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第5話 もう一度、乗る・後編

訓練水面の空は曇っていた。

昨日より風は弱い。

けれど、水面にはまだ細かい揺れが残っている。

灯はピットでヘルメットを被った。

救命胴衣を確認する。

左手の手袋を締める。

右手を開いて、閉じる。

昨日、その左手は乱れた。

怖さに負けて、スロットル操作が崩れた。

でも今日は、乗る前に決めている。

早めに向ける。

左手を急に抜かない。

出口を見る。

教官が灯を呼んだ。

「風見」

「はい」

「昨日の転覆位置は覚えているか」

「はい」

「原因は」

灯は、日誌に書いた内容を頭の中でなぞった。

「ターンマーク外側の波は見えていました。でも、入る前にどう動くか決めきれていませんでした。艇が跳ねた時、左手のスロットル操作が乱れて、右手で無理に戻そうとして姿勢を崩しました」

「今日、同じ場所で何をする」

灯は水面を見た。

昨日と同じ場所。

ターンマークの外側。

「早めに艇を向けます。跳ねても、左手を急に緩めません。出口を見ます。外へ流れても、右手で無理に戻しすぎません」

教官は灯を見た。

「それを水面に出てから考えるな」

「はい」

「乗る前に決めたなら、乗ったらやれ」

「はい!」

灯の番が来た。

艇に乗る。

足元が揺れる。

昨日よりも、揺れを大きく感じた。

身体が覚えている。

転覆した記憶が、艇に乗った瞬間に蘇る。

心臓が速くなる。

呼吸が浅くなる。

左手が硬くなる。

灯は目を閉じた。

一秒だけ。

水面ではない。

まだピットだ。

ここで整える。

怖い。

でも、乗る。

灯は目を開けた。

「行きます」

モーターが唸る。

艇が水面へ出る。

最初の直線。

風が頬に当たる。

昨日より弱い。

けれど、水面の音が怖い。

艇底が水を叩くたびに、身体が反応しそうになる。

灯は左手を意識した。

急に抜かない。

握り込みすぎない。

一定。

右手はハンドル。

前を見る。

ターンマークが近づく。

昨日、落ちた場所が近づく。

喉が固くなる。

水が迫る記憶が蘇る。

逃げたい。

速度を落とせばいい。

大きく外へ逃げればいい。

無理に回らなければ、転覆はしないかもしれない。

でも、それでは昨日のままだ。

灯は水面を見た。

外側が少し荒れている。

内側は比較的静か。

早めに向ける。

決めていた通りに。

灯は右手で艇の向きを作った。

左手を急に抜かない。

艇が旋回に入る。

波に乗る。

少し跳ねた。

身体が反射的に固まる。

昨日なら、ここで左手が乱れていた。

灯は奥歯を噛んだ。

抜かない。

出口を見る。

艇は外へ膨らんだ。

指定ラインより広い。

上手くはない。

けれど、昨日のようには崩れない。

戻せる。

灯は無理にハンドルを押さえ込まず、艇の向きを整えた。

直線に入る。

水しぶきが後ろへ流れた。

ピット側から教官の声が飛ぶ。

「もう一本!」

灯は返事をした。

「はい!」

声は少し震えていた。

でも、艇は前に進んでいた。

二本目。

今度は、少しだけ呼吸ができた。

ターンマークを見る。

波を見る。

出口を見る。

昨日の転覆位置がまた近づく。

怖い。

それは変わらない。

けれど、さっき一度通れた。

通れたという事実が、ほんの少し左手を支えていた。

早めに向ける。

左手を乱さない。

右手で押さえ込みすぎない。

艇が回る。

少し流れる。

でも、戻る。

三本目。

灯は、初めて自分の中で違いを感じた。

怖さは消えていない。

水の冷たさも覚えている。

転覆の瞬間も覚えている。

でも、それを思い出しながらでも、艇は動かせる。

怖いことと、何もできないことは同じではない。

訓練が終わり、灯はピットへ戻った。

全身に力が入っていたせいで、肩が痛い。

左手の指もこわばっている。

それでも、昨日とは違った。

濡れていない。

水の中ではなく、艇の上にいた。

教官が記録用紙を持って近づく。

「風見」

「はい」

「遅い」

「はい」

「旋回も大きい。速度も落ちている。まだ競走の形ではない」

「はい」

いつも通り厳しい言葉。

だが、灯は逃げずに聞いた。

教官は続けた。

「ただし、今日は乗る前に決めたことをやろうとしていた」

灯は顔を上げた。

「はい」

「転覆した後にすぐ乗って、同じ場所を通った。それは覚えておけ」

灯の胸が詰まった。

褒められたわけではない。

でも、認められた気がした。

「はい!」

教官は言った。

「次は、通るだけで満足するな。通った先で速くならなければ、レーサーにはなれない」

「はい!」

その言葉は重かった。

でも、昨日のように刺さるだけではなかった。

次がある。

そう思えた。

片付けの時間。

灯は艇を拭きながら、昨日自分が転覆した場所を見た。

水面は変わらず揺れている。

何もなかったように。

昨日、自分を飲み込んだ水面。

今日、自分を通してくれた水面。

同じ場所なのに、違って見えた。

玲央が隣に来る。

「乗れたじゃん」

「うん」

「まだ遅いけど」

「分かってる」

「めちゃくちゃ大きく回ってたけど」

「分かってるって」

玲央は少しだけ笑った。

「でも、昨日よりはマシ」

灯は手を止めた。

「それ、褒めてる?」

「事実」

「またそれ」

二人の間に、少しだけ柔らかい空気が流れた。

夜。

日夕点呼を終え、消灯前。

灯は訓練日誌を開いた。

昨日のページには、転覆と書いてある。

その文字を見ると、まだ胸が苦しくなる。

でも、今日はその次のページがある。

灯は鉛筆を握った。

水面訓練:再乗艇。

それから、ゆっくり書いた。

昨日転覆した場所を通った。

怖さは消えていない。

左手は固かった。

旋回は大きい。

速度も落ちた。

でも、決めた通りに早めに向けようとした。

跳ねても、スロットルを急に抜かなかった。

出口を見る意識はまだ遅い。

最後に、少し考えて一文を足した。

怖いままでも、艇は前に進んだ。

それを書いた瞬間、胸の奥にあった冷たいものが少しだけ溶けた気がした。

消灯。

部屋が暗くなる。

灯は布団の中で左手を握った。

昨日は、水の冷たさが残っていた。

今日は、スロットルレバーの震えが残っている。

怖かった。

けれど、握れた。

艇は跳ねた。

けれど、戻せた。

遅かった。

けれど、通れた。

それは小さな前進だった。

誰かに誇れるほどのものではない。

記録に残るようなものでもない。

でも、灯にとっては違った。

昨日落ちた水面を、今日、自分の艇で通った。

その事実だけは、誰にも消せない。

風見灯は目を閉じた。

明日は、今日より少し小さく回る。

明日は、今日より少し早く出口を見る。

明日は、今日より少しだけ、左手を信じる。

怖さは消えない。

でも、消えなくていい。

怖さごと、水面に乗せればいい。

この日、風見灯は初めて知った。

勇気とは、怖くなくなることではない。

怖いまま、もう一度乗ることだ。

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