳴宮。
遠い。
まだ遠い。
でも、さっきまで自分の前にいた艇が、後ろにいる。
灯は息を忘れた。
三番手。
六号艇から、三番手。
「風見、残せ!」
教官の声が飛んだ。
灯は我に返った。
ここで終わりではない。
二マークがある。
後ろの艇が迫ってくる。
四号艇が外から伸びる。
二号艇も立て直してくる。
灯は水面を見た。
前を行く鳴宮の引き波。
外から迫る艇の角度。
自分の艇の位置。
無理に前を追えば、流れる。
外を見すぎれば、内を差される。
守る。
灯はそう決めた。
二マークでは、勝ちに行かない。
三着を守る。
その判断は、灯にとって初めてのものだった。
これまでは、いつも遅れてから考えていた。
空いた場所を見つけてから動いていた。
でも今は違う。
先に決めた。
ここを守る。
この角度で回る。
外は捨てる。
内だけは開けない。
二マーク。
灯は早めに艇を向けた。
綺麗ではない。
旋回はまだ大きい。
出口の押しも弱い。
玲央や鳴宮のように、艇が鋭く返るわけではない。
それでも、内は閉めた。
後ろの艇が入る隙間を消した。
引き波を越え、灯は艇を伸ばす。
ゴール。
一着、白瀬玲央。
二着、鳴宮迅。
三着、風見灯。
灯は、しばらく何が起きたのか分からなかった。
勝ったわけではない。
一着ではない。
二着でもない。
玲央にも、鳴宮にも届いていない。
それでも、六号艇から三着に入った。
自分で道を見つけて、入った。
桟橋に戻ると、養成員たちの視線が灯に向いた。
驚き。
悔しさ。
少しの警戒。
今までとは違う視線だった。
灯は艇を降りる時、膝に力が入らなかった。
緊張が一気に抜けたのだ。
教官が近づいてきた。
「風見」
「はい」
灯は背筋を伸ばした。
怒られると思った。
スタートは遅かった。
一マークも荒かった。
二マークも綺麗ではない。
直すところはいくらでもある。
だが、教官は少し間を置いて言った。
「今の一マーク、何が見えた」
灯は水面を振り返った。
言葉にするのは難しかった。
「二号艇が少し遅れて、三号艇が外へ行ったので……その間に、少しだけ空きました」
「そこに入れると思ったのか」
灯は首を横に振りかけて、止めた。
思った、というより。
「見えました」
教官の目が細くなった。
「入れるかどうかを考える前に、道が見えました」
自分で言って、灯は少し怖くなった。
感覚の話だ。
説明になっていない。
偶然だと言われても仕方がない。
けれど、教官は否定しなかった。
「そうか」
それだけだった。
しかし、その一言は重かった。
玲央が近づいてきた。
「三着、おめでとう」
「ありがとう。でも、全然届かなかった」
「当たり前」
玲央は即答した。
「私と鳴宮に、今の灯が簡単に届いたら困る」
その言い方は厳しかったが、表情は少し柔らかかった。
「でも、あの一マークは良かった」
灯は玲央を見た。
「本当に?」
「事実。」
玲央は短く言った。
「私は前にいたから全部は見えてない。でも、後ろから六号艇が入ってきたのは分かった。あの位置で入ってくるとは思わなかった」
灯の胸が、少しだけ熱くなった。
玲央に認められた。
完全ではない。
勝負相手としてでは、まだない。
それでも、今の一瞬だけは見てもらえた。
そこへ鳴宮が歩いてきた。
「遅い」
第一声はそれだった。
灯は思わず固まる。
鳴宮は淡々と続けた。
「スタートが遅い。一マークの入りも遅い。二マークは守る判断は悪くないけど、艇が返ってない」
「……うん」
「でも」
鳴宮は灯を見た。
「道を選ぶ目はある」
灯は息を呑んだ。
鳴宮が、はっきりそう言った。
「それだけで勝てるわけじゃない。でも、それがない選手は勝負にならない」
鳴宮はそれ以上言わず、整備棟へ戻っていった。
灯はその背中を見送った。
玲央が横で小さく言った。
「褒めてるよ、あれ」
「分かりにくい」
「事実。」
灯は少しだけ笑った。
訓練はその後も続いた。
二走目。
灯は五号艇。
今度は一マークで迷った。
外を握るか、差し場を待つか。
考えすぎて、何もできなかった。
結果は五着。
三走目。
四号艇。
スタートで遅れ、展開を見る前に置いていかれた。
四着。
一度できたからといって、次もできるわけではない。
灯はそれを痛いほど感じた。
水面は毎回変わる。
艇の並びも変わる。
前の選手の動きも違う。
同じ道など、二度と現れない。
けれど、最初の六号艇の一走は、灯の中に残り続けた。
あの時だけは、見えた。
自分が行くべき場所が。
訓練後、灯は一人で水面を見ていた。
夕方の光が、水面に細く揺れている。
そこへ教官が来た。
「今日の三着で、勘違いするな」
灯はすぐに返事をした。
「はい」
「お前はまだ弱い。スタートも遅い。ターンも大きい。二マーク以降の艇の運びも甘い」
「はい」
事実だった。
悔しいが、全部その通りだった。
「だが」
教官は水面を見たまま続けた。
「お前には、他の者と違う見え方がある」
灯は顔を上げた。
「見え方、ですか」
「玲央は強い。鳴宮は速い。あいつらは自分でレースを作れる」
教官は静かに言った。
「今のお前は、レースを作れない。だが、壊れた隊形の中から道を拾うことができる」
灯は黙って聞いていた。
「それは逃げではない。武器にできる」
武器。
その言葉が、灯の胸に残った。
今まで、自分には何もないと思っていた。
玲央のような強さはない。
鳴宮のような才能もない。
前に出る速さも、艇を押し切る力もない。
けれど。
水面を見ること。
空いた道を見つけること。
そこに艇を入れること。
それなら、自分にもできるかもしれない。
「ただし」
教官の声が厳しくなる。
「見えてから動いているうちは遅い」
灯の胸が詰まった。
「今日の一マークは、たまたま間に合った。だが、本番の速度なら、あの半分の迷いで道は消える」
「はい」
「次に必要なのは、決める力だ」
決める力。
灯はその言葉を噛みしめた。
見るだけでは足りない。
見えた道に、入る。
怖くても、入る。
迷う前に、決める。
「風見」
「はい」
「お前は、水面を見る少女のままで終わるな」
教官は灯を見た。
「見えた水面で、勝負できる選手になれ」
灯は深く頭を下げた。
「はい」
その日の夜。
灯は訓練ノートを開いた。
白いページに、今日の走りを書いていく。
六号艇。
スタート遅れ。
一マーク、二号艇と三号艇の間。
狭い道。
入った。
三着。
その下に、灯は少し迷ってから、こう書いた。
私は、水面が見える。
でも、まだ決められない。
ペン先が止まる。
灯は次の行に、もう一つ書き足した。
次は、見えた道に迷わず入る。
窓の外では、夜の水面が静かに揺れていた。
今日、灯は勝っていない。
玲央にも、鳴宮にも届いていない。
それでも、初めて自分の形が見えた。
水面を見る。
空いた道を選ぶ。
決めて、艇を入れる。
まだ小さな形だった。
けれど、その小さな形こそが、風見灯という選手の始まりだった。




