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第4話 もう一度、乗る・前編

朝六時。

起床の合図が鳴った瞬間、風見灯は目を開けた。

眠っていた、とは言いづらかった。

目は閉じていた。

布団の中にもいた。

けれど、意識だけはずっと水面の中に残っていた。

空が傾く。

艇が跳ねる。

音が消える。

冷たい水が全身を包む。

何度も同じ場面を思い出した。

左手が乱れた感覚。

右手で無理に戻そうとした感覚。

身体が遅れ、艇が傾いた瞬間の感覚。

全部、身体に残っていた。

「風見」

隣の白瀬玲央が声をかける。

灯は布団を畳みながら返した。

「なに?」

「顔、ひどい」

「……寝不足」

「だろうね」

玲央はそれ以上、何も言わなかった。

慰めもしない。

励ましもしない。

いつも通り、制服を整え、髪をまとめ、部屋を出る準備をしている。

そのいつも通りが、灯にはありがたかった。

もし優しい言葉をかけられていたら、その場で泣いていたかもしれない。

日朝点呼。

「白瀬玲央」

「はい!」

「風見灯」

「はい!」

声は出た。

少し掠れていたが、遅れなかった。

教官の視線が、ほんの一瞬だけ灯に止まる。

昨日転覆した養成員。

その事実は、もう全員が知っている。

けれど、誰もそれを口にしない。

ここでは、失敗そのものより、その後の動きが見られる。

午前の課業は整備だった。

モーターの分解、確認、組み付けの基礎。

教官は、最初は昨日の転覆に触れなかった。

いつも通り説明し、いつも通り養成員たちに作業をさせる。

灯は工具を握った。

手元を見る。

部品の順番を見る。

置き場所を見る。

昨日、訓練日誌に書いた言葉を思い出す。

見るだけで、決めていなかった。

それは水面だけではない。

整備でも同じだった。

次に何を外すのか。

外したものをどこに置くのか。

確認してから動くのでは遅い。

見ながら、次を決めておく。

灯は慎重に手を動かした。

速くはない。

でも、昨日より迷いは少なかった。

「風見」

教官が後ろに立った。

「はい」

「昨日より手順は落ち着いている」

「はい」

「ただし、落ち着いているのと遅いのは違う」

「はい」

「次を見ろ」

「はい」

教官はそこで一度、言葉を切った。

そして、灯の左手を見た。

「午後、乗るか」

灯の手が止まった。

整備場の空気が、わずかに変わる。

近くにいた玲央も、鳴宮迅も、こちらを見た。

午後。

水面に出る。

昨日転覆したばかりの水面に。

左手の中に、あの振動が蘇る。

怖い。

喉が乾く。

艇が傾く感覚。

水に落ちる冷たさ。

上も下も分からなくなる恐怖。

全部、身体が覚えている。

けれど、灯は昨日の夜、自分で言った。

乗らない方がもっと怖い。

今日乗らなければ、昨日の水面がずっと怖いままになる。

灯は顔を上げた。

「乗ります」

声は震えなかった。

少なくとも、自分ではそう思った。

教官は表情を変えない。

「なら、午前中に昨日の転覆原因をもう一度整理しておけ」

「はい」

「水面に出てから考えるな。乗る前に決めろ」

「はい!」

教官は去っていった。

玲央が小さく言う。

「言ったね」

「うん」

「無理してない?」

灯は少し驚いた。

玲央がそんな聞き方をするとは思わなかった。

「無理はしてる」

灯は正直に答えた。

「でも、やめるほどじゃない」

玲央は短く頷いた。

「ならいい」

昼食の時間。

灯は食堂で盆を持ったまま、少し手が止まった。

食欲がなかった。

それでも、残すわけにはいかない。

身体を作れない者は、水面で耐えられない。

灯は白米を口へ運んだ。

味は、あまり分からなかった。

向かいに座った鳴宮迅が、ふいに言った。

「昨日の転覆、見てた」

灯は箸を止めた。

玲央も少しだけ鳴宮を見る。

鳴宮はいつものように淡々としていた。

「外の波、見えてたんだろ」

「……うん」

「なら、次は内に逃げるか、先に向けるか、決めてから入った方がいい」

灯は鳴宮を見る。

「鳴宮くんは、怖くないの?」

鳴宮は少し考えた。

「怖いよ」

意外だった。

「怖いの?」

「怖くないわけないだろ。水の上でモーターつけて走ってるんだから」

鳴宮は当たり前のように言った。

「でも、怖いから決める。決めてない方が怖い」

灯は黙った。

怖いから決める。

怖くない人間が速いのではない。

怖いからこそ、迷わない準備をする。

鳴宮は食事を続けながら言った。

「風見は、見るのは遅くない」

「え?」

「動くのが遅い」

「……知ってる」

「なら、見えてから全部考えるな。見えたらどうするかを先に持っておけばいい」

灯は箸を持つ手を止めた。

見えたら、どうするか。

波が高ければ、早めに向ける。

跳ねても、左手を急に抜かない。

外へ流れても、右手で無理に戻しすぎない。

出口を見る。

全部、水面に出てから考えるのでは遅い。

「ありがとう」

灯が言うと、鳴宮は少しだけ首を傾げた。

「別に。転覆されると訓練止まるから」

玲央が横から言った。

「言い方」

鳴宮は気にした様子もなく、味噌汁を飲んだ。

灯は少しだけ笑った。

怖さは消えていない。

けれど、決めることはできる。

午後。

水面訓練が近づいていた。

灯はノートの端に、短く書いた。

早めに向ける。

左手を急に抜かない。

出口を見る。

その三つだけを見つめて、灯はヘルメットを手に取った。

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