第7話 見えているもの・後編
最初に玲央が走った。
入口は速い。
艇の向きも鋭い。
だが、教官が指摘した通り、出口で少し艇が暴れる。
それでも二本目、三本目と修正していく。
玲央は、失敗しても次の一本で必ず一つ直してくる。
全部ではない。
一つだけ。
だから早い。
次に鳴宮が走る。
やはり動きに無駄がない。
ただ、水面が少し荒れる場所で艇が小さく跳ねた。
鳴宮は大きく崩れない。
それでも戻ってくると、不満そうに呟いた。
「今のは雑だった」
灯には十分上手く見えた。
けれど、鳴宮にとっては違うらしい。
上手い人にも、課題がある。
そう思うと、少しだけ息がしやすくなった。
灯の番が来た。
艇に乗る。
左手にスロットルレバーの感触。
右手にハンドルの硬さ。
足元に水面の揺れ。
怖さはある。
でも、昨日より少しだけ形がある。
入口。
波。
出口。
モーターが唸る。
艇が動き出した。
最初の直線。
速度を上げすぎない。
落としすぎない。
灯は水面を見た。
見すぎるな。
ターンマークまでの入口を見る。
どこで向けるか。
昨日より少しだけ早め。
決める。
一マークへ入る。
外側の波。
跳ねる。
でも、慌てない。
左手を急に抜かない。
右手で押さえ込みすぎない。
出口を見る。
艇は外へ膨らんだ。
でも、昨日より膨らみは小さい。
直線に戻る。
「次!」
教官の声。
二本目。
入口を見る。
同じ場所で向ける。
波。
少し跳ねる。
慌てない。
出口。
見る。
一本目より、わずかに早く出口が見えた。
三本目。
身体が疲れ始める。
左手に力が入りかける。
灯は気づいた。
固い。
でも、気づけた。
少しだけ緩める。
艇が動く。
ターンへ入る。
入口。
波。
出口。
三つだけ。
四本目。
風が少し変わった。
水面のざわつきが、ターンマークの手前に寄っている。
灯はそれに気づいた。
気づいた瞬間、考えが増えそうになる。
風が変わった。
波の位置も違う。
昨日と同じか。
外へ流れるか。
速度を落とすか。
もっと早く向けるか。
迷いかけた。
その瞬間、教官の声が頭に響いた。
見えているものを、全部拾おうとするな。
灯は息を吸った。
入口。
波。
出口。
それだけ。
入口を少し早める。
波で慌てない。
出口を見る。
艇が跳ねた。
思ったより強い。
左手が反応しそうになる。
抜くな。
灯は奥歯を噛み、スロットルを急に戻さなかった。
右手で無理に押さえ込まない。
出口を見る。
艇は外に膨らんだが、転覆する気配はなかった。
戻せる。
直線に入った。
ピット側から教官の声が飛ぶ。
「風見、今の一本だ!」
灯の胸が跳ねた。
今の一本。
褒められたのか、注意されたのか分からない。
けれど、声の調子が少し違った。
五本目。
灯は欲を出しかけた。
今の一本が良かったなら、次はもっと小さく回りたい。
もっと速く。
もっと綺麗に。
その瞬間、艇の向きが遅れた。
入口が遅れる。
波に乗る。
左手に力が入る。
艇が暴れ、大きく外へ膨らんだ。
なんとか戻したが、明らかに崩れた。
ピットに戻ると、教官が待っていた。
「風見」
「はい」
「四本目は良かった」
「はい」
「五本目はなぜ崩れた」
灯は正直に答えた。
「欲が出ました」
玲央が少しこちらを見た。
鳴宮も聞いている。
教官は無表情のまま言った。
「何の欲だ」
「四本目が少し良かったので、次はもっと小さく回ろうとしました」
「それで?」
「入口を見る前に、結果を考えました」
「そうだ」
教官の声は低い。
「今のお前は、まだ速く回ろうとする段階ではない。まず同じことをやれ。一本良かったからといって、次に別のことをするな」
「はい」
「ただし」
教官は記録用紙を見た。
「四本目は、お前が初めて水面の変化に合わせて判断した一本だった」
灯は息を止めた。
「昨日までは、怖がって遅れるか、決めたことをなぞるだけだった。今の四本目は、波の位置が変わったのを見て、入口を少し早めた」
「……はい」
「それができるなら、再現しろ」
「はい!」
「偶然で終わらせるな」
「はい!」
胸の奥が熱くなる。
初めて、自分の見えているものが訓練の中で形になった気がした。
ほんの一本。
それも、完璧ではない。
でも確かに今、自分は見て、決めて、動いた。
訓練後。
艇の片付けをしながら、灯は四本目の感覚を何度も思い返した。
入口。
波。
出口。
風が少し変わった。
波の位置が手前に寄った。
だから入口を少し早めた。
たったそれだけのこと。
でも、今までの灯にはできなかった。
玲央が隣に来る。
「四本目、良かったね」
灯は手を止めた。
「玲央が褒めた」
「事実」
「やっぱりそれなんだ」
「でも、五本目は欲張りすぎ」
「分かっている」
「分かっているならいい」
玲央は工具を片付けながら言った。
「風見って、見えている時と、見えすぎている時の差が大きい」
「どういうこと?」
「四本目は必要なものだけ見てた。五本目は結果まで見ようとしてた」
結果まで見ようとしていた。
確かにそうだった。
小さく回りたい。
良く見られたい。
昨日より上手いと思われたい。
それは、水面ではなく、結果を見ていたのかもしれない。
「玲央って、結構ちゃんと見てるよね」
「見るでしょ。同期だし」
「同期?」
「同じ期に入ったんだから、同期でしょ」
灯は少しだけ胸が温かくなった。
同じ期のひとり。
それだけで、今の灯には十分だった。
そこへ鳴宮が来た。
「四本目は、入口が良かった」
灯は驚いて振り返る。
「鳴宮くんも見てたの?」
「見える場所にいたから」
「そういうことじゃなくて」
鳴宮は気にせず続けた。
「でも、まだ出口を見るのが遅い。あと、波に反応してから少し固まる」
「うん……」
「次は入口を早めたあと、すぐ出口」
玲央がため息をつく。
「鳴宮、本当に一言多い」
「必要なことしか言っていない」
「それが多い時もある」
灯は思わず笑った。
「でも、ありがとう。分かりやすい」
鳴宮は少しだけ頷き、去っていった。
夜。
日夕点呼を終えたあと、灯は訓練日誌を開いた。
今日のページには、いつもより書くことがあった。
連続旋回。
課題:入口、波、出口。
一本目:入口は少し遅い。波で固まる。出口を見るのも遅い。
二本目:出口を少し早く見られた。
三本目:左手が固くなったが、気づけた。
四本目:風と波の位置が変わった。入口を少し早めた。大きく崩れなかった。
五本目:欲が出た。結果を考えて、入口が遅れた。
灯は鉛筆を止めた。
それから、ゆっくりと最後の一文を書く。
見えるものを全部使うのではなく、今の自分が動けるものを選ぶ。
書き終えてから、その文章をしばらく見つめた。
これは、今日一番大きな気づきだった。
自分の武器は、水面を見ること。
でも、見えるだけでは勝てない。
見えたものを選び、決めて、動かなければならない。
消灯前。
玲央が布団に入りながら言った。
「今日は泣いていないね」
「泣いていない」
「昨日もそう言ってた」
「今日は本当に泣いていない」
「じゃあ、少しは成長したんじゃない」
灯は布団の中で笑った。
「それ、褒めてる?」
「事実」
「もう分かった」
部屋が暗くなる。
灯は目を閉じた。
水面が浮かぶ。
けれど、今日浮かんだ水面は、転覆した瞬間のものだけではなかった。
四本目。
風が少し変わった。
波の位置が変わった。
入口を早めた。
艇が跳ねた。
でも、戻れた。
その感覚が、左手に残っている。
怖さはまだある。
でも、怖さの中に、ほんの少しだけ別のものが混じり始めていた。
知りたい。
なぜ波がそこにできるのか。
なぜ艇が跳ねるのか。
なぜ同じ水面でも、玲央と鳴宮と自分で動きが違うのか。
怖いだけだった水面が、少しだけ読めるものに変わり始めていた。
風見灯は、暗闇の中で左手を握った。
今日、初めて分かった。
自分には、見えているものがある。
でも、それを力にするには、まだ足りない。
見るだけでは駄目だ。
選ぶ。
決める。
動く。
そして、同じことをもう一度やる。
明日は、四本目を偶然で終わらせない。
明日は、入口を早く見る。
波で慌てない。
出口を見る。
三つだけ。
今は、それだけでいい。
やがて誰も通れない道を見つける少女は、
この日初めて、自分の目に映る水面を信じ始めた。




