まだ誰も、その名を知らない
はじめまして。
本作を開いていただき、ありがとうございます。
『水面に灯る 〜落ちこぼれ女子レーサー、SGの頂点へ〜』は、ボートレースを題材にした女子レーサーの成長物語です。
主人公の風見灯は、最初から強い天才ではありません。
養成所では落ちこぼれ。
スタートは遅く、旋回は流れ、整備も不器用。
それでも、誰よりも水面を見る少女です。
風、波、艇の動き、ほんの一瞬だけ開く道。
そういったものを見つめながら、負けて、迷って、傷ついて、それでも少しずつ前へ進んでいく物語を書いていきます。
ボートレースを知っている方には、レースの駆け引きや選手の成長を。
ボートレースを知らない方には、ひとりの少女がプロの世界で強くなっていく物語として楽しんでいただけたら嬉しいです。
作中には、スタート、フライング、進入、チルト、まくり差しなどの専門用語も出てきますが、主人公の成長に合わせて少しずつ分かるように書いていく予定です。
なお、本作はフィクションです。
登場人物、団体、レース名、レース内容などは架空のものです。
実在の人物・団体・レースとは関係ありません。
それでは、風見灯が水面に挑む物語を、見届けていただければ幸いです。
その日、風は弱かった。
水面は穏やかで、波高も低い。
晴れた空の下、スタンドには満員の観客がいた。
全国のボートレースファンが、その一走を見ていた。
SGグランドクラウン優勝戦。
年間を通して最も強かった者たちだけが辿り着く、艇界最高峰の決戦。
勝てば、名は記録に残る。
だが、この舞台で勝ち方まで刻んだ者だけが、伝説になる。
たった六艇。
けれど、その六艇に乗る者たちは、今のボートレース界で頂点に最も近いレーサーたちだった。
一号艇には、絶対王者。
何度もSGを制し、優勝戦の一号艇で幾度となく逃げ切ってきた男。
黒羽宗一郎。
艇王と呼ばれる、現役最強レーサーだった。
二号艇には、賞金王経験者。
差しの精度は現役随一と呼ばれている。
三号艇には、若き天才。
スタート力と攻撃力で、同世代の先頭を走るレーサー。
五号艇には、女子戦線をともに駆け上がってきた最大のライバル。
六号艇には、次代を背負う怪物ルーキー。
そして四号艇。
カド位置に座るのは、ひとりの女子レーサーだった。
名前は、風見灯。
かつて、養成所で最下位に近い評価を受けた少女。
スタートで遅れ、旋回で流れ、モーター整備でも手が止まった養成員。
「怖いなら向いていない」
そう言われたことがある。
「女子戦なら強い」
そう言われた時期もある。
「SGでは通用しない」
そう言われ続けてきた。
けれど彼女は、ここにいた。
SGグランドクラウン優勝戦。
四号艇。
勝つには、攻めるしかない枠だった。
実況の声が、場内に響く。
「さあ、歴史が動くのか。それとも王者が守るのか。SGグランドクラウン、優勝戦です」
灯はヘルメットの奥で、静かに息を吐いた。
心臓は鳴っている。
怖くないわけではない。
SGの優勝戦が怖くない人間など、きっといない。
一瞬の判断ミスで終わる。
一艇身のズレで届かない。
コンマ一秒で、人生の景色が変わる。
でも灯は、知っていた。
怖さは、消すものではない。
怖いまま、見る。
怖いまま、判断する。
怖いまま、踏み込む。
それを最初に教えてくれたのは、養成所の水面だった。
ピット離れ。
六艇が動く。
進入は枠なり。
一、二、三、四、五、六。
灯は四コースカド。
大時計が回る。
一号艇の黒羽は、まったく乱れない。
二号艇は差しに構えている。
三号艇は攻める気配。
五号艇は灯を見ている。
六号艇は外から展開を待つ。
灯は水面を見た。
風は弱い。
波も低い。
だが、完全な無風ではない。
一マークの手前。
ほんのわずかに、水面が揺れている。
外から握れば、艇は少し跳ねる。
内は残る。
二号艇は差し場を探す。
三号艇は握る。
その瞬間、道ができる。
誰もが見落とすほど細い道。
でも灯には、見えていた。
ずっと、そうだった。
彼女は誰より速かったわけではない。
誰より強かったわけでもない。
誰より才能に恵まれていたわけでもない。
ただ、水面を見続けた。
負けた日も。
泣いた日も。
逃げたくなった日も。
誰にも期待されなかった日も。
大時計の針が迫る。
スタート展示ではない。
訓練でもない。
これは、SGグランドクラウン優勝戦。
灯は左手の中にあるスロットルレバーを、ほんのわずかに握り込んだ。
右手はハンドルを押さえ、艇の向きと水面の揺れを感じている。
スタート。
六艇が一斉に線を越える。
一号艇、黒羽。速い。
二号艇、差し構え。
三号艇、攻める。
四号艇、灯。
コンマ09。
遅れていない。
三号艇が内へ絞る。
二号艇が差し場を探す。
一号艇の黒羽が、逃げの体勢に入る。
普通なら、ここで決まる。
艇王の逃げ。
何度も見てきた形。
誰もが信じる勝ち筋。
黒羽宗一郎は、一号艇の勝ち方を誰よりも知っている。
相手の道を消し、自分の道を正しく通る。
その逃げは、ただ速いだけではない。
二号艇の差しを浅くする。
三号艇の攻めを外へ流す。
四号艇のまくり差しを遠ざける。
相手に何もさせない逃げ。
それが、黒羽宗一郎の強さだった。
だが灯は、そこへ入った。
三号艇の外をただ握るのではない。
まくり切るのでもない。
一号艇と二号艇。
二号艇と三号艇。
その間に生まれる、一瞬の隙。
黒羽が消しきったはずの道。
誰も通れないと思った細い隙間。
そこへ、四号艇の艇先を差し込む。
まくり差し。
艇が跳ねる。
水しぶきが視界を遮る。
観客席の歓声が、音ではなく振動になる。
灯は叫ばなかった。
ただ、目を開けていた。
水面を見る。
出口を見る。
自分の艇が進む道を見る。
バックストレッチ。
四号艇、先頭。
実況が絶叫する。
「風見灯! 風見灯が先頭に立った! SGグランドクラウン優勝戦、女子レーサーが艇界の頂点へ!」
その瞬間、灯の脳裏に浮かんだのは、歓声ではなかった。
表彰台でもない。
賞金でもない。
歴史という言葉でもない。
浮かんだのは、遠い日の朝だった。
福岡県柳川市。
ボートレーサー養成所。
朝六時の起床。
日朝点呼。
冷たい空気。
整列する養成員たち。
初めて触れたモーターの重さ。
うまく回れなかった一マーク。
教官の厳しい声。
そして、記録用紙に書かれた言葉。
恐怖心が強い。勝負勘に欠ける。
あの日の自分は、何も持っていなかった。
速いスタートも。
強い身体も。
綺麗なターンも。
大きな自信も。
何ひとつ、持っていなかった。
ただひとつ。
水面を見る目だけは、捨てなかった。
最終ターンマークが近づく。
後ろから黒羽宗一郎が迫る。
艇王は簡単には終わらない。
一度先頭を譲っただけで、勝負を諦めるような男ではない。
最後の直線。
水面は、まだ揺れていた。
灯は奥歯を噛んだ。
ここまで来た。
B2で勝てなかった。
B1で折れかけた。
A2で叩き潰された。
A1で背負うものの重さを知った。
G3で初めてタイトルを掴んだ。
G2で男女混合の壁を破った。
G1で歴史を動かした。
そして今、SGグランドクラウンのゴールが目の前にある。
でも、これは終わりではない。
これは、あの日から続いてきた一走の答えだった。
ゴールラインが近づく。
実況の声が割れる。
「風見灯、先頭! 風見灯、先頭! 艇王・黒羽宗一郎を抑えて、女子レーサーが今――!」
灯は、最後まで水面を見た。
そして。
物語は、その数年前に戻る。
まだ誰も、風見灯の名を知らなかった頃。
彼女がまだ、ただの養成員だった頃。
朝六時。
起床の合図が鳴る。
布団の中で、ひとりの少女が目を開けた。
それが、伝説の始まりだった。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
今回は、物語の始まりとして、未来のSGグランドクラウン優勝戦から描きました。
主人公の風見灯は、すでに大舞台に立っています。
けれど、この物語で本当に描きたいのは、そこに辿り着くまでの道のりです。
最初から強い主人公ではありません。
むしろ、養成所では不器用で、怖がりで、何度も失敗する少女です。
そんな灯が、どうやって水面を見る力を武器にしていくのか。
どうやってB2、B1、A2、A1へと上がっていくのか。
そして、なぜSGの舞台で黒羽宗一郎と戦うことになるのか。
その過程を、少しずつ書いていきます。
次回からは、まだ誰にも知られていない頃の風見灯。
ボートレーサー養成所での日々が始まります。
スタートも遅い。
旋回も下手。
水面も怖い。
そんな彼女の、最初の一歩を見届けていただけたら嬉しいです。




