第9話 卒業記念レース
競走訓練から数日後。
養成所の空気は、少しずつ変わり始めていた。
朝の点呼。
整備棟に響く工具の音。
水面へ向かう足音。
教官の声。
何も変わっていないはずだった。
それなのに、どこか終わりに近づいている気配があった。
養成所での基礎課程は、もうすぐ終わる。
ここを出れば、養成員たちはそれぞれの支部へ向かう。
同じ時間に起き、同じ水面で走り、同じ教官に怒られる日々は終わる。
白瀬玲央も。
鳴宮迅も。
風見灯も。
明日からは、同じ場所にいるとは限らない。
その日の朝、教官は整備棟の前で全員を集めた。
「今日は卒業記念レースを行う」
その一言で、空気が変わった。
卒業記念レース。
正式な競走ではない。
賞金が出るわけでも、級別が変わるわけでもない。
それでも、養成員たちにとっては特別だった。
養成所で走る、最後の競走。
ここで何を残すのか。
ここから何を持っていくのか。
それが問われる一走だった。
灯は黙って水面を見た。
風は弱い。
波も低い。
条件だけを見れば、走りやすい。
けれど、胸の奥は静かではなかった。
前回の競走訓練で、灯は初めて自分の形を掴みかけた。
六号艇から、細い道を見つけて三着に入った。
勝ったわけではない。
玲央にも、鳴宮にも届かなかった。
それでも、道が見えた。
自分が入るべき水面が、たしかに見えた。
だが、教官は言った。
見えてから動いているうちは遅い。
次に必要なのは、決める力だと。
灯は胸の前で、小さく手を握った。
今日は、見えてから入るだけでは駄目だ。
見える前に決める。
決めた場所へ、艇を入れる。
それが、今日の課題だった。
出走順が発表された。
一号艇、白瀬玲央。
二号艇、鳴宮迅。
三号艇、別の養成員。
四号艇、風見灯。
五号艇、別の養成員。
六号艇、別の養成員。
灯は四号艇だった。
内ではない。
大外でもない。
攻めることもできる。
待つこともできる。
だが、迷えば何もできない位置だった。
教官が灯を見た。
「風見」
「はい」
「四号艇は、見るものを間違えると遅れる。内も外も全体も、全部見ようとするな」
「はい」
「今日、お前は何を見る」
灯はすぐには答えなかった。
一号艇の玲央は強い。
内で崩れにくい。
先に回って、自分の形を作る。
二号艇の鳴宮は速い。
差すのか。握るのか。
その選択だけで、一マークの水面が変わる。
三号艇が壁になるかどうかも大事だった。
外の五号艇、六号艇の動きも無視できない。
でも、全部は見られない。
灯は息を吸った。
「鳴宮くんを見ます」
教官の目が少し細くなった。
「理由は」
「鳴宮くんが動けば、一マークの水面が変わるからです。差すなら外、握るなら内。その動きで、自分の入る場所を決めます」
「見えてから決めるのか」
灯は首を横に振った。
「いいえ。起こしと角度で、先に決めます」
教官はしばらく灯を見ていた。
そして、短く言った。
「やってみろ」
それだけだった。
けれど灯には、その一言で十分だった。
艇へ向かう途中、玲央が隣に並んだ。
「灯」
「うん」
「今日は、昨日までとは違うよ」
灯は玲央を見た。
「最後だから?」
「それもある」
玲央は水面を見たまま言った。
「でも、最後だからこそ、みんな何かを残そうとする。普段なら行かないところに行く人もいる。守る人もいる。焦る人もいる」
灯は黙って聞いた。
「水面だけじゃなく、人も崩れる」
玲央の声は静かだった。
「灯が見る道は、そういうところに出るかもしれない」
「うん」
「でも、私の前には来させない」
灯は少しだけ笑った。
「厳しいね」
「事実。」
玲央はそう言って、先に歩いていった。
次に、鳴宮が近づいてきた。
「風見」
「なに?」
「俺を見るんだろ」
灯は少し驚いた。
聞かれていたらしい。
「うん」
鳴宮は水面から目を離さなかった。
「見るだけなら、置いていく」
「分かってる」
「なら、先に置け」
灯は目を細めた。
「先に?」
「俺が動いたあとに空く場所じゃない。俺が動く前に、お前が入る場所を決めろ」
鳴宮は灯を見た。
「それができたら、少しは勝負になる」
厳しい言葉だった。
けれど、突き放す言葉ではなかった。
灯は頷いた。
「やってみる」
「やってみるじゃ遅い」
鳴宮は短く言った。
「決めろ」
そう言って、鳴宮は艇の方へ歩いていった。
灯はその背中を見つめた。
決めろ。
その言葉が、胸の奥に残った。
やがて、卒業記念レースの時間が来た。
六艇が水面に浮かぶ。
桟橋には、他の養成員たちが並んでいた。
誰もふざけていない。
最後の競走。
その重さを、全員が分かっていた。
灯は四号艇の中で、ハンドルを握った。
水面が近い。
何度も怖いと思った水面。
何度も怒られた水面。
何度も見失った水面。
そして、初めて自分の道が見えた水面。
今日で、この水面とは一度離れる。
そう思うと、胸の奥が少し痛んだ。
だが、感傷に浸る余裕はなかった。
時計を見る。
風を見る。
鳴宮を見る。
今日見るのは、鳴宮の起こしと角度。
それだけでいい。
「進入開始」
教官の声が響いた。
六艇がゆっくりと動き出す。
一号艇の玲央が内へ入る。
無駄がない。
艇の向きも、起こし位置も、もう決まっているように見えた。
二号艇の鳴宮が続く。
静かだった。
静かすぎるくらいだった。
灯はその静けさに、むしろ警戒した。
鳴宮は迷っていない。
何かを狙っている。
三号艇がその外へ入る。
灯は四コース。
助走距離を取りながら、時計を見る。
風は弱い。
水面は荒れていない。
大きな不安要素はない。
だからこそ、言い訳はできない。
合図。
玲央が起こす。
ほぼ同時に、鳴宮も艇を起こした。
早い。
いつもより早い。
灯の指が一瞬、迷いかけた。
合わせるべきか。
一呼吸待つべきか。
その迷いを、灯はすぐに切った。
今日は、決めていた。
鳴宮を見る。
鳴宮が早く起こしたなら、自分も遅れない。
灯は艇を起こした。
加速。
スリットが近づく。
怖い。
前に出すぎる怖さ。
遅れる怖さ。
横に並ぶ艇の圧。
全部が一度に迫ってくる。
それでも、灯は緩めなかった。
スリット通過。
玲央がわずかに先行。
鳴宮も遅れていない。
三号艇は少し後手。
灯も、大きくは遅れていない。
悪くない。
一マークまでの距離が、いつもより短く感じた。
玲央が先に回る。
鳴宮は差しに構える。
そう見えた。
だが、違った。
鳴宮の艇が、少し外へ向いた。
握る。
灯は、その動きを見た瞬間に決めた。
外には行かない。
鳴宮の内へ置く。
鳴宮が握れば、その内側に一瞬だけ道ができる。
だが、見えてからでは遅い。
三号艇が残れば塞がる。
玲央が流れなければ出口も狭い。
細い。
でも、そこしかない。
灯はハンドルを切った。
四号艇から大きく握るのではない。
外の広い水面へ逃げるのでもない。
鳴宮の内。
三号艇の外。
玲央の引き波の手前。
そこへ、先に艇を置く。
水面が跳ねた。
引き波が艇底を叩く。
視界が一瞬、白く揺れる。
怖い。
でも、戻らない。
灯は身体を低くして、艇を押さえた。
一マーク出口。
玲央は先頭で抜ける。
鳴宮は外から伸びる。
三号艇は少し流れた。
その内側に、灯はいた。
綺麗なターンではなかった。
艇はまだ暴れている。
完全に抜け切ったわけでもない。
それでも、隊形の中に残っていた。
三番手争い。
灯の隣に三号艇。
前に鳴宮。
さらに前に玲央。
遠い。
やはり、二人は遠い。
けれど灯は、後ろに置いていかれてはいなかった。
バックストレッチ。
鳴宮が二番手へ上がる。
玲央を追う。
灯は一瞬、鳴宮を追いたくなった。
少しでも前へ。
少しでも二人に近づきたい。
だが、今の自分の艇では、無理に追えば流れる。
後ろから三号艇が迫っている。
外には五号艇も来ている。
ここで何をするか。
灯は決めた。
三着を残す。
勝ちに行かないのではない。
今、自分が最後まで持って帰れる場所を取りに行く。
二マーク。
三号艇が内を狙う。
灯は少し早めに艇を向けた。
内を開けない。
だが、締めすぎれば出口で止まる。
灯は水面を見た。
引き波の切れ目。
三号艇の角度。
自分の艇の向き。
ここ。
灯は艇を入れた。
玲央のように強いターンではない。
鳴宮のように鋭いターンでもない。
それでも、出口で艇は残った。
三号艇の前に出る。
三番手。
息を吐く暇もなく、レースは続いた。
前の二人は速い。
玲央は内で崩れない。
鳴宮は何度も角度を変えながら追っていく。
二人の水面は、灯よりずっと先にある。
悔しい。
灯はそう思った。
届きたい。
いつか、あの二人のいる場所で戦いたい。
ただ後ろから見るだけでは嫌だ。
けれど、今は前だけを見ていてはいけない。
後ろの艇が迫っている。
二周一マーク。
灯は出口を見ると決めた。
攻める道ではない。
残る道。
自分がどこを開ければ差されるか。
どこを締めれば流れるか。
全部を見ようとすれば遅れる。
だから、出口だけを見る。
艇を向ける。
波を越える。
内を開けない。
外へ流れすぎない。
灯の艇が一瞬、引き波に乗り上げた。
身体が遅れる。
まずい。
灯は握り直した。
ここで緩めたら、沈む。
艇が跳ねながらも、前へ出る。
何とか残った。
二周二マーク。
腕が重い。
呼吸も乱れている。
それでも、不思議と水面は見えていた。
大きくではない。
広くでもない。
必要な分だけ。
自分が残るための細い線だけが、見えていた。
最終周回。
先頭は玲央。
二番手は鳴宮。
二人の差は詰まりきらない。
玲央は最後まで崩れない。
鳴宮は最後まで諦めない。
灯は三番手。
後ろから三号艇が迫る。
卒業記念レースだからといって、誰も譲らない。
全員が最後に何かを残そうとしている。
最終二マーク。
三号艇が内を狙ってきた。
灯は見た。
少しでも広く回れば差される。
かといって締めすぎれば出口で止まる。
水面が、細く見えた。
ここを通す。
灯は艇を向けた。
内を開けない。
出口で止めない。
前へ。
艇が水を叩く。
身体が持っていかれそうになる。
それでも、灯はハンドルを離さなかった。
出口。
艇が返る。
直線。
三号艇が伸びてくる。
灯は最後まで握った。
ゴールラインが近づく。
一着、白瀬玲央。
二着、鳴宮迅。
そして。
三着、風見灯。
ゴールした瞬間、灯はしばらく前を見たまま動けなかった。
勝っていない。
玲央には届かなかった。
鳴宮にも届かなかった。
それでも、最後まで残した。
自分で見て。
自分で決めて。
自分で艇を入れた。
その先で、三着を残した。
六艇がゆっくりと桟橋へ戻る。
灯は艇を降りる時、足元が少し震えた。
疲れなのか。
緊張が解けたからなのか。
自分でも分からなかった。
教官が近づいてきた。
「風見」
「はい」
灯は背筋を伸ばした。
「今日、何を見た」
灯は水面を振り返った。
もう、さっきの波は残っていない。
鳴宮が握った跡も、三号艇と競った引き波も、すべて消えている。
けれど、灯の中には残っていた。
「鳴宮くんの起こしと、一マークの動きです」
「それで?」
「鳴宮くんが握ると思ったので、外には行かず、内側へ置きました」
教官は黙って聞いていた。
「入った後は、三着を残すと決めました。前を追うより、後ろに差されない出口を選びました」
「勝ちに行かなかったのか」
その問いは、胸に刺さった。
灯は少しだけ黙った。
勝ちに行かなかったのか。
玲央や鳴宮に届く道を、本気で探したのか。
前を奪う覚悟があったのか。
答えは、まだ分からない。
それでも、逃げずに答えた。
「今日の私には、三着を残すのが精一杯でした」
教官の目が細くなる。
「それで満足か」
灯は首を横に振った。
「悔しいです」
声は震えなかった。
「玲央さんにも、鳴宮くんにも届きませんでした。でも、今日は流されずに残せました。だから次は、もっと前で残りたいです」
教官はしばらく黙っていた。
そして、短く言った。
「それでいい」
灯は息を吐きそうになった。
だが、教官は続けた。
「満足するな。だが、なかったことにもするな。今日の三着は、お前が決めて残した三着だ」
灯の胸が熱くなった。
「はい」
玲央が近づいてきた。
「三着、おめでとう」
「ありがとう。でも、やっぱり届かなかった」
「当然」
玲央はいつも通り言った。
灯は少し笑った。
その言葉が、今日は悔しいのに嬉しかった。
玲央は水面を見た。
「でも、最後まで残った」
「うん」
「次は、私の後ろにいるだけじゃなくて、私の横まで来て」
灯は玲央を見た。
玲央の表情は穏やかだった。
けれど、その言葉は挑戦だった。
「行く」
灯は答えた。
「いつか、必ず」
玲央は小さく頷いた。
「事実にして」
その言葉を残して、玲央は歩いていった。
次に、鳴宮が灯の前に立った。
「三着か」
「うん」
「悪くない」
灯は少し驚いた。
鳴宮が素直にそう言うとは思わなかった。
「でも、遅い」
やはり続きがあった。
「一マークの判断は悪くない。でも、入った後の出口がまだ甘い。二周一マークも、少し緩んだ。最終二マークも、あと半艇身遅れてたら差されてた」
「うん」
灯は素直に頷いた。
全部、自分でも分かっていた。
「でも」
鳴宮は少しだけ間を置いた。
「最後まで見てたな」
灯は顔を上げた。
鳴宮は、もう水面の方を見ていた。
「前は、途中で目が泳いでた。今日は最後まで水面を見てた」
それだけ言うと、鳴宮は歩き出した。
灯はその背中に向かって言った。
「次は、もっと前で見る」
鳴宮は振り返らなかった。
「やってみろ」
その声だけが返ってきた。
夕方。
片付けが終わったあと、灯は一人でノートを開いた。
今日のページに、ゆっくりと書く。
卒業記念レース。
四号艇。三着。
その下に、今日のレースを書く。
鳴宮くんを見ると決めた。
起こしが早かった。迷いそうになったけど、合わせた。
一マーク、鳴宮くんが握ると判断。外ではなく内へ置いた。
入った後、三着を残すと決めた。
前には届かなかった。玲央さんと鳴宮くんは遠い。
でも、最後まで残した。
ペン先が止まる。
灯は少し考えて、さらに書いた。
今日の私は、勝てなかった。
でも、見えた道に入って、その先で残ることはできた。
次は、残る場所をもっと前にする。
最後に一行。
水面を見るだけの私では、終わらない。
灯はノートを閉じた。
窓の外には、夕方の水面が広がっていた。
明日には、この場所を離れる。
玲央も。
鳴宮も。
灯も。
それぞれの支部へ向かう。
次に同じ水面で並ぶ時、今日とは違う自分でいたい。
そう思った。
これが、風見灯が養成所で走った最後のレースだった。
卒業記念レースは、灯に勝利をくれなかった。
けれど、確かなものを一つ残してくれた。
自分で決めた道は、最後まで持っていける。
それを知った日だった。
風見灯は、まだ弱い。
けれど、もうただの見ているだけの少女ではなかった。




