第2話 水の冷たさ・前編
朝六時。
起床の合図が鳴るより少し早く、風見灯は目を開けた。
身体は重い。
昨日の体力訓練の痛みが、腕にも足にも残っている。
それでも、布団の中で迷う時間はなかった。
起きる。
畳む。
整える。
出る。
少しずつ、養成所の朝が身体に入り始めていた。
「今日は顔、マシ」
同室の白瀬玲央が、制服の襟を整えながら言った。
「それ、褒めてる?」
「事実」
灯は小さく笑った。
日朝点呼。
「白瀬玲央」
「はい!」
「風見灯」
「はい!」
今日は遅れなかった。
それだけで、胸の奥が少し軽くなる。
午前の課業は学科だった。
教官が黒板に書いた文字を見て、灯の手が止まる。
転覆時の対応。
「水面では、何が起きても慌てるな」
教官の声が教室に響く。
「転覆そのものを必要以上に恐れるな。恐れるべきなのは、転覆した後に何をすべきか分からなくなることだ」
灯はノートを取った。
自分の安全確認。
負傷の有無。
艇から離れすぎない。
救助を待つ。
周囲の艇に注意する。
文字では分かる。
けれど、水の中に落ちた時、本当にそれができるのか。
想像しただけで、左手が少し冷たくなった。
午後。
水面訓練。
空は曇っていた。
風は昨日より少し強い。
訓練水面には、細かい波が立っている。
灯はターンマークの外側を見た。
波が集まっている。
あそこに艇を乗せたら、跳ねる。
「風見」
教官に呼ばれる。
「はい!」
「何が見える」
灯は水面から目を離さずに答えた。
「ターンマークの外側が、昨日より荒れています。外へ膨らむと、艇が跳ねると思います」
「それで?」
「早めに艇を向けたいです。怖がって遅れると、流れると思います」
教官は短く言った。
「分かっているなら、やれ」
「はい!」
艇に乗る。
左手でスロットルレバーを握る。
右手でハンドルを持つ。
モーターが鳴る。
艇が水面へ出た。
最初の直線。
水面が近い。
昨日より艇が跳ねる。
灯は左手に力を入れすぎないよう意識した。
ターンマークが近づく。
入口。
波。
出口。
昨日より早く向ける。
そう決めていた。
だが、艇が波に乗った瞬間、先端がふわりと浮いた。
「あっ」
反射的に左手が緩む。
速度が落ちる。
艇の姿勢が崩れる。
右手で戻そうとする。
遅い。
艇は外へ流れた。
「風見、戻せ!」
教官の声が飛ぶ。
灯は何とか直線へ戻した。
心臓が鳴っている。
失敗した。
でも、まだ戻れた。
次は、緩めすぎない。
二本目。
ターンマークが近づく。
水面が見える。
外側の波が見える。
見えている。
でも、また跳ねたら。
また左手が乱れたら。
考えた瞬間、判断が遅れた。
艇の向きが遅れる。
外へ膨らむ。
慌ててハンドルを押さえる。
左手に余計な力が入る。
艇が跳ねた。
視界が傾く。
空が横になる。
水面が迫る。
次の瞬間、冷たい水が全身を包んだ。
転覆した。
音が消えた。
上がどこか分からない。
水の中で、身体が勝手にもがこうとする。
怖い。
怖い。
怖い。
その時、午前の学科で聞いた教官の声が頭に浮かんだ。
まず、自分の安全確認。
灯は必死に動きを止めた。
救命胴衣が身体を浮かせる。
水面に顔が出た。
「っ、は……!」
空気を吸う。
咳き込む。
目の前に、ひっくり返った艇があった。
「風見! 動けるか!」
教官の声。
灯は震える右手を上げた。
「動けます!」
声は震えていた。
けれど、出た。
水は冷たかった。
想像していたより、ずっと。




