第3話 A2レーサー三島沙耶
デビュー戦の結果は、六着だった。
控室のモニターには、すでに次のレースの展示映像が流れている。
六艇がピットを離れ、一マークへ向かっていく。
実況の声。
エンジン音。
係員の足音。
選手たちの短い会話。
レース場は、灯の初戦が終わったことなど気にしていなかった。
当たり前だった。
風見灯にとって、プロ初戦の六着は大きな出来事だった。
けれど、開催は続く。
水面は止まらない。
次の選手が走る。
次の舟券が売られる。
次の結果が出る。
プロの世界は、誰か一人の悔しさに合わせて立ち止まってはくれない。
灯は控室の隅で、ノートを開いていた。
三島沙耶に言われた通り、さっきの一マークを三回書き直す。
一回目は、事実。
一周一マーク。
五号艇の後ろを狙う。
展示より早く艇を向けた。
一瞬入った。
波に弾かれた。
二回目は、原因。
二号艇の差し波。
一号艇が少し流れた波。
三号艇の握った波。
三つが重なった。
そこまで予測できていなかった。
ハンドルを握りすぎた。
落とす判断が遅かった。
三回目は、次の選択。
入る前に、弾かれた後の逃げ道を見る。
出口で艇を止めない。
握るか、落とすかを先に決める。
灯はそこまで書いて、ペンを止めた。
紙の上に並んだ文字を見る。
何度書いても、六着は六着だった。
結果は変わらない。
自分の名前の横には、最下位の数字が残る。
何も飾れないプロ初戦。
そう思うと、胸の奥が重くなった。
悔しい。
怖かった。
恥ずかしい。
そういう言葉が、何度も喉まで上がってくる。
けれど、灯はそれをノートの真ん中には書かなかった。
最後に小さく書くだけにした。
悔しい。
その一言だけで、十分だった。
今、先に書かなければならないのは感情ではない。
原因だった。
「まだ書いてるの?」
声をかけられて、灯は顔を上げた。
昼間に装備確認の時、声をかけてくれた年上の女子レーサーだった。
「はい」
灯が答えると、その選手は少しだけ笑った。
「真面目だね」
「いえ……」
「六着だったら、落ち込んで終わる新人も多いよ」
灯は、ノートに目を落とした。
「落ち込んでます」
正直に言った。
すると、その選手は少し意外そうにしてから、軽く頷いた。
「なら、書けてるだけ偉いよ」
その言葉は優しかった。
でも、灯にはそのまま受け取れなかった。
偉い。
真面目。
頑張っている。
養成所でも、時々そう言われた。
けれど、それだけでは勝てなかった。
真面目に書いても、六着。
怖くても走っても、六着。
道が見えても、弾かれれば六着。
プロは、結果が残る。
三島の言葉が、胸の奥で繰り返される。
灯は小さく頭を下げた。
「ありがとうございます」
年上の選手はそれ以上言わず、自分の準備へ戻っていった。
灯はもう一度、ノートを見た。
一瞬入れた。
その一行だけが、何度見ても引っかかった。
入れた。
でも、残せなかった。
見えた。
でも、掴めなかった。
この差を埋めなければ、何度でも同じ負け方をする。
その時、控室のモニターに次のレースの出走表が映った。
灯は何気なく目を向けた。
そこに、三島沙耶の名前があった。
四号艇。
三島沙耶。
級別、A2。
灯の手が止まった。
A2レーサー。
プロの中でも、はっきりと上位にいる選手。
A1のように常に看板を背負う位置ではない。
けれど、勝率を積み、着をまとめ、準優や優出を現実の目標にできる級。
B2の灯から見れば、十分すぎるほど遠い場所だった。
三島沙耶は、そこにいる。
派手な名前ではない。
実況で大きく煽られる選手でもない。
けれど、支部の人たちは彼女を見る時、どこか信頼を置いているようだった。
無理をしない。
崩れない。
取れる着を落とさない。
それが三島沙耶という選手なのだと、灯は何度か耳にしていた。
その人が、どんなふうに走るのか。
灯はノートを閉じた。
そして、モニターの前に移動した。
展示航走が始まる。
四号艇の三島は、カドに構えた。
派手な動きはない。
強引に内へ入ろうともしない。
外へ大きく艇を振るわけでもない。
ただ、自分の起こしの位置を静かに決めている。
灯には、それが不思議に見えた。
強く見せようとしていない。
相手を威圧しようとしているわけでもない。
けれど、迷いがない。
一号艇が内を固める。
二号艇は差しに構える形。
三号艇は少し外を向いている。
三島の四号艇は、それを見ながら、ほんの少しだけ艇の向きを変えた。
灯は目を細めた。
今、何を見たのだろう。
三号艇か。
一号艇か。
水面か。
それとも、もっと前から決めていたのか。
展示の一マーク。
一号艇が先に回る。
二号艇が差す。
三号艇が握る。
三島は、その外から握り込むようには見えなかった。
むしろ少し落として、内の波を避ける。
そして、出口で艇を残した。
派手ではない。
前に出たわけでもない。
でも、止まっていない。
灯は、モニターに顔を近づけるようにして見た。
三島の艇は、無理に道をこじ開けていない。
空く場所に向かっているのでもない。
波が重なる場所を、最初から避けている。
灯の胸に、さっきの自分の一マークが浮かんだ。
自分は、見えた道に入ろうとした。
三島は、波が重なる場所を通らないように艇を置いている。
同じ一マークを見ているのに、順番が違う。
灯は思った。
三島沙耶は、見えてから動いていない。
見える前に、もう選んでいる。
展示が終わり、本番の時間が来た。
灯はモニターの前から離れられなかった。
スタート展示でもない。
展示タイムでもない。
三島が本番でどう動くのか、それが見たかった。
ピット離れ。
進入は枠なり。
一号艇、二号艇、三号艇。
四号艇の三島はカド。
五号艇、六号艇。
起こし。
スリット。
一号艇が少し先行する。
三号艇も悪くない。
三島は、目立つスタートではなかった。
だが、遅れてもいない。
一マークへ向かう。
三号艇が握った。
灯は息を止めた。
さっきの自分のレースと似ている。
センターが握る。
内の艇が回る。
波が外へ広がる。
外の艇は、その波を受ける。
三島はどうするのか。
四号艇の三島は、握り合わなかった。
三号艇の外に張るのではなく、少しだけ艇を落とした。
一号艇が先に回る。
二号艇が差す。
三号艇が外から握る。
その三艇の動きで、水面に波の筋ができる。
三島は、その波が重なる手前に艇を置いた。
早い。
灯には、そう見えた。
道が空いたから入ったのではない。
波が重ならない場所を、先に選んでいた。
三号艇が少し流れる。
その内側に、わずかな空白ができる。
三島の艇は、そこへ無理なく入った。
強引ではない。
速く見えない。
でも、出口で止まらない。
バックストレッチに出た時、三島は三番手にいた。
一号艇が先頭。
二号艇が二番手。
三島が三番手。
三号艇は外を回った分だけ、少し遅れた。
灯は、思わずノートを開いた。
三島さん。
四コース。
三号艇が握る。
握り合わない。
波が重なる前に落とす。
出口で止めない。
三番手。
灯は書きながら、目はモニターから離さなかった。
二マーク。
二号艇が少し流れる。
三島は無理に内へ突っ込まない。
二号艇の出口を見て、差し場が空く一拍前に艇を向ける。
今度も早い。
入る場所を探しているようには見えない。
そこに入ると決めてから、艇を置いている。
三島は二周目で二番手に上がった。
そのまま先頭を追う。
だが、無理に届かせにいく動きはなかった。
一号艇の懐に深く入ろうとはしない。
外を握って勝負もしない。
二着を確実に守る。
そういう走りだった。
派手な逆転ではない。
観客が大きくどよめくようなレースでもない。
それでも、灯は目が離せなかった。
三島沙耶のレースには、怖さが少なかった。
正確に言えば、怖さを先に処理しているように見えた。
どこが危ないか。
どの波を受けると止まるか。
誰が流れるか。
どこで無理をしないか。
それらを水面に出る前から、いくつも準備している。
だから、本番で迷わない。
結果は二着だった。
三島は一着ではなかった。
勝ったのは一号艇。
実況も、最後は逃げ切った一号艇を中心に伝えていた。
けれど灯の目には、三島の二着が強く残った。
無理に勝ちにいかない。
けれど、負け方を選んでいる。
取れる着を、確実に取る。
それは、B2の灯にはまだない強さだった。
灯はノートにもう一行書いた。
三島さんは、勝てない時でも負け方が崩れない。
その一文を書いた瞬間、灯の中で何かが決まった。
この人に、教わりたい。
ただアドバイスをもらうだけでは足りない。
一度だけ教えてもらって終わりでは、きっと変わらない。
見えた道に入れるようになりたい。
見えたあとに弾かれないようになりたい。
水面を、感情ではなく原因で見られるようになりたい。
灯は、ノートを閉じた。
レース後、三島は控室へ戻ってきた。
表情は変わらなかった。
二着だったことに満足しているようにも、悔しがっているようにも見えない。
ただ、自分のレースを終えて、次の準備へ戻ってきた人の顔だった。
灯は立ち上がった。
声をかけようとして、喉が詰まった。
三島は自分の艇の状態を確認し、係員と短く話し、ノートに何かを書いている。
その一つ一つに無駄がない。
灯は、そこへ入っていくのをためらった。
自分は今日、六着だった。
初出走の新人。
まだ何もできていない。
そんな自分が、弟子にしてくださいと言っていいのか。
教えてください、ならまだ言える。
けれど、弟子にしてください、は違う。
相手の時間を奪う。
責任を求める。
自分も逃げられなくなる。
灯は拳を握った。
怖い。
でも、ここで怖がって止まったら、また同じだった。
見えた道に、入れないまま終わる。
灯は一歩、前に出た。
「三島さん」
三島が顔を上げた。
「どうしたの?」
灯は頭を下げた。
深く。
自分でも、少し勢いがつきすぎたと思うくらい深く。
「私を、弟子にしてください」
控室の空気が、ほんの少しだけ止まった気がした。
三島はすぐには答えなかった。
灯は頭を下げたまま、動かなかった。
心臓の音が大きい。
言ってしまった。
もう、戻せない。
少しして、三島の声がした。
「顔を上げて」
灯はゆっくり顔を上げた。
三島は、怒ってはいなかった。
笑ってもいなかった。
ただ、灯をまっすぐ見ていた。
「弟子にしてください、で強くなれるなら、全員A1になってる」
灯は言葉に詰まった。
突き放された。
そう感じた。
けれど、三島の声は冷たくなかった。
ただ、事実を置いた声だった。
「はい」
灯は小さく答えた。
三島は続けた。
「私は、答えを教えるつもりはない」
「答え……」
「このレースはこう走ればいいとか、この展開ならここに入ればいいとか、そういう答えだけ覚えても意味がない」
三島はノートを閉じた。
「レースの答えは毎回変わる。相手も違う。モーターも違う。風も違う。水面も違う。だから、答えだけ欲しがる子はすぐ止まる」
灯は黙って聞いた。
「私が教えられるのは、答えじゃない」
三島は言った。
「答えの探し方だけ」
灯の胸が、小さく震えた。
答えの探し方。
それは、今の灯が一番欲しいものだった。
「それでもいい?」
三島が尋ねた。
灯はすぐに頷きかけて、止まった。
軽く頷いてはいけない気がした。
今ここで頷けば、自分の負けを全部見ることになる。
見たくない失敗も、書かなければならない。
怖かった場所も、遅れた理由も、逃げた判断も。
全部、ノートに残すことになる。
それでも。
灯は、もう一度三島のレースを思い出した。
波が重なる前に艇を置く。
無理に勝ちにいかず、取れる着を残す。
準備で迷いを減らす。
あんなふうに、水面を見られるようになりたい。
灯は三島を見た。
「それがいいです」
三島の目が、少しだけ細くなった。
「どうして?」
灯は少し迷った。
勝ちたいから。
強くなりたいから。
玲央さんや鳴宮くんに置いていかれたくないから。
どれも本当だった。
でも、それだけでは足りない気がした。
灯は、自分の言葉を探した。
「私は……見えることがあります」
三島は黙って聞いている。
「でも、見えるだけで終わります。今日も、五号艇の後ろが見えました。でも、入った後に弾かれました」
灯はノートを握った。
「養成所では、見えたら少しだけ変われた気がしました。でも、プロの水面では、見えてから動くと遅いです」
その言葉を口にした瞬間、悔しさがまた胸に上がってきた。
でも、灯は止まらなかった。
「見えた道を、ちゃんと自分の艇で掴めるようになりたいです」
三島は、静かに灯を見ていた。
灯は続けた。
「怖いままでも、次は変えたいです」
控室の音が、遠くなった気がした。
三島はしばらく何も言わなかった。
やがて、少しだけ息を吐いた。
「分かった」
灯は目を見開いた。
「じゃあ……」
「弟子とはまだ呼ばない」
三島はすぐに言った。
灯は背筋を伸ばした。
「はい」
「でも、見てもいい」
「見ても……?」
「私の準備。私のノートの取り方。レースの見方。それを見て、自分で使えるものを拾いなさい」
灯の胸の奥に、静かに熱が広がった。
正式な弟子ではない。
認められたわけでもない。
でも、拒まれなかった。
それだけで十分だった。
「ありがとうございます」
灯は深く頭を下げた。
三島は、すぐに条件を出した。
「一つ目。レース後は必ずノートを書くこと」
「はい」
「感想は最後。最初に書くのは事実、原因、次の選択」
「はい」
「二つ目。負けを人のせいにしないこと」
灯は顔を上げた。
三島は淡々と言った。
「モーターが悪い。番組が悪い。相手が強い。水面が悪い。それは全部、要素ではある」
「はい」
「でも、最初に見るのは自分の選択。どこで迷ったか。どこで遅れたか。どこで余計な力が入ったか」
灯は頷いた。
「三つ目。次のレースで変えることは一つだけ」
「一つだけ、ですか?」
「全部直そうとすると、全部遅れる」
三島の言葉は鋭かった。
「新人は特にそう。スタートも、旋回も、判断も、展示も、全部一度に変えようとする。そうすると、結局どこにも集中できない」
灯は、自分のノートを見た。
スタート。
一マーク。
波。
出口。
弾かれた後。
全部を直したいと思っていた。
だが、確かに全部は無理だった。
「今日の次に変えるなら、一つ」
三島は言った。
「一マークで、入る場所だけじゃなくて、弾かれた後の逃げ道を見る。それだけでいい」
灯は、その言葉をノートに書いた。
弾かれた後の逃げ道を見る。
「四つ目」
灯は顔を上げた。
まだあるのかと思った。
三島は少しだけ口元を緩めた。
「分からないことを、分からないまま格好つけないこと」
灯は一瞬、目を瞬かせた。
「……はい」
「分からないと言える新人の方が伸びる。分かったふりをする子は、同じところで止まる」
その言葉は、灯には痛かった。
養成所の頃、何度も分かったふりをしそうになった。
できていないのに、できたような顔をしたくなった。
置いていかれたくなくて、怖くないふりをした。
でも、それでは変われなかった。
灯は深く頷いた。
「分かりました」
「今のも、本当に分かった?」
三島に問われて、灯は少し詰まった。
そして、正直に言った。
「半分くらいです」
三島は初めて、少しだけ笑った。
「それでいい」
灯は、少しだけ息を吐いた。
三島は自分のノートを持ち、灯に言った。
「じゃあ、最初の課題」
「はい」
「今日のデビュー戦の一マークを、もう一回書いて」
灯は頷いた。
「はい。事実、原因、次の選択で……」
「違う」
灯は手を止めた。
三島は言った。
「三号艇の視点で書いて」
「三号艇の……視点?」
「そう」
灯は、言葉の意味を考えた。
自分のレースを、三号艇の視点で書く。
なぜ三号艇が握ったのか。
どの水面を見ていたのか。
どこを狙ったのか。
自分の六号艇は、その時どこにいたのか。
灯は、今まで自分の艇からしかレースを見ていなかったことに気づいた。
自分がどこで怖かったか。
自分がどこで見えたか。
自分がどこで弾かれたか。
そればかりを書いていた。
でも、水面にいるのは自分だけではない。
一号艇には一号艇の理由がある。
二号艇には二号艇の判断がある。
三号艇には三号艇の狙いがある。
五号艇にも、灯とは違う見え方がある。
自分以外の艇が何を見ているのか。
そこまで見なければ、プロの水面は読めない。
三島は言った。
「水面を見るなら、自分の艇だけ見てちゃ足りない」
灯は、ノートの新しいページを開いた。
上に、ゆっくりと書く。
三号艇の視点。
その下に、ペンを置く。
なぜ握ったのか。
三号艇はA1。
センターから攻められる。
一号艇は先に回る。
二号艇は差す。
四号艇は外についてくる。
五号艇は展開を見る。
六号艇の自分は、外。
三号艇から見れば、六号艇の新人など、ほとんど意識に入っていなかったかもしれない。
灯は、そのことに少しだけ胸が痛んだ。
でも、それも事実だった。
自分はまだ、相手に意識される選手ではない。
三号艇が見ていたのは、一号艇の流れ方。
二号艇の差し。
四号艇の位置。
そこに勝つための角度。
灯は書いた。
三号艇は、外を握ることで一号艇を揺さぶる。
二号艇の差しを外から抑えたい。
四号艇にまくられないよう、先に攻める。
五号艇の差し場は残る。
六号艇は外にいる。
灯は書きながら、初めてあの一マークを別の角度から見た。
自分にとっては、五号艇の後ろにできた細い道だった。
でも、三号艇にとっては、自分が攻めた結果としてできた波の後ろだった。
見え方が違う。
水面が、少しだけ広がった気がした。
三島は、灯のノートを覗き込むことはしなかった。
ただ、自分の準備を進めながら言った。
「正解を書こうとしなくていい」
灯は顔を上げた。
「え?」
「最初から相手の考えなんて全部分からない。大事なのは、相手にも理由があると考えること」
三島は淡々と言った。
「自分が弾かれた波は、誰かが選んだ結果でできている」
灯は、ペンを握る手に力を込めた。
自分が弾かれた波。
それは、ただの邪魔な波ではない。
一号艇が先に回った結果。
二号艇が差した結果。
三号艇が握った結果。
それぞれの選択が重なって、自分を弾いた。
なら、その選択を見なければならない。
灯はもう一度、ページの上を見る。
三号艇の視点。
その文字が、さっきまでより重く見えた。
「三島さん」
「なに?」
「私、今まで自分がどう走るかばかり考えてました」
「普通はそう」
三島は短く答えた。
「でも、それだけだと遅い」
灯は頷いた。
「はい」
「プロの水面は、六人で作る」
その言葉に、灯は顔を上げた。
「六人で……」
「一人で見て、一人で決めて、一人で負けてるうちは、半分しか見えてない」
三島は控室のモニターを見た。
次のレースの展示が映っている。
六艇が並び、一マークへ向かっていく。
「誰が何をしたから、その水面になったのか。そこまで見る」
灯はモニターを見た。
さっきまでなら、自分ならどこに入るかを探していた。
でも今は違った。
一号艇は何を守ろうとしているのか。
二号艇は何を狙っているのか。
三号艇はどこで仕掛けるのか。
四号艇はなぜ外を選ぶのか。
五号艇はどこで待つのか。
六号艇は、何を見ているのか。
同じ映像なのに、見る場所が増えた。
情報が増えた。
水面が、急に広くなった。
広すぎて、怖かった。
でも、その怖さは、少しだけ違っていた。
知らないから怖い。
なら、知ればいい。
見えないから怖い。
なら、見る場所を増やせばいい。
灯はノートに書いた。
プロの水面は、六人で作る。
その下に、もう一行。
自分の道は、他の五人の選択の後にできる。
書いた瞬間、胸の奥に静かな熱が灯った。
デビュー戦の六着は、まだ痛い。
思い出すだけで、悔しさがこみ上げる。
けれど、その負けはもう、ただの最下位ではなくなっていた。
見る場所が増えた。
書くべきことが増えた。
次に変えることが、一つ見えた。
灯は、三島に向き直った。
「三島さん」
「なに?」
「私、もう一回、今日のレースを書きます」
「うん」
「自分の視点と、三号艇の視点と、五号艇の視点でも」
三島は少しだけ眉を上げた。
「増やしすぎると雑になるよ」
灯は一瞬固まった。
三島は続けた。
「今日は三号艇だけでいい」
「……はい」
灯は素直に頷いた。
全部やろうとしていた。
また、全部直そうとしていた。
三島が言ったことを、もう忘れかけていた。
次に変えることは一つだけ。
灯は、ノートの余白に小さく書いた。
欲張らない。
三島はその文字を見たのか見ていないのか、静かに言った。
「風見さん」
「はい」
「弟子にしてほしいなら、まずは一つのことを続けて」
灯は背筋を伸ばした。
「はい」
「今日の課題は、三号艇の視点で一マークを書くこと。それだけ」
「はい」
「明日、見せて」
灯は目を見開いた。
「見てくれるんですか?」
三島は少しだけ首を傾げた。
「見てもいいって言ったでしょ」
灯の胸が、また少し熱くなった。
「ありがとうございます」
「まだ感謝するところじゃない」
三島は淡々と言った。
「明日、赤を入れるから」
灯は一瞬、固まった。
赤。
つまり、直される。
かなり直される。
そういう意味だった。
けれど、不思議と嫌ではなかった。
むしろ、少しだけ嬉しかった。
間違っている場所が分かれば、次に変えられる。
「お願いします」
灯は深く頭を下げた。
三島はそれ以上何も言わず、次の準備へ戻った。
灯は控室の隅に座り直し、ノートを開いた。
三号艇の視点。
なぜ握ったのか。
何を見ていたのか。
自分は、その水面の中でどこにいたのか。
ペンを走らせる。
うまく書けない。
分からないことだらけだった。
三号艇が本当に何を考えていたのかは分からない。
どこまで見えていたのかも分からない。
でも、考える。
自分以外の艇にも理由があると考える。
それだけで、さっきの六着の見え方が変わっていく。
灯は初めて、自分の負けを、自分以外の艇から見ようとしていた。
プロの水面は、まだ広すぎる。
怖い。
遠い。
追いつけない。
それでも、見える場所は一つ増えた。
灯はノートの最後に、ゆっくりと書いた。
自分だけの水面ではない。
ペンを置く。
窓の外では、次のレースのエンジン音が響いていた。
三島沙耶は、まだ灯を弟子とは呼ばなかった。
それでも、灯はその日、初めて教わった。
勝ち方ではない。
答えでもない。
A2レーサー三島沙耶が持っている、プロとしての水面の見方を。
そして、負けを次に変えるための、最初の準備を。




