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第1話 礼と節の朝

朝六時。

起床の合図が鳴った。

風見灯は、音が耳に届いた瞬間、布団の中で目を開けた。

眠い、とは思わなかった。

いや、正確には眠かった。

身体は重い。

昨日の入所式の緊張がまだ残っている。

慣れない寝具、慣れない部屋、慣れない空気。

夜中に何度も目が覚めた。

それでも、ここで「眠い」は理由にならない。

福岡県柳川市。

ボートレーサー養成所。

かつて多くの者が「ヤマト」と呼んだ、ボートレーサーを目指す者たちの場所。

ここでは、一日が決められた時刻に始まり、決められた時刻に終わる。

朝六時、起床。

夜十時、消灯。

その間のすべてが、訓練だった。

水面に出る時間だけが訓練ではない。

布団を畳むことも、返事をすることも、靴を揃えることも、廊下を歩く姿勢も、食事を残さないことも、全部が見られている。

灯は布団を畳もうとして、手を止めた。

角が揃わない。

昨日、説明された通りに畳んでいるつもりなのに、どうしても端が少しずれる。

焦る。

周囲では、同室の女子養成員たちがすでに動いていた。

白瀬玲央は早かった。

起床の合図から、まだわずかな時間しか経っていない。

それなのに、もう布団を畳み終え、身支度に入っている。

無駄がない。

灯とはまるで違う。

「風見」

玲央が、鏡を見ながら言った。

「布団、角」

灯は慌てて布団に目を戻す。

「ありがとう」

「ありがとうじゃなくて、直して。点呼に遅れる」

「うん」

灯は布団の角を揃え直した。

たかが布団。

そう思っていた。

入所する前なら、きっとそう思った。

でも、ここでは違う。

たかが布団を整えられない者が、艇を整えられるのか。

たかが時間を守れない者が、コンマ単位のスタートを守れるのか。

たかが返事が遅れる者が、時速の乗った水面で一瞬の判断をできるのか。

そういう場所だった。

「急ぐよ」

玲央が部屋を出る。

灯も慌てて後を追った。

廊下には、すでに養成員たちの足音が並んでいた。

男子も女子も関係ない。

全員が同じように整列し、同じように動く。

話し声は少ない。

昨日までなら、同年代が集まればもっとざわついていたはずだった。

だが、ここでは空気が違う。

夢を追っている場所なのに、浮ついた明るさはなかった。

ボートレーサーになりたい。

その思いだけでは足りない場所だった。

日朝点呼。

教官の前に、養成員たちが整列する。

灯は背筋を伸ばした。

伸ばしたつもりだった。

けれど、前列の養成員たちと比べると、自分だけ肩に力が入りすぎている気がした。

「白瀬玲央」

「はい!」

玲央の返事は鋭かった。

朝の空気を切るような声。

続いて、数名の名前が呼ばれる。

灯の番が近づく。

心臓が速くなる。

ただ返事をするだけ。

それなのに、緊張する。

「風見灯」

一拍、遅れた。

「はい!」

声は出た。

だが、遅れた。

教官の視線が灯に止まる。

「風見」

「はい!」

「返事は考えてからするものではない」

「はい!」

「名前を呼ばれたら、すぐに出せ。遅れた返事は、返事ではない」

「はい!」

その言葉に、灯の喉が熱くなった。

たった一拍。

けれど、その一拍を見逃してはもらえない。

ここはそういう場所だ。

点呼が終わると、掃除に入った。

廊下、階段、洗面所。

決められた場所を、決められた手順で、短い時間の中で整える。

灯は雑巾を持って廊下を拭いた。

手元ばかりを見ていると、隣の養成員との間隔が詰まる。

周囲を見ようとすると、拭く速度が落ちる。

「風見、手が止まってる」

玲央が横から言った。

「止まってない」

「止まりかけてる」

「……ごめん」

「謝るより動く」

正しい。

腹が立つほど正しい。

灯は雑巾を持つ手に力を入れた。

掃除が終わると、朝食。

食堂へ移動する。

食事も自由ではない。

決められた時間に食べ、決められた時間に終える。

灯は箸を持ちながら、周囲を見た。

よく食べる者。

黙々と食べる者。

緊張で箸の進みが遅い者。

自分も、その一人だった。

喉を通りにくい。

だが、残すわけにはいかない。

レーサーは身体が資本だ。

体重管理も、体調管理も、すべて自分でできなければならない。

昨日の説明で言われた言葉が頭に残っていた。

プロに求められるのは、速く走る力だけではない。自分を管理する力だ。

灯は味噌汁を飲み、白米を口へ運んだ。

味は、あまり分からなかった。

朝食後、国旗掲揚。

養成員たちは整列し、静かに国旗を見上げる。

空はまだ薄く白い。

柳川の朝の空気は、水の匂いを含んでいた。

遠くに訓練水面が見える。

そこに、ターンマークが浮かんでいる。

灯はその赤と白の浮標を見た瞬間、胸が少し縮んだ。

水面。

ボート。

モーター。

自分は本当に、あそこを走れるのだろうか。

ボートレーサーになりたいと思った。

レースを見て、胸が熱くなった。

選手たちが一マークへ飛び込んでいく姿に、憧れた。

だが、憧れと実際に乗ることは違う。

昨日、初めて近くで見た訓練用のボートは、思っていたより小さかった。

水面は、思っていたより広かった。

モーターの音は、思っていたより腹に響いた。

怖い。

灯はそう思った。

その時点で、自分はもう他の養成員に負けている気がした。

課業開始。

午前は学科だった。

教室に入り、席に着く。

机の上に教材を出す。

教官が前に立った。

「ここでは、ボートに乗る技術だけを教えるわけではない」

最初の言葉が、それだった。

「ボートレースは公正な競走だ。公正と安全を守れない者は、水面に立つ資格がない」

灯はノートを開いた。

公正。

安全。

礼と節。

昨日から何度も聞いた言葉。

教官は続ける。

「君たちはレーサーを目指してここにいる。だが、その前に、業界人であり、社会人であり、人として信頼される者でなければならない」

灯は鉛筆を走らせた。

文字が少し震える。

礼と節。

その言葉は、灯には少し重かった。

自分は、礼儀を知らないつもりはなかった。

挨拶もする。

感謝も言う。

遅刻も少ない方だった。

だが、ここで求められる礼と節は、そういう表面的なものではなかった。

一つの返事。

一つの動作。

一つの判断。

それらすべてに、自分の甘さが出る。

午前の学科では、ボートレースのしくみ、競走の公正、安全確認、基本的な規律について説明があった。

まだ専門的な整備や操縦に深く入る前の段階。

だが、灯にはすでに頭がいっぱいだった。

覚えることが多い。

いや、多いだけならまだいい。

一つひとつが重い。

勝ちたい、だけでは足りない。

憧れだけでは足りない。

ここにいる全員が、同じ夢を持っている。

その中で残るには、夢を声に出すだけでは駄目なのだ。

昼食を挟み、午後の課業は整備場だった。

整備場に入った瞬間、灯は足を止めそうになった。

匂いが違う。

油。

金属。

湿った空気。

工具。

モーター。

そこに並ぶものは、すべてが現実だった。

テレビで見るレースの華やかさとは違う。

水面に出る前に、レーサーはこの場所でモーターと向き合う。

教官が言った。

「基礎課程では、まず基本を覚える。操縦では慣熟航走と基本旋回。整備では、モーターの装着、計測、分解組立の基礎を行う」

灯は息を飲んだ。

慣熟航走。

基本旋回。

装着。

計測。

モーター分解組立。

言葉としては知っていた。

だが、目の前にあるモーターを見た瞬間、その言葉が急に重くなった。

「モーターは力任せに扱うものではない」

教官の声が響く。

「だが、怖がって触るものでもない。レースで命を預けるものだ。雑に扱うな」

命を預ける。

その言葉で、灯の手が少し冷えた。

班ごとに分かれる。

灯の隣には玲央がいた。

もう一人、男子養成員の鳴宮迅が同じ列に立っている。

鳴宮は細身だった。

無口で、表情が読みにくい。

だが、工具を持つ手に迷いがなかった。

教官が手順を説明する。

部品の名称。

置き方。

確認箇所。

工具の扱い。

灯は必死に見た。

見ているつもりだった。

だが、いざ自分の手を動かすと、頭の中の手順が崩れる。

「風見、そこ逆」

玲央が言った。

「え?」

「向き。今のままだと合わない」

「あ、ごめん」

「ごめんじゃなくて、確認」

灯は唇を結んだ。

整備で「ごめん」は意味がない。

間違える前に確認する。

それができなかった。

教官が近づく。

「風見」

「はい!」

「慌てるな」

「はい!」

「遅いことと、雑なことは違う。遅いなら正確にやれ。正確にできるようになってから速くしろ」

「はい!」

その言葉に、少しだけ救われた。

遅くてもいい。

いや、よくはない。

だが、遅いなら正確に。

今の自分が最初にやるべきことは、それだ。

灯はもう一度、部品の向きを見た。

置いた順番を見る。

工具の角度を見る。

隣の手元を見すぎない。

自分の作業を見る。

それでも遅い。

玲央はすでに次へ進んでいる。

鳴宮も、無駄なく作業を進めていた。

灯だけが取り残されているように感じる。

焦りが出る。

焦ると、また手順が抜ける。

「風見」

今度は鳴宮が言った。

「はい?」

「全部見ようとすると遅くなる」

灯は驚いて鳴宮を見る。

鳴宮は手元を見たまま続けた。

「今見るのはそこだけでいい」

そう言って、灯の作業箇所を指した。

余計な説明はなかった。

だが、灯には分かった。

自分は周囲を見すぎていた。

玲央の速さ。

鳴宮の正確さ。

教官の視線。

遅れている自分。

全部を見て、全部に焦っていた。

灯は深く息を吸った。

今見るのは、ここだけ。

それだけで、手元が少し落ち着いた。

整備課業が終わる頃には、灯の肩は重くなっていた。

まだ水面に出てもいないのに、疲れている。

けれど、本当の緊張はここからだった。

夕方。

訓練水面へ向かう。

初期の訓練は、競走ではない。

まずはボートに慣れる。

モーターの感触を知る。

水面での姿勢を覚える。

基本の航走と旋回に入る。

灯はヘルメットを被り、救命胴衣を確認した。

手袋をはめる。

左手でスロットルレバーを握る。

右手でハンドルを持つ。

頭では分かっていた。

だが、実際に艇に乗ると、手の位置すら頼りなく感じた。

艇が揺れる。

足元が不安定になる。

陸ではない。

地面ではない。

水の上にいる。

その事実だけで、灯の身体は固くなった。

「風見」

教官が声をかける。

「はい!」

「肩に力を入れるな」

「はい!」

「前を見る」

「はい!」

「返事だけで終わるな。身体でやれ」

「はい!」

モーターが唸る。

左手に振動が伝わる。

スロットルレバーが、生き物のように震えている。

灯はゆっくり艇を動かした。

水面へ出る。

最初の直線。

風が顔に当たる。

水の音が近い。

思っていたより、速い。

いや、実際にはまだ速くない。

教官の指示通り、抑えた速度で走っている。

それでも灯には速かった。

水面の小さな揺れが、艇の底を叩く。

腰に振動が来る。

右手に力が入る。

「速度を一定にしろ!」

教官の声が飛ぶ。

灯は左手に意識を向けた。

スロットルを握る。

握りすぎない。

でも緩めすぎない。

難しい。

ただ前に進むだけなのに、難しい。

ターンマークが近づく。

今日は基本旋回。

競走のように攻める必要はない。

決められたラインを、決められた速度で回る。

それだけ。

それだけなのに、灯の喉が乾いた。

ターンマークが近い。

水面が近い。

もし跳ねたら。

もし外へ流れたら。

もし転覆したら。

考えた瞬間、身体が固まった。

艇の向きが遅れる。

「あっ」

声が漏れた。

右手で慌てて戻そうとする。

遅い。

艇は大きく外へ膨らんだ。

指定された旋回ラインを外れる。

「風見! 戻せ!」

「はい!」

戻そうとした。

でも、戻せていない。

左手が乱れる。

右手に力が入りすぎる。

視線が下がる。

水面を見るつもりが、水面に飲まれている。

なんとか直線へ戻した時には、息が上がっていた。

次の一本も同じだった。

ターンマークを見る。

近づく。

怖くなる。

身体が固まる。

遅れる。

外へ流れる。

三本目。

灯は、ようやく少しだけ周囲を見る余裕を持とうとした。

ターンマークの外側。

水面の一部が、細かくざわついている。

風が当たっている。

そこに艇を乗せたら、跳ねるかもしれない。

そう思った。

だから、早めに向けようとした。

だが、思った瞬間に迷った。

本当に早めでいいのか。

まだ基本旋回なのに、余計なことをしていないか。

怖がって逃げているだけではないか。

迷った分だけ、動きが遅れた。

また外へ流れた。

訓練が終わり、ピットへ戻る。

灯の足は震えていた。

水に落ちたわけではない。

転覆したわけでもない。

ただ、怖かった。

自分が思った通りに動けないことが。

見えているのに、手が遅れることが。

艇が自分の判断より先に流れていくことが。

教官が記録用紙を見ながら言った。

「風見」

「はい」

「操縦評価、現時点では下位だ」

灯は唇を噛んだ。

「はい」

「視線が落ちる。操作が遅い。恐怖心が強い」

「はい」

「水面を怖がるな、とは言わない」

灯は顔を上げた。

教官は続けた。

「怖さを持つこと自体は悪くない。怖さを知らない者は事故を起こす」

「はい」

「だが、怖さで動きが止まるなら、水面では通用しない」

灯の胸に刺さった。

「はい」

「お前は最後の一本で、水面を見ていた」

灯は息を止める。

「ターンマークの外側を見たな」

「……はい」

「何が見えた」

灯は水面を見た。

さっきの場所。

風が当たり、細かく揺れていた場所。

「外側の波が、少し高く見えました。そこに乗ると、艇が跳ねると思いました」

教官は表情を変えない。

「それで?」

灯は言葉に詰まった。

「早めに向けようとしました。でも、迷いました」

「だから遅れた」

「はい」

教官は記録用紙を閉じた。

「見えているものはある」

灯の胸が、小さく震えた。

「ただし、見ているだけでは意味がない」

「はい」

「見て、決めて、動け」

その言葉は、灯の中に深く沈んだ。

見て、決めて、動く。

今の自分には、見えたとしても決められない。

決めても動けない。

だから遅れる。

だから流れる。

夕方。

国旗降下。

夕食。

自習時間。

入浴。

自由時間と呼ばれる短い時間。

けれど、灯には自由という感覚はなかった。

頭の中には、ずっと水面があった。

ターンマーク。

外へ流れる艇。

左手の震え。

教官の声。

夜。

掃除。

日夕点呼。

そして夜十時。

消灯。

部屋が暗くなる。

灯は布団の中で、左手を見た。

小さな手。

今日、スロットルレバーをうまく扱えなかった手。

怖くなって、固まった手。

でも、その手でいつか水面を切らなければならない。

隣の布団から、玲央の声がした。

「風見」

「……なに?」

「今日の旋回、ひどかったね」

灯は苦笑する余裕もなかった。

「うん。分かってる」

「でも」

玲央の声が少し止まった。

「最後の一本だけ、見る場所は悪くなかった」

灯は目を開けた。

「見る場所?」

「ターンマークの外。波が変わってるところ見てたでしょ」

「……見てた」

「みんなが見てたかは知らない。でも、あんたは見てた」

灯は黙った。

見えていた。

でも、失敗した。

「意味ないよ。結局、流れたし」

灯が言うと、玲央は即座に返した。

「今はね」

短い言葉だった。

それ以上は何も言わなかった。

でも、その言葉は灯の胸に残った。

今は。

今は意味がない。

でも、いつか意味になるかもしれない。

消灯後の部屋は静かだった。

窓の外から、かすかに水の匂いが入ってくる。

灯は目を閉じた。

朝六時に起きる。

点呼に出る。

掃除をする。

学科を受ける。

整備をする。

水面に出る。

失敗する。

怒られる。

また書く。

また起きる。

明日も同じ一日が来る。

ここでは、弱音を吐いても時間は止まらない。

灯は布団の中で、小さく拳を握った。

自分には、速いスタートもない。

強い身体もない。

器用な整備の手もない。

怖さに負けない心も、まだない。

でも。

水面の変化は、見えた。

外側の波。

風が当たる場所。

艇が跳ねそうな場所。

それだけは、確かだった。

なら、そこから始めるしかない。

風見灯は、暗闇の中で静かに息を吐いた。

明日は、今日より一秒早く返事をする。

明日は、今日より一つ正確に工具を扱う。

明日は、今日より少しだけ、怖がったまま前を見る。

まだレーサーではない。

まだ勝負師でもない。

まだ、ただの養成員だ。

けれどこの日、灯は初めて知った。

自分には、何もないわけではない。

水面を見る目。

それがいつか、誰も通れない場所に道を見つける力になることを、

この時の灯はまだ知らなかった。

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