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第3話 水の冷たさ・後編

救助され、灯はピットへ戻った。

陸に上がった瞬間、足に力が入らなかった。

全身から水が滴る。

ヘルメットの中まで濡れている。

手袋も重い。

周囲の養成員たちは、何も言わなかった。

玲央も、鳴宮迅も、こちらを見ていた。

その沈黙が一番きつかった。

教官が灯の前に立つ。

「怪我は」

「ありません」

「頭は打っていないか」

「大丈夫です」

「なぜ転覆した」

灯は唇を噛んだ。

分からない、と言いたかった。

でも、本当は分かっていた。

「判断が遅れました」

「それから」

「艇が跳ねて、怖くなって……左手のスロットル操作が乱れました」

「それから」

灯は水面を見た。

さっき、自分が転覆した場所。

「荒れている場所は見えていました。でも、どう動くか決めるのが遅れました」

教官は静かに言った。

「見えていたのに転覆した。なぜだ」

灯の喉が詰まる。

そして、小さく答えた。

「見ていただけだったからです」

その言葉を口にした瞬間、胸が痛くなった。

見えていた。

でも、動けなかった。

教官は頷いた。

「その通りだ」

灯は拳を握る。

「水面を見ることは武器になる。だが、見るだけの者は勝てない」

「はい」

「見て、決めて、動け。今日の転覆を、ただ怖かったで終わらせるな」

「はい!」

その後、灯は水面訓練から外された。

着替えを済ませ、整備場の横で他の養成員の訓練を見る。

玲央が走る。

鳴宮が走る。

他の同期たちも、何度もターンマークを回る。

さっき自分が転覆した水面を、当たり前のように走っている。

灯は濡れた髪をタオルで押さえながら、ずっと水面を見ていた。

怖い。

水の冷たさが、まだ身体に残っている。

でも、目を逸らせなかった。

訓練後。

玲央が灯の横に来た。

「怪我は?」

「ない」

「ならよかった」

それだけ言って、玲央は工具を片付け始めた。

灯は少し迷ってから聞いた。

「情けなかった?」

玲央は手を止めなかった。

「転覆したことが?」

「うん」

「別に。訓練だし、転覆はするでしょ」

灯は驚いた。

「別にって……」

「情けないのは、同じ理由で何回も転覆することじゃない?」

灯は黙った。

玲央は工具箱を閉じる。

「今日の理由、分かってるんでしょ」

「……見えてたのに、動けなかった」

「なら、次はそこ」

簡単に言う。

でも、正しい。

夜。

日夕点呼を終え、消灯前。

灯は訓練日誌を開いた。

鉛筆を握る手が止まる。

書きたくなかった。

自分の失敗を、文字にして残したくなかった。

でも、教官は言った。

今日の転覆を、ただ怖かったで終わらせるな。

灯は深く息を吸い、書き始めた。

水面訓練:転覆。

その一行だけで、胸が苦しくなる。

それでも続けた。

原因一。ターンマーク外側の波は見えていた。

原因二。艇が跳ねると思ったのに、早めに向けられなかった。

原因三。怖くなって左手のスロットル操作が乱れた。

原因四。右手で無理に戻そうとして、艇の姿勢を崩した。

原因五。見るだけで、決めていなかった。

最後の一文を書いた時、涙が落ちた。

泣くつもりはなかった。

でも、水の冷たさがまだ身体に残っていた。

隣の布団から、玲央の声がした。

「明日、乗るの怖い?」

灯はすぐに答えられなかった。

怖い。

あの水の冷たさを思い出すだけで、左手が固まる。

でも。

「怖い」

灯は小さく言った。

「でも、乗らない方がもっと怖い」

玲央がこちらを見る。

「なんで?」

「今日のまま終わったら、ずっとあの水面が怖いままになる」

言ってから、灯は自分で驚いた。

そうか。

自分はもう、水面から逃げたくないのだ。

玲央は少し黙ってから言った。

「じゃあ、明日乗ればいいじゃん」

「うん」

「転覆した場所、覚えてる?」

「覚えてる」

「なら、次は見るだけじゃなくて、入る前に決めなよ」

灯は頷いた。

「うん」

消灯。

部屋が暗くなる。

灯は布団の中で左手を握った。

今日、その手は乱れた。

怖さに負けて、スロットルを乱した。

でも、この手でまた握るしかない。

スロットルレバーを。

自分の怖さを。

水面へ向かう理由を。

目を閉じると、転覆の瞬間が浮かんだ。

空が傾く。

水が迫る。

音が消える。

灯は息を吸った。

逃げない。

明日、もう一度乗る。

この日、風見灯は初めて転覆した。

そして初めて、知った。

水面は、優しくない。

だからこそ、嘘もつかない。

自分が迷えば、迷った分だけ艇は暴れる。

自分が決めれば、その分だけ前へ進む。

その事実だけが、冷たいほど正確に、灯の身体に刻まれた。

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