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第1話 新人レーサー、風見灯

数日後。

その小さな名前は、開催場の出走表に印刷されていた。

風見灯。

級別、B2。

年齢。

登録番号。

支部。

そして、枠番。

灯は、控室の隅でその紙を見つめていた。

何度見ても、自分の名前だった。

養成所の掲示板に貼られていた斡旋予定とは違う。

支部の練習表とも違う。

これは、本番の出走表だった。

観客が見る。

舟券を買う人が見る。

相手の選手が見る。

自分の名前が、ただの名前ではなく、レースの一部としてそこにあった。

「……本当に、載ってる」

小さく呟いた声は、自分でも頼りなかった。

開催場の控室は、支部とも養成所とも違っていた。

広い。

けれど、落ち着かない。

選手たちは、それぞれの場所で準備をしていた。

モーターの話をする人。

展示タイムを確認する人。

黙ってペラを見つめる人。

新聞を折りたたんでいる人。

誰も大きな声を出しているわけではない。

けれど、空気は静かではなかった。

水面に出る前から、レースは始まっている。

灯には、そう感じられた。

出走表の中で、自分だけが浮いて見える。

他の選手には勝率がある。

決まり手がある。

節間成績がある。

過去の積み重ねがある。

灯には、まだ何もない。

初出走。

その言葉だけが、灯の肩に重く乗っていた。

鞄の中には、ノートが入っている。

表紙は、養成所時代から使っているものだった。

何度も開いて、何度も書き込んだ。

その最後のページには、出発前に書いた文字がある。

怖いまま、準備する。

灯はその言葉を思い出しながら、出走表の隣にノートを開いた。

一号艇。

A2。

平均スタートは早い。

逃げの形を作れる選手。

二号艇。

B1。

差しが多い。

スタートは安定している。

三号艇。

A1。

センターから握れる。

今節の気配もいい。

四号艇。

B1。

カドなら仕掛けるタイプ。

五号艇。

A2。

展開を拾うのが上手い。

六号艇。

風見灯。

灯は、そこでペンを止めた。

自分の欄だけ、何を書けばいいのか分からなかった。

水面を見る。

それは書ける。

けれど、それだけでは足りない。

三島沙耶の声が、頭の中でよみがえる。

水面は、感情じゃなくて原因で見る。

灯はペン先を置き直した。

六号艇、風見灯。

初出走。

スタートで遅れない。

一マークまでに、誰が先に動くかを見る。

三号艇が握るなら、内の波が外へ広がる。

四号艇が攻めるなら、五号艇の差し場ができる。

自分は、見えてから探さない。

先に決める。

そこまで書いて、灯は小さく息を吐いた。

書けば、少しだけ落ち着く。

けれど、落ち着いたからといって怖さが消えるわけではなかった。

控室のモニターには、前のレースの映像が流れていた。

六艇がピットを離れる。

進入へ向かう。

内へ寄る艇。

外で距離を取る艇。

起こし位置を探る艇。

水面の上で、それぞれの意思がぶつかっていた。

養成所では、コースは与えられるものだった。

もちろん、進入の練習はした。

けれど、どこかで決められた範囲の中にいた。

プロは違う。

枠番がそのままコースになるとは限らない。

内を取りにくる人がいる。

外を選ぶ人がいる。

新人だからといって、場所を守らせてもらえるとは限らない。

灯は、自分の枠番を見た。

六号艇。

外。

一番遠い場所。

それでも、ある意味では分かりやすかった。

外から見る。

空いたところを探す。

自分の目を使う。

そう思おうとした。

だが、胸の奥に別の不安があった。

外だから見えるとは限らない。

外だから自由に動けるわけでもない。

外は、遠い。

一マークまでの距離も。

勝利までの距離も。

全部が遠い。

「風見灯さん」

名前を呼ばれて、灯は顔を上げた。

係員が立っていた。

「初出走ですね。装備の確認をお願いします」

「はい」

灯は立ち上がった。

足に力が入りすぎているのが分かった。

カポック。

ヘルメット。

手袋。

ひとつずつ確認する。

養成所で何度もやったことだった。

それなのに、今日だけは手順の一つ一つが重かった。

確認が終わると、近くにいた年上の女子レーサーが灯を見た。

「新人さん?」

「はい。風見灯です。よろしくお願いします」

灯は頭を下げた。

その選手は少し笑った。

「そんなに固くならなくていいよ。最初から全部できる人なんていないから」

「はい」

「でも、最後まで走ること。そこだけは最初からやらないとね」

灯は、その言葉に背筋を伸ばした。

「はい」

優しい声だった。

けれど、甘くはなかった。

プロの世界では、慰めの言葉でさえ、どこか現実を含んでいる。

最後まで走る。

無事故で戻る。

当たり前のようでいて、それは新人にとって最初の責任だった。

灯はもう一度ノートを見た。

勝つ準備をする。

でも、現実を見る。

次につながるものを持って帰る。

三島に言われた言葉を、灯は何度も心の中で繰り返した。

やがて、展示航走の時間が近づいた。

控室の空気が、少し変わる。

それまで座っていた選手たちが立ち上がる。

ヘルメットを持つ音。

ファスナーを上げる音。

足音。

短い会話。

そのすべてが、本番へ向かう音に聞こえた。

灯も立ち上がった。

ノートを閉じる。

鞄にしまう。

その瞬間、指先が少し震えていることに気づいた。

怖い。

やっぱり怖い。

養成所を出る時も怖かった。

支部の練習でも怖かった。

今日も怖い。

でも、玲央は言った。

怖いから見る。

鳴宮は言った。

沈むな。

三島は言った。

原因で見ろ。

教官は言った。

見えない者には選べない道がある。

灯は、ゆっくりと息を吸った。

怖さを消そうとしなくていい。

それを抱えたまま、水面を見る。

それが今の自分にできることだった。

ピットへ向かう通路に出ると、外の光が差し込んでいた。

風がある。

強くはない。

けれど、養成所で感じていた風とは違う。

観客席からのざわめきが、遠くに聞こえた。

水面の匂い。

モーターの音。

実況の声。

その全部が混ざって、灯の胸を締めつけた。

ここが、プロの水面。

誰も待ってくれない場所。

見えてから動く者を、簡単に置いていく場所。

灯はピットに並ぶ艇を見た。

六号艇。

自分の艇。

白い艇体に、緑の番号。

灯はそっと艇に手を置いた。

冷たかった。

けれど、その冷たさが少しだけ現実を教えてくれた。

これは夢ではない。

自分は、これから走る。

「六号艇、風見灯」

係員の声がした。

「はい」

返事は、思ったよりはっきり出た。

灯は艇に乗り込んだ。

視線の先に、水面が広がっている。

広い。

遠い。

怖い。

それでも、見える。

風の流れ。

前のレースの引き波の名残。

一マークへ向かう水の表情。

灯はハンドルを握った。

まだ何も証明していない。

勝率もない。

実績もない。

信頼もない。

けれど、名前は出走表に載った。

ならば、ここからは自分で走るしかない。

エンジン音が重なっていく。

一艇。

二艇。

三艇。

四艇。

五艇。

そして、六艇目。

灯のモーターが、水面に音を落とした。

ピット離れの合図を待つ。

心臓の音が、エンジン音に混ざる。

怖いまま、準備する。

怖いまま、見る。

怖いまま、決める。

灯は前を向いた。

合図が出る。

六艇が、ゆっくりとピットを離れた。

風見灯の、プロ初戦が始まった。

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