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第2話 デビュー戦

六艇が、ゆっくりとピットを離れた。

水面に、六つのエンジン音が重なる。

灯は六号艇のハンドルを握り、前を見た。

プロになって初めて、自分の艇で出る水面。

けれど、それはまだ本番ではなかった。

展示航走。

観客に足色を見せ、選手自身も水面と機力を確かめる時間。

養成所でも、似たことは何度もやった。

けれど、今は何もかもが違っていた。

一号艇が内へ向かう。

二号艇がその外へ入る。

三号艇は少し間を取りながら、起こしの位置を探っていた。

四号艇は外に艇を振り、カドの形を作る。

五号艇は、その動きを見ながら静かに構えている。

そして灯は、一番外。

六コース。

出走表の通りだった。

進入で大きく乱されてはいない。

それだけで、少しだけ安心した。

だが、その安心はすぐに消えた。

艇間が近い。

判断が早い。

誰も待ってくれない。

誰も合わせてくれない。

養成所の水面では、たとえ競走訓練でも、どこかに同じ未熟さがあった。

でも、ここにはそれがない。

全員が、自分の形を持っていた。

内を守る形。

差しに構える形。

外から握る形。

展開を待つ形。

それぞれが、自分の勝ち方を持って水面に出ている。

灯だけが、まだ何も持っていなかった。

一マークが近づく。

灯は息を詰めた。

展示だ。

まだ本番ではない。

そう分かっているのに、身体が硬くなる。

一号艇が先に回る。

二号艇が差しに構える。

三号艇が外を握る。

四号艇がその外からついていく。

五号艇が少し内へ切り込む。

その瞬間、灯の視界に細い道が見えた。

五号艇の後ろ。

引き波と引き波の間。

水面が、ほんの一瞬だけ薄くなる場所。

そこに艇を置ければ、出口で少し残せる。

見えた。

灯はハンドルを切ろうとした。

だが、遅かった。

五号艇の波が外へ広がる。

三号艇の握った波が重なる。

一号艇の流れた波も残る。

灯の艇は、まとめてその波を受けた。

「っ……!」

艇が跳ねた。

身体が浮く。

ハンドルを握る手に、余計な力が入る。

回れないわけではない。

けれど、進まない。

出口で艇が止まり、外へ流れる。

前の五艇との差が、一気に開いた。

展示航走。

ただの展示。

それなのに灯は、プロの水面に置いていかれた。

二マークを回りながら、灯は奥歯を噛んだ。

見えた。

けれど、入れなかった。

支部練習の時と同じだった。

いや、もっと悪い。

見えてから消えるまでが、短すぎる。

水面は、灯が迷う時間をくれなかった。

展示を終えて、控室へ戻る。

カポックを外す手が、少し震えていた。

モニターには、展示タイムが表示されている。

灯の名前の横に出た数字は、目立つものではなかった。

悪すぎるわけではない。

だが、良くもない。

六号艇。

新人。

展示も平凡。

その事実が、灯の前に並んでいた。

誰かが近くで言った。

「六号艇の新人、外だと厳しいな」

悪意のある声ではなかった。

ただの感想だった。

だからこそ、重かった。

灯は出走表の横にノートを開いた。

ペンを持つ。

展示。

六コース。

三号艇、外を握る。

四号艇、外から追走。

五号艇、内へ切り込む。

五号艇の後ろに道。

ただし、見てからでは遅い。

灯はそこで手を止めた。

見てからでは遅い。

三島沙耶の声が浮かぶ。

波ができてから道を探したら遅い。

誰が動くかを見て、先に艇を置く。

灯はもう一度ペンを走らせた。

本番では、五号艇の後ろを先に見る。

入る前から、弾かれた後の逃げ道も見る。

そう書いた。

書いたところで、怖さが消えるわけではなかった。

でも、何を見ればいいかは決まった。

それだけで、少しだけ呼吸がしやすくなった。

やがて、レース本番の時間が来た。

「出場選手、ピットへお願いします」

係員の声が響く。

控室の空気が、静かに変わった。

選手たちが立ち上がる。

ヘルメットを持つ音。

ファスナーを上げる音。

床を踏む足音。

短い会話。

そのすべてが、本番へ向かう音だった。

灯も立ち上がった。

ノートを閉じる。

鞄にしまう。

指先はまだ震えている。

怖い。

それは変わらなかった。

けれど、今はその怖さの中に、一つだけ決めたものがある。

五号艇の後ろを見る。

見えてからではなく、見える前に艇を置く。

灯は、ピットへ向かった。

外へ出ると、観客席のざわめきが聞こえた。

実況の声が響く。

「六号艇、風見灯。今日がデビュー戦です」

自分の名前が、場内に流れた。

灯は一瞬、足を止めそうになった。

風見灯。

その名前を、誰かが聞いている。

舟券を買った人が、六号艇として見ているかもしれない。

何も知らないまま、ただ数字として見ている人もいるかもしれない。

それでも、自分は今、レースの中にいる。

練習ではない。

訓練ではない。

結果が残る本番。

灯は六号艇に乗り込んだ。

エンジンの振動が、身体に伝わる。

水面を見る。

風は弱い。

波も高くない。

言い訳のできる水面ではなかった。

悪いのは、水面ではない。

自分がまだ遅いこと。

それだけだった。

ピット離れの合図。

六艇が動き出す。

一号艇が内へ。

二号艇が続く。

三号艇。

四号艇。

五号艇。

そして、灯。

進入は枠なり。

六コース。

展示と同じ形だった。

起こし位置へ向かう。

灯は外で距離を取った。

内の艇が深くならないように位置を探る。

三号艇が少し余裕を持つ。

四号艇はカド。

五号艇は灯の前で、静かに助走距離を取っている。

灯は、スリットを見た。

早すぎてもいけない。

遅れてもいけない。

養成所では何度も聞いた言葉だった。

だが、本番の起こしでは、その言葉が急に難しくなる。

エンジン音が変わった。

艇が前へ出る。

灯も握る。

スリットが近づく。

一瞬、内が前に見えた。

遅れる。

そう思った瞬間、灯の手に力が入った。

スタートラインを通過する。

大きく遅れたわけではない。

だが、内の艇の方が鋭い。

三号艇が伸びる。

四号艇もついてくる。

五号艇がその動きを見ている。

一マークまでの距離が、一気に詰まった。

ここからだ。

灯は、五号艇の後ろを見た。

展示で見た場所。

波と波の間。

まだ水面は空いていない。

けれど、次に空く。

そう決めて、灯は少し早く艇を向けた。

三号艇が握る。

一号艇が先に回る。

二号艇が差す。

四号艇が外からついていく。

五号艇が内へ切り込む。

展示と同じ形。

いや、本番の方が速い。

音も、圧も、波も、すべてが重い。

それでも、灯はハンドルを切った。

五号艇の後ろ。

そこへ艇を置く。

一瞬だけ、入った。

本当に一瞬だけ、灯の艇がその細い場所へ向いた。

視界が開く。

行ける。

そう思った。

しかし次の瞬間、二号艇の差し波が外へ広がった。

一号艇がわずかに流れる。

三号艇の握った波が重なる。

三つの波が、灯の前で一つになった。

艇が跳ねた。

強く、下から突き上げられる。

身体が遅れる。

ハンドルを握る手に力が入りすぎる。

落とせ。

今は落として、出口で立て直せ。

頭では分かった。

でも、身体がついてこなかった。

艇は外へ流れた。

五号艇の後ろにあったはずの道は、もう消えていた。

一マークを抜けた時、灯の前には五艇がいた。

遠い。

あまりにも遠い。

バックストレッチで追いつく足もない。

前の艇の背中が、小さく見えた。

六着。

その現実が、早くも灯の胸に落ちてくる。

だが、レースはまだ終わっていない。

沈むな。

鳴宮の声が、胸の奥で響いた。

灯は、前を見た。

二マーク。

五号艇が少し外へ流れる。

内に切り込むほどの道はない。

無理に入れば、また波に弾かれる。

なら、出口で止めない。

灯は、今度は少しだけ早く判断した。

艇を無理に突っ込ませない。

落として、向きを作る。

引き波を受ける前に、艇を立て直す。

二マークを回る。

前との差は詰まらない。

順位も変わらない。

けれど、艇はさっきほど跳ねなかった。

出口で、大きく止まらなかった。

それだけだった。

それだけでも、灯には分かった。

今のは、少しだけ次につながる。

二周目。

一マーク。

前の艇の引き波が残っている。

灯はまた跳ねた。

でも、最初ほど慌てなかった。

二マーク。

もう一度、出口を残すことだけを考えた。

三周目。

一マーク。

二マーク。

最後まで、前との差は詰まらなかった。

実況は、前の二着争いを追っていた。

灯の名前は、ほとんど呼ばれなかった。

それでも灯は、最後まで走った。

ゴール。

結果は六着だった。

デビュー戦。

六号艇。

六コース。

六着。

数字だけを見れば、何も飾れない結果だった。

勝てなかった。

舟券にも絡めなかった。

見せ場もなかった。

プロ初戦の風見灯は、最下位だった。

レースを終え、灯は艇を戻した。

ピットに着く。

エンジンを止める。

音が消えた瞬間、身体の力が一気に抜けた。

艇を降りる足が、少しふらつく。

係員に礼をして、控室へ戻る。

途中で、誰かが声をかけた。

「お疲れ」

灯は頭を下げた。

「ありがとうございました」

それ以上、言葉は出なかった。

控室の隅に戻る。

鞄を開ける。

ノートを取り出す。

ペンを握る。

手は震えていた。

悔しい。

怖かった。

何もできなかった。

そう書きたかった。

だが、三島沙耶の言葉を思い出した。

感想は最後でいい。

まず書くのは原因。

灯は、深く息を吐いた。

そして書き始めた。

デビュー戦。

六号艇。

六コース。

スタート、大きく遅れてはいない。

ただし、内の加速に対して一拍遅い。

一マーク。

三号艇、展示通り握る。

四号艇、外から追走。

五号艇、内へ切り込む。

狙いは五号艇の後ろ。

展示より早く艇を向けた。

一瞬、入れた。

灯は、その一行で手を止めた。

一瞬、入れた。

負けた。

完全に負けた。

結果は六着。

でも、何もできなかったわけではない。

展示では見えてから動いた。

本番では、見える前に艇を向けた。

一瞬だけ、道に入った。

その後で弾かれた。

足りなかったのは、入ることだけではない。

入った後の準備。

波を受けた後の逃げ道。

艇が跳ねた時の判断。

灯は続きを書いた。

二号艇の差し波。

一号艇が少し流れた波。

三号艇の握った波。

三つが重なった。

艇が跳ねた。

ハンドルを握りすぎた。

落とす判断が遅い。

出口で外へ流れた。

二マークは、無理に入らず出口を残した。

順位は変わらない。

でも、艇は止まりきらなかった。

次は、一マークでも弾かれた後の出口を見る。

そこまで書いて、灯はようやくペンを止めた。

胸の奥に、重たいものが残っている。

六着。

その数字は消えない。

どれだけ原因を書いても、結果は変わらない。

風見灯のプロ初戦は、最下位だった。

でも、ノートには残った。

見えた場所。

入れた一瞬。

弾かれた原因。

次に変える場所。

灯は、最後に小さく書いた。

悔しい。

その下に、もう一行。

次は、弾かれた後まで見る。

書き終えた時、背後から声がした。

「書けた?」

灯は振り返った。

三島沙耶が立っていた。

今日のレースには乗っていない。

けれど、灯のデビュー戦を見ていたらしい。

灯は慌てて立ち上がろうとした。

「そのままでいい」

三島はそう言って、灯のノートに視線を落とした。

「六着だったね」

「はい」

灯は小さく答えた。

「悔しい?」

「……悔しいです」

「怖かった?」

「怖かったです」

「何もできなかったと思う?」

灯は、すぐには答えられなかった。

少し前なら、そう言っていたと思う。

何もできませんでした。

すみませんでした。

そうやって、自分の負けを一つの言葉で終わらせていた。

でも、今は違った。

灯はノートを見た。

「一瞬だけ、入れました」

三島の目が、わずかに動いた。

「どこに?」

「五号艇の後ろです。展示で見えて、本番では先に艇を向けました。でも、波が重なって弾かれました」

「原因は?」

「二号艇の差し波と、一号艇が流れた波と、三号艇の握った波です。そこまで重なると思えていませんでした。入る準備はしていたけど、弾かれた後の準備がありませんでした」

三島は黙って聞いていた。

灯は、もう少しだけ続けた。

「見えた道に入ることだけ考えていました。その先で艇がどうなるかまで、見ていませんでした」

言い終えたあと、灯は唇を結んだ。

六着。

その事実は変わらない。

だが、三島は静かに頷いた。

「なら、今日の六着は持って帰れる」

灯は顔を上げた。

「持って帰れる……?」

「ただの六着じゃない。どこで見えて、どこで入って、どこで弾かれたか分かってる六着」

三島は淡々と言った。

「それは次につながる」

灯の胸の奥が、少しだけ熱くなった。

褒められたわけではない。

良かったと言われたわけでもない。

六着は六着。

負けは負け。

それでも、全部が無意味ではなかった。

三島は続けた。

「でも、勘違いしないで」

灯は背筋を伸ばした。

「はい」

「プロは結果が残る。六着は六着。そこから目を逸らしたらだめ」

「はい」

「ただ、原因まで見られるなら、次は変えられる」

灯はノートを握った。

「はい」

三島は控室の出口へ向かう。

そして、去り際に言った。

「次のレースまでに、今日の一マークを三回書き直して」

「三回、ですか?」

「一回目は事実。二回目は原因。三回目は次の選択」

三島は振り返らなかった。

「それが準備」

灯は、その背中に頭を下げた。

「はい」

控室に、一人残る。

モニターでは、次のレースの展示が始まっていた。

また六艇がピットを離れていく。

プロの水面は、もう次の戦いへ進んでいた。

灯はノートを開き直した。

一回目。

事実。

一周一マーク、五号艇の後ろを狙う。

波に弾かれる。

二回目。

原因。

波が重なる場所を予測しきれていない。

ハンドルを握りすぎた。

落とす判断が遅い。

三回目。

次の選択。

入る前に、弾かれた後の逃げ道も見る。

出口で艇を止めない。

握るか、落とすかを先に決める。

灯は書き続けた。

悔しさは消えない。

怖さも消えない。

六着という結果も消えない。

でも、手は止まらなかった。

今日、プロの水面は灯を待ってくれなかった。

見えてから動く灯を、簡単に置いていった。

けれど、一瞬だけ。

本当に一瞬だけ。

灯は、自分の見た道へ艇を向けた。

届かなかった。

弾かれた。

負けた。

それでも、その一瞬は確かにあった。

灯はノートの最後に、もう一行だけ書いた。

見えた道を、消える前に掴む。

ペンを置く。

窓の外では、次のレースのエンジン音が響いていた。

風見灯のプロ初戦は、六着で終わった。

何も飾れない敗戦だった。

けれど、そのノートには一つだけ残った。

負けた理由。

そして、次に変える場所。

それが、灯がプロの水面から持ち帰った、最初のものだった。

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