第6話 見えているもの・前編
翌朝。
風見灯は、起床の合図と同時に目を開けた。
昨日よりは眠れた。
転覆した夜のように、何度も水の中へ引き戻されることはなかった。
それでも、目を閉じればまだ思い出す。
艇が跳ねる。
空が傾く。
水が迫る。
けれど、昨日までとは少し違っていた。
もう一度乗った。
同じ場所を通った。
艇の上で戻ってこられた。
その記憶も、身体に残っている。
「今日は顔、昨日よりまし」
同室の白瀬玲央が言った。
「それ、褒めてる?」
「事実」
灯は少しだけ笑った。
日朝点呼。
「白瀬玲央」
「はい!」
「風見灯」
「はい!」
声は遅れなかった。
教官の視線が、一瞬だけ灯に向く。
何も言われない。
だが、灯は少し背筋を伸ばした。
注意されないことは、合格ではない。
次を見られているということだ。
午前の課業は、映像確認だった。
教室の前方に、訓練水面の映像が映し出される。
昨日の養成員たちの航走。
旋回の入口。
ターンマーク。
出口での艇の姿勢。
教官が言った。
「今日は、走った感覚と実際の動きのズレを見る。自分がどう走ったつもりかではなく、艇がどう動いていたかを見ろ」
最初は玲央だった。
玲央の旋回は鋭い。
艇の向きも早い。
だが、出口で少し艇が暴れる。
教官が映像を止める。
「白瀬」
「はい」
「ここで何をしている」
玲央は画面を見た。
「出口で急ぎすぎています。艇が落ち着く前に次へ行こうとしました」
「分かっているなら修正しろ」
「はい」
玲央は言い訳をしなかった。
次に鳴宮迅。
無駄が少ない。
力を入れているように見えないのに、艇が自然に向きを変える。
それでも教官は映像を止めた。
「鳴宮」
「はい」
「きれいに見えるが、ここは雑だ」
「はい」
「速度で形を作っている。水面が悪くなれば崩れる」
「はい」
鳴宮も短く答えた。
そして、灯の映像になった。
灯は思わず背中に力を入れた。
昨日、転覆した場所をもう一度通った時の映像だった。
自分では必死だった。
けれど、映像で見ると違った。
艇は大きく外を回っている。
速度も落ちている。
ターンの入口で迷いが見える。
出口を見るのも遅い。
教官が映像を止めた。
「風見」
「はい」
「この時、何を考えていた」
灯は画面を見た。
ターンマークに入る直前。
「昨日転覆した場所を意識していました。外側の波を見て、早めに艇を向けようとしていました」
「実際にはどう見える」
「……向けるのが遅いです」
「それから」
「出口を見るのも遅いです」
「それから」
灯は画面を見つめた。
言いたくない。
でも、言わなければ意味がない。
「左手が固いです。スロットルを一定にしようとしすぎて、艇の動きに合わせられていません」
教官は映像を少し戻し、もう一度再生した。
「風見。お前は、水面を見ようとしている」
「はい」
「それ自体は悪くない」
灯は息を止めた。
「だが、今のお前は水面を見すぎて、自分の艇が遅れている」
胸に刺さった。
水面を見すぎている。
灯は、すぐには意味を飲み込めなかった。
「見る場所を増やすほど、判断は増える。判断が増えれば迷う。迷えば、艇は遅れる」
「はい」
「見えているものを全部拾おうとするな。今の自分が動ける情報を拾え」
灯は画面を見る。
ターンマーク。
波。
風。
艇の揺れ。
出口。
教官の声。
転覆の記憶。
全部を見ようとしていた。
全部を何とかしようとしていた。
だから遅れた。
「風見」
「はい!」
「今日意識するのは三つでいい。入口、波、出口。それ以外を見すぎるな」
「はい」
「入口で決める。波で慌てない。出口を見る。今日はそれだけやれ」
「はい!」
映像確認が終わったあと、灯はノートを開いた。
大きく書く。
入口。波。出口。
三つだけ。
それ以上は見すぎない。
隣の席に玲央が座った。
「また難しい顔をしている」
「考えてた」
「考えすぎると遅れるって言われたばかりでしょ」
「うん。だから、今日は三つだけにする」
「入口、波、出口?」
「聞いていたんだ」
「聞こえるでしょ」
玲央は自分のノートを開いた。
そこには、短くこう書かれていた。
出口で暴れさせない。
灯は思わず言った。
「玲央の課題、少ないね」
「少なくしているだけ」
「え?」
「たくさん考えたら、全部中途半端になるから。今日直すのは一つ」
灯は黙った。
自分は全部直そうとしていた。
返事も。
整備も。
左手も。
右手も。
旋回も。
恐怖心も。
遅れている分、全部取り返したかった。
でも、そのせいで全部が遅れていたのかもしれない。
玲央は淡々と言った。
「一日で速くなるなら、誰も苦労しないでしょ」
「……それも事実?」
「事実」
灯は小さく笑った。
昼食後。
午後は水面訓練。
今日の課題は連続旋回だった。
一回だけではない。
同じラインを、何度も回る。
同じ動きを、同じ精度で繰り返す。
教官がピットで言った。
「一回だけ良くても意味はない。レースは一マークだけで終わらない。二マーク、二周一マーク、二周二マーク。最後まで艇を運ぶ必要がある」
養成員たちが返事をする。
「はい!」
「今日は速さより再現性を見る。特に風見」
灯は背筋を伸ばした。
「はい!」
「お前はまず、同じ場所で同じ失敗をしないことだ」
「はい!」
「入口、波、出口。それだけだ」
「はい!」
灯はヘルメットを被った。
左手の手袋を締める。
右手を開いて、閉じる。
今日やることは三つだけ。
入口。
波。
出口。
それ以外は拾いすぎない。




