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第10話 プロの水面へ

養成所を出る朝。

空は、よく晴れていた。

荷物はそれほど多くない。

制服。

練習着。

ノート。

整備で使った手袋。

何度も書き込んだペン。

それだけのはずなのに、鞄は妙に重かった。

灯は寮の部屋を見回した。

何度も眠れない夜を過ごした部屋。

何度も悔しくて泣きそうになった部屋。

何度もノートを開いて、水面のことを書いた部屋。

もう、ここに戻ってくることはない。

廊下に出ると、養成員たちがそれぞれ荷物を持って歩いていた。

笑っている者もいた。

静かにしている者もいた。

誰かと写真を撮る者もいた。

卒業という言葉は、明るい響きを持っている。

けれど灯には、それだけではなかった。

ここで終わるものがある。

そして、ここから始まるものがある。

その両方が、胸の中にあった。

玄関の前に出ると、白瀬玲央が立っていた。

荷物はきれいにまとめられている。

姿勢も、いつも通りまっすぐだった。

「灯」

「玲央さん」

玲央は灯の鞄を見た。

「重そう」

「うん。荷物は少ないはずなんだけど」

「たぶん、中身じゃない」

灯は少し笑った。

「そうかも」

二人は並んで、しばらく養成所の建物を見た。

朝の光の中で見ると、いつもの厳しい場所が少し違って見えた。

怖かった場所。

苦しかった場所。

逃げたくなった場所。

それでも、自分を少しだけ変えてくれた場所。

「玲央さんは、すぐ走るの?」

「斡旋が入れば」

玲央は短く答えた。

「でも、どこで走ってもやることは同じ。準備して、スタートして、一マークを取る」

「玲央さんらしい」

「事実。」

玲央は灯を見た。

「灯は?」

「まだ分からない。でも……怖い」

正直に言った。

養成所の水面でさえ、灯には怖かった。

その先にあるプロの水面。

観客がいる。

舟券が売られる。

相手は養成員ではなく、本物のレーサーたち。

自分がそこに入って、本当に走れるのか。

想像するだけで、胸の奥が硬くなった。

玲央は少しも笑わなかった。

「怖くていいと思う」

灯は顔を上げた。

「え?」

「怖さがない人は、見落とす。灯は怖いから見る。なら、それを捨てなくていい」

玲央は静かに言った。

「ただ、怖いだけで止まらなければいい」

灯は黙って聞いた。

その言葉は、今の灯に一番必要なものだった。

「うん」

「次に会う時は、同じ番組かもしれない」

「うん」

「その時、後ろで見るだけだったら怒る」

灯は少し笑った。

「玲央さんなら、本当に怒りそう」

「怒る。事実。」

玲央は小さく頷いた。

その時、後ろから声がした。

「白瀬も風見も、朝から重い話してるな」

鳴宮迅だった。

片手に荷物を持ち、いつもと同じように歩いてくる。

灯は振り返った。

「鳴宮くん」

鳴宮は灯を見るなり言った。

「ノート、捨てるなよ」

灯は目を瞬かせた。

「急に?」

「お前は書いた方がいい。頭の中だけで整理しようとすると遅い」

「分かってる」

「ならいい」

鳴宮はそれだけ言って、玲央の方を見た。

「白瀬」

「なに」

「先にA級に上がって待ってろ」

玲央は表情を変えなかった。

「あなたこそ、途中で止まらないで」

「止まるわけないだろ」

二人の間に、静かな火花のようなものがあった。

灯はそれを見て、少しだけ胸が熱くなった。

この二人は、きっとすぐ前へ行く。

自分より早く。

自分より強く。

自分より遠く。

それでも、置いていかれたくないと思った。

鳴宮が灯を見る。

「風見」

「うん」

「お前はまず、プロの水面で沈むな」

厳しい言葉だった。

でも、その意味は分かった。

勝て。

ではない。

派手に行け。

でもない。

まず、自分のレースを最後まで持って帰れ。

鳴宮なりの言葉だった。

灯は頷いた。

「沈まない」

「それでいい」

鳴宮は歩き出した。

玲央も、その横を歩き始める。

灯は少し遅れて、その背中を見た。

養成所で何度も見た背中だった。

追いつけなかった背中。

遠かった背中。

それでも、いつか並びたいと思った背中。

門の前で、三人は一度立ち止まった。

振り返れば、養成所の水面が見えた。

風は弱い。

波は低い。

卒業記念レースの日と、よく似た水面だった。

灯は胸の中で、そっと言った。

ありがとうございました。

声には出さなかった。

けれど、その水面には届いた気がした。

数日後。

灯は地元の支部へ戻った。

養成所の水面とは、空気が違った。

艇の音が重い。

整備棟の匂いも濃い。

歩いている人たちの目つきも、どこか違う。

ここにいるのは、養成員ではない。

本物のレーサーたちだった。

A1。

A2。

B1。

B2。

級別の文字が、急に現実のものとして灯の前に立ちはだかった。

灯は登録を終え、支部の挨拶を済ませた。

「風見灯です。よろしくお願いします」

何度も頭を下げた。

そのたびに、相手は短く返してくれた。

「よろしく」

「頑張って」

「怪我するなよ」

「まずは無事故でな」

温かい言葉もあった。

けれど、その中には重さがあった。

新人だからといって、水面は手加減してくれない。

プロの世界では、出走表に名前が載った瞬間から一人の選手だった。

その日の午後、灯は支部の練習に参加した。

プロになって初めての練習。

養成所で何度も走った。

卒業記念レースでも三着を残した。

それなのに、艇に乗った瞬間、灯の身体は硬くなった。

周りにいる艇が違う。

同じ六艇でも、圧が違う。

起こしの間。

スリットまでの伸び。

一マークへ向かう角度。

ターンの出口。

全部が早かった。

一艇一艇が、自分の形を持っている。

養成所では、玲央や鳴宮だけが特別に見えた。

でも、ここでは違う。

誰もが何かを持っていた。

内を守る人。

差しに構える人。

外から絞る人。

引き波の中でも艇を返す人。

出口だけで半艇身前に出る人。

灯は、その一つ一つを見るだけで精一杯だった。

練習一本目。

灯は五コースに入った。

スタートは悪くなかった。

だが、一マークで完全に遅れた。

内の艇が先に回る。

三コースの艇が握る。

その引き波が外へ広がる。

灯は道を探した。

ある。

そう思った。

でも、次の瞬間にはもう消えていた。

艇を入れようとした時には、前の艇の波がそこを埋めていた。

遅い。

灯は外へ流れた。

二マークでは後ろからも詰められ、出口でさらに置いていかれた。

練習が終わり、桟橋へ戻る。

灯は艇を降りたあと、しばらく手を握ったまま動けなかった。

見えていた。

見えていたはずなのに、間に合わなかった。

養成所で少し掴んだものが、ここではもう通用しない。

その現実が、胸に重く落ちてきた。

「風見灯?」

背後から声がした。

灯は振り返った。

そこに立っていたのは、一人の女性レーサーだった。

年齢は灯より少し上に見える。

派手さはない。

けれど、目が鋭かった。

整備着の袖を軽くまくり、片手にノートを持っている。

「はい。風見です」

「三島沙耶」

女性は短く名乗った。

「同じ支部。よろしく」

「よろしくお願いします」

灯は慌てて頭を下げた。

三島沙耶。

その名前は聞いたことがあった。

派手な決まり手で目立つ選手ではない。

けれど、着をまとめる力がある。

展開の読みが正確で、無理をしない。

準備でレースを作るタイプの選手。

灯は、そう教官から聞いたことがあった。

三島は灯の顔を見て言った。

「今の練習、何が遅れたか分かる?」

灯は少し迷った。

「一マークで、入る場所を見つけるのが遅れました」

「それもある」

三島はすぐに言った。

「でも、本当に遅れたのはその前」

「その前……」

「三コースが握るって分かった時点で、もう艇を置く準備をしておかないと間に合わない。あなたは、波ができてから道を探した」

灯は息を呑んだ。

それは、教官にも言われたことだった。

見えてから動いているうちは遅い。

三島は続けた。

「水面を見る力はあると思う。でも、見るだけだとプロでは遅い」

灯は黙った。

三島の言葉は厳しかった。

でも、そこには嫌味がなかった。

ただ、事実を言っている。

玲央とは違う種類の事実だった。

「風見さん、ノート書く?」

「はい」

「じゃあ、今日の練習を書いて」

「はい」

「ただし、感想はいらない」

灯は顔を上げた。

「感想……ですか?」

「悔しかった。怖かった。遅れた。そういうのは最後でいい」

三島は自分のノートを軽く叩いた。

「まず書くのは原因」

灯は黙って聞いた。

「誰が起こした。誰が握った。誰が差した。自分はどの時点で迷った。どの波で艇が跳ねた。出口でなぜ止まった」

三島の声は淡々としていた。

「水面は、感情じゃなくて原因で見る」

その言葉が、灯の胸に深く入った。

水面は、感情じゃなくて原因で見る。

怖い。

悔しい。

届かない。

灯の中には、いつも感情が先にあった。

けれどプロの世界では、それだけでは足りない。

怖かった理由。

遅れた原因。

届かなかった構造。

それを掴まなければ、次も同じ場所で止まる。

「三島さんは、いつもそうやって書いてるんですか?」

「書いてる」

「全部ですか?」

「全部じゃない。必要なことだけ」

三島は水面を見た。

「でも、必要なことから逃げると、同じ負け方をする」

灯は小さく頷いた。

「はい」

三島は少しだけ表情を緩めた。

「風見さんは、たぶん見える人だと思う」

灯は驚いて三島を見た。

「でも、見える人は危ない」

「危ない?」

「見えた気になるから」

三島の言葉は静かだった。

「一回うまく入れると、次も見えると思う。でも、プロの水面は毎回違う。相手も違う。モーターも違う。風も違う。番組も違う」

灯は黙って聞いた。

「だから、見えたものを信じる前に、なぜ見えたのかを残しておく」

三島はノートを差し出すような仕草をした。

「それが準備」

準備。

養成所でも何度も聞いた言葉だった。

けれど今、初めてその重みが分かった気がした。

プロは、走る前から始まっている。

水面に出る前。

番組を見る時。

相手を調べる時。

モーターを触る時。

天気を見る時。

前日のレースを思い返す時。

そのすべてが、レースにつながっている。

灯は鞄からノートを取り出した。

表紙は少し擦れていた。

養成所で何度も開いたノートだった。

三島がそれを見る。

「続けてるんだ」

「はい」

「なら、今日から書き方を変えた方がいい」

灯はページを開いた。

白い紙の上に、ペン先を置く。

今日の練習。

五コース。

スタートは遅れていない。

一マーク、三コースが握る。

自分は波が見えてから道を探した。

艇を置く準備が遅い。

出口で止まった原因は、引き波に乗ってからハンドルを切ったこと。

次は、握る艇の角度を見た時点で入る場所を決める。

灯はそこまで書いて、手を止めた。

そして、最後に小さく書いた。

悔しい。

三島はその文字を見て、少しだけ笑った。

「感情も、最後になら書いていい」

灯は恥ずかしくなって、少しだけ頷いた。

「はい」

その日の夕方。

灯は支部の掲示板の前に立っていた。

掲示板には、連絡事項や練習予定、整備割りが貼られている。

その中に、新しい紙が一枚あった。

斡旋予定。

灯の名前があった。

風見灯。

デビュー戦の日程。

出場場。

初日の番組予定。

文字を見た瞬間、心臓が強く鳴った。

来た。

本当に来た。

プロとして、初めて名前が出走表に載る。

養成所の卒業記念レースとは違う。

練習でもない。

訓練でもない。

観客が見る。

舟券が売られる。

結果が残る。

その水面に、自分が出る。

灯は掲示板の前で、しばらく動けなかった。

怖い。

やっぱり怖い。

だが、今度はその怖さの中に、別のものが混じっていた。

走りたい。

自分の名前で。

自分の艇で。

自分の水面で。

走ってみたい。

背後から三島の声がした。

「決まった?」

灯は振り返った。

「はい。デビュー戦……決まりました」

三島は掲示板を見た。

「じゃあ、今日から準備だね」

「今日から、ですか?」

「明日からじゃ遅い」

その言葉に、灯は鳴宮の声を思い出した。

やってみるじゃ遅い。

決めろ。

灯はノートを握った。

「はい」

三島は歩き出しながら言った。

「まずは番組を見たら、相手を調べる。級別、スタート、決まり手、展示の癖。分からないことは聞けばいい」

「はい」

「それから、自分が何を持って帰るか決める」

灯は顔を上げた。

「何を持って帰るか……」

「新人の最初のレースで、全部は取れない。勝つことだけ考えて何も残らないより、次につながるものを一つ持って帰る」

三島は灯を見た。

「でも、最初から負けるつもりで走るな」

灯は息を止めた。

「はい」

「勝つ準備をして、現実を見て、次に残す。それを繰り返す」

三島の言葉は、静かだった。

けれど、強かった。

灯は掲示板の自分の名前をもう一度見た。

風見灯。

その文字は、まだ小さかった。

誰も知らない新人の名前だった。

白瀬玲央のように、最初から強さを示せるわけではない。

鳴宮迅のように、水面を変える力があるわけでもない。

自分には、まだ足りないものばかりだった。

スタート。

旋回。

整備。

判断。

出口の足。

勝ち切る力。

数えれば、きりがない。

それでも、灯には一つだけある。

水面を見る力。

そして、それをただ見るだけで終わらせないと、養成所の最後に決めた。

灯はノートを開いた。

新しいページの一番上に、ゆっくりと書く。

プロ初戦。

その下に、少し迷ってから、もう一行を書いた。

怖いまま、準備する。

ペン先が止まる。

灯は窓の外を見た。

夕方の水面が、静かに揺れていた。

養成所の水面とは違う。

プロの水面だった。

そこには、優しさなどない。

待ってもくれない。

見えてから動く者を、簡単に置いていく。

でも、灯はもう知っている。

自分で決めた道は、最後まで持っていける。

ならば次は、その道をプロの水面で探すだけだ。

風見灯は、ノートを閉じた。

そして、掲示板に貼られた自分の名前をもう一度見た。

まだ誰にも知られていない、B2の新人。

その小さな名前が、初めてプロの水面へ向かおうとしていた。

ここまで読んでいただき、ありがとうございます。

第1章「水面を見る少女」は、風見灯が養成所で自分の弱さと向き合いながら、少しずつ“自分の走り”を見つけていく章でした。

最初の灯は、怖がりで、迷いやすくて、周りの強さに圧倒されるばかりの少女でした。

白瀬玲央のように最初から完成された強さがあるわけでもなく、鳴宮迅のように水面を変える才能があるわけでもない。

それでも灯には、水面を見る力がありました。

波を見る。

風を見る。

引き波を見る。

ほんの一瞬だけ空く道を見る。

そして最後の卒業記念レースで、灯はただ「見える」のを待つだけではなく、自分で決めた道へ艇を入れることができました。

勝利ではありません。

一着でもありません。

それでも、灯にとっては大きな一歩でした。

第2章からは、いよいよプロの水面へ進みます。

養成所では通用したことが、プロでは通用しない。

見えていたはずの道が、間に合わない。

B2の新人として、灯はまた何度も壁にぶつかることになります。

それでも、彼女は水面を見ることをやめません。

風見灯が、ただの“水面を見る少女”から、ひとりのボートレーサーになっていく姿を、引き続き見守っていただけたら嬉しいです。

次章「B2レーサー風見灯」

もよろしくお願いします。

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