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第4話 選べなかった水面

翌朝。

灯は、ノートを持って三島沙耶の前に立っていた。

昨日のデビュー戦。

六号艇。

六コース。

六着。

その一マークを、三号艇の視点で書き直したページだった。

三島は、灯のノートを黙って読んでいた。

控室の隅。

他の選手たちは、それぞれの準備を進めている。

モーターの確認をする音。

係員の声。

新聞をめくる音。

その中で、灯だけが少し息を詰めていた。

ノートの上には、灯が夜遅くまで考えた文字が並んでいる。

三号艇は、一号艇を揺さぶるために握った。

二号艇の差しを外から抑えたかった。

四号艇に攻められないよう、先に握った。

五号艇の差し場は残った。

六号艇の自分は外にいた。

書いている時は、それなりに整理できた気がしていた。

けれど、三島の目の前に置くと、その文字は急に頼りなく見えた。

三島は赤いペンを取り出した。

そして、静かに線を引いた。

三号艇は、一号艇を揺さぶるために握った。

その横に、短く書かれる。

可能性。

二号艇の差しを外から抑えたかった。

そこにも赤が入る。

決めつけが早い。

四号艇に攻められないよう、先に握った。

その下には、こう書かれた。

展示気配、スタート勘、今節の着順も見る。

灯は、何も言えなかった。

三島の赤は、思ったより多かった。

自分では考えたつもりだった。

自分の艇だけではなく、三号艇の立場になって見たつもりだった。

でも、赤が入るたびに、自分の見方がまだ浅いことが分かっていく。

三島は、ノートを閉じずに言った。

「悪くはない」

灯は顔を上げた。

「でも、まだ自分の想像が多い」

「想像……」

「相手の視点で見るのと、勝手に相手の気持ちを決めるのは違う」

灯は、赤の入ったページを見た。

三号艇はこうしたかったはず。

そう書いたつもりはなかった。

でも、読み返すとそうなっていた。

相手の理由を考えたつもりで、相手の気持ちを決めつけていた。

「相手が何を考えていたかは、本人にしか分からない」

三島は言った。

「でも、何を見てそう動いた可能性があるかは、材料から考えられる」

「材料……」

「展示。足色。スタート。級別。今節の流れ。前日のレース。風。進入。相手関係」

三島は赤ペンで、ページの余白に小さく書き足した。

材料を増やしてから考える。

「見る力がある子ほど、見えたものをすぐ答えにしたがる」

灯は、少しだけ胸が痛くなった。

見えた。

だから、こうだと思った。

養成所の頃から、灯は何度もそうしてきた。

けれど、プロの水面では、それだけでは足りない。

見えたものを答えにする前に、なぜそう見えたのかを確かめる。

誰の選択で、その水面になったのかを考える。

三島はノートを灯に返した。

「今日のレースは?」

「六号艇です」

灯は答えた。

「また外だね」

「はい」

「じゃあ、昨日より見るものは増える」

灯は頷いた。

「はい」

「でも、増えたものを全部持ったまま走ろうとしないこと」

灯は、すぐには意味を掴めなかった。

三島は続けた。

「昨日は、自分の道だけ見て弾かれた。今日は、他の艇も見ようとすると思う」

「はい」

「それは悪くない。でも、本番で全部見ようとしたら遅れる」

灯は、ノートを握った。

昨日の夜、灯は何度も考えた。

一号艇は何を見るのか。

二号艇は何を狙うのか。

三号艇はなぜ握ったのか。

四号艇はどこで攻めるのか。

五号艇はどう展開を拾うのか。

そして、自分はどこにいるのか。

見なければならないものが、一気に増えた気がした。

でも、確かにその全部を一マークで見るのは難しい。

「今日、何を変えるか決めてる?」

三島に聞かれ、灯は少し考えた。

「他の艇の動きを見ます」

「広い」

すぐに返された。

灯は言葉に詰まった。

三島は淡々と言う。

「それだと、何も決まってないのと同じ」

灯はノートを開いた。

何を変えるか。

昨日の課題は、三号艇の視点で見ることだった。

今日のレースで変えることは。

灯は考えた。

「一マークで、誰が水面を作るかを見ます」

「まだ広い」

三島は言った。

「風見さん。レースは六人で走る。でも、新人が最初から六人全部を読もうとすると、何も決められない」

灯は、小さく頷いた。

「はい」

「今日は、まず昨日の反省を持って走る。入る場所だけじゃなくて、弾かれた後を見る」

「はい」

「それ以外は、無理に増やさない」

灯は、ノートに書いた。

今日の課題。

弾かれた後の逃げ道を見る。

それだけ。

書いたはずなのに、胸の奥には不安が残った。

本当にそれだけでいいのか。

一号艇も見なければ。

二号艇も。

三号艇も。

四号艇も。

五号艇も。

全部見ないと、また遅れるのではないか。

そんな思いが、頭の中を回った。

三島は、その迷いを見透かしたように言った。

「全部見たい気持ちは分かる」

灯は顔を上げた。

「でも、全部使おうとしたら、選ぶ前に一マークが終わる」

その言葉は、少し怖かった。

灯は、昨日の一マークを思い出した。

見えた道。

一瞬入った場所。

波に弾かれた感触。

あれより、今日は良くしたい。

同じ六着でも、何かを変えたい。

灯はノートを閉じた。

「分かりました」

三島は少しだけ首を傾げた。

「今のも、本当に分かった?」

灯は、一瞬詰まった。

そして、正直に答えた。

「分かったつもりです」

三島は、小さく息を吐いた。

「つもり、なら今日はそれでいい」

灯は頭を下げた。

「はい」

その日の灯のレースは、午後だった。

出走表には、また自分の名前があった。

六号艇。

風見灯。

級別、B2。

勝率の欄は、まだ薄い。

昨日の六着が、初めての結果としてそこに積まれている。

灯は出走表を見つめた。

一号艇。

逃げ型。

スタートは安定している。

二号艇。

差し構え。

ただし、壁としては少し弱い。

三号艇。

センターから握ることがある。

四号艇。

カドなら攻めるタイプ。

五号艇。

展開を拾うのが上手い。

六号艇。

自分。

昨日より、見える情報は増えていた。

一号艇が逃げるなら、二号艇は差す。

二号艇が遅れたら、三号艇が握る。

四号艇が攻めれば、五号艇が差す。

五号艇が内へ切り込めば、自分の前に波ができる。

六コースから大外を回しても届かない。

では、どこを見る。

どこに入る。

灯はペンを持ったまま、手を止めた。

前より多く見えている。

けれど、前より決まらない。

昨日は、五号艇の後ろと決めていた。

失敗したけれど、狙いはあった。

今日は違う。

考えれば考えるほど、選択肢が増える。

三号艇が攻める形。

四号艇が攻める形。

二号艇が残る形。

一号艇が流れる形。

五号艇が内へ入る形。

自分が外へ握る形。

内へ落とす形。

いくつもの水面が、頭の中で重なった。

灯は、ノートの端に書いた。

見るものが多い。

その下に、もう一行を書こうとして、止まった。

決める場所がない。

そう書きかけて、ペン先が止まった。

認めたくなかった。

でも、それが今の自分の状態だった。

展示航走の時間が来た。

灯は六号艇に乗り込んだ。

ピットを離れる。

昨日と同じように、六艇が水面へ出る。

一号艇が内へ向かう。

二号艇が続く。

三号艇。

四号艇。

五号艇。

そして灯。

進入は枠なり。

六コース。

灯は外から全体を見ようとした。

一号艇の起こし。

二号艇の艇の向き。

三号艇の握る気配。

四号艇のカドの角度。

五号艇の動き。

自分の艇の伸び。

水面の波。

風。

全部を見ようとした。

一マークが近づく。

一号艇が先に回る。

二号艇が差す。

三号艇が外を握る。

四号艇がその外からついていく。

五号艇が内へ切り込む。

昨日と似ている。

けれど、まったく同じではない。

二号艇の差しは昨日より深い。

三号艇の握りは少し外。

四号艇の位置が近い。

五号艇は早く内へ向いている。

どこだ。

どこへ行く。

灯は一瞬、迷った。

五号艇の後ろか。

三号艇と四号艇の外か。

二号艇の波の後ろか。

落として出口を残すのか。

その一瞬で、水面は変わった。

五号艇の後ろにあったはずの場所は、もう波で埋まっていた。

三号艇の外は遠い。

四号艇の波も残る。

灯は外へ流れながら、なんとか回った。

展示が終わった時、灯は昨日より強く喉の渇きを感じていた。

昨日は、入れなかった。

今日は、入る場所を決められなかった。

控室に戻る。

展示タイムを見る。

灯の数字は、やはり目立たなかった。

悪すぎるわけではない。

でも、勝負になるほど良いわけでもない。

灯はノートを開いた。

展示。

六コース。

一号艇、先マイ。

二号艇、深く差す。

三号艇、外を握る。

四号艇、外から追走。

五号艇、内へ早く切り込む。

自分は――。

そこで、ペンが止まった。

自分は、何をしたのか。

外を回った。

それは結果だった。

でも、選んだのか。

選んで外を回ったのか。

違う。

選べずに外へ流れた。

灯は、奥歯を噛んだ。

昨日より、見ていた。

なのに、昨日より決められなかった。

やがて本番の時間が来た。

「出場選手、ピットへお願いします」

係員の声が響く。

灯はノートを閉じた。

指先が冷たかった。

怖い。

昨日と同じ怖さ。

いや、少し違う。

昨日は、プロの水面そのものが怖かった。

今日は、自分が決められないことが怖かった。

ピットへ向かう途中、実況の声が聞こえる。

また自分の名前が呼ばれた。

六号艇、風見灯。

デビュー二走目。

灯は艇に乗り込んだ。

エンジンの振動が身体に伝わる。

水面を見る。

昨日より見える。

見えているはずだった。

それなのに、どこへ行くかがまだ決まっていない。

ピット離れの合図。

六艇が動き出す。

進入は枠なり。

六コース。

外から一列に並ぶ。

起こし。

エンジン音が変わる。

艇が前へ出る。

灯はスリットを見た。

大きく遅れない。

そこまではできた。

内の艇が鋭く出る。

一号艇は先に行く。

二号艇もついていく。

三号艇が少し伸びる。

四号艇も悪くない。

五号艇が灯の前で、内を見ている。

一マークが近づく。

灯は、見ようとした。

一号艇。

先マイ。

二号艇。

差す。

三号艇。

握る。

四号艇。

攻める。

五号艇。

内へ切る。

全部が見えた。

全部が動いた。

そして灯は、選べなかった。

三号艇が握る。

四号艇も引かない。

五号艇が内へ入る。

二号艇の差し波が残る。

一号艇が少し流れる。

どこへ。

どこへ行く。

五号艇の後ろか。

いや、波が重なる。

外を回すか。

遠い。

落とすか。

遅い。

その一瞬。

ほんの一瞬の迷いで、水面は閉じた。

前の五艇が、それぞれの進路を作る。

その後ろに波が残る。

灯の艇は、行き場をなくした。

外へ。

ただ外へ流れた。

ハンドルを切る。

艇は回る。

でも、進まない。

昨日のように、一瞬入った感触すらなかった。

道を掴む前に、道を選べなかった。

バックストレッチに出た時、前には五艇がいた。

また、六番手。

灯は唇を噛んだ。

まだ終わっていない。

そう思おうとした。

でも、胸の奥では分かっていた。

一マークで、何も選べなかった。

二マーク。

五号艇が少し流れる。

内に入れるほどではない。

外を回しても届かない。

灯は昨日の反省を思い出そうとした。

弾かれた後の逃げ道を見る。

でも、今日は弾かれる前に、何も選べていない。

二マークを回る。

出口は少し残した。

けれど、前との差は詰まらない。

二周目。

一マーク。

前の引き波が残る。

灯は少し艇を落とした。

跳ねは抑えた。

だが、それだけだった。

順位は変わらない。

三周目。

最後まで前を追った。

けれど、追っただけだった。

実況は、前の争いを伝えている。

灯の名前は、ほとんど呼ばれない。

ゴール。

結果は、六着だった。

二走続けての六着。

数字だけを見れば、昨日と同じ。

しかし、灯には分かっていた。

昨日とは違う。

昨日の六着には、一瞬だけでも入った場所があった。

今日は、それすらなかった。

レースを終え、灯は艇を戻した。

エンジンを止める。

音が消える。

身体の力が抜ける。

昨日よりも、静かに重かった。

控室に戻ると、灯はすぐにノートを開いた。

ペンを持つ。

書かなければならない。

事実。

原因。

次の選択。

三島に言われた通りに。

けれど、ペンが動かなかった。

六号艇。

六コース。

一マーク。

一号艇が先マイ。

二号艇が差す。

三号艇が握る。

四号艇が攻める。

五号艇が内へ切り込む。

私は――。

そこで止まった。

私は、何をしたのか。

外を回った。

でも、それは選んだわけではない。

選べずに流れた。

灯は、書きかけのページを見つめた。

昨日より見た。

見ようとした。

他の艇の動きも、前より分かった気がした。

それなのに、何も決められなかった。

「書けない?」

声がした。

灯は振り返った。

三島沙耶が立っていた。

昨日と同じように、静かな顔だった。

灯は、ノートを見たまま答えた。

「……はい」

「どこで止まった?」

灯は、ページを見せた。

三島はそれを覗き込む。

私は――。

そこで止まっている。

三島は、少しだけ目を細めた。

「今回の方が悪いね」

灯は顔を上げた。

胸に、その言葉が刺さった。

「前回と、同じ六着です」

思わず、そう言っていた。

言ってから、自分でも少し驚いた。

言い訳のように聞こえた。

三島は怒らなかった。

ただ、淡々と返した。

「同じ六着じゃない」

灯は黙った。

「前回は、選んで弾かれた六着」

三島はノートの前のページを指した。

五号艇の後ろ。

一瞬入った。

波に弾かれた。

「今回は、選べずに流れた六着」

三島の指が、今日の書きかけのページに移る。

私は――。

その空白。

そこに、今日の灯の負けがあった。

「六着でも、選んだ負けなら残る」

三島は言った。

「六着で、選べなかった負けは残りにくい」

灯は、唇を結んだ。

悔しかった。

昨日より、ずっと悔しかった。

同じ六着なのに。

昨日より見たはずなのに。

昨日より考えたはずなのに。

前より何もできなかった。

「見えていたのに」

灯は小さく言った。

「決められませんでした」

三島は頷いた。

「見えることと、決めることは違う」

その言葉は、灯の胸に深く落ちた。

見えることと、決めることは違う。

灯は水面を見る。

それは、自分の才能かもしれない。

けれど、見えたものを全部抱えたままでは、艇は進まない。

レース中に必要なのは、見ることだけではない。

選ぶこと。

決めること。

そして、その決めた場所へ艇を持っていくこと。

「水面を見る力はある」

三島は言った。

「でも、見たものを全部持ったまま走ろうとしてる」

灯は、何も言えなかった。

図星だった。

一号艇も見た。

二号艇も見た。

三号艇も見た。

四号艇も見た。

五号艇も見た。

自分の艇も見ようとした。

でも、その全部を抱えた結果、どこにも行けなかった。

「全部見るのは、準備では大事」

三島は続けた。

「でも、本番で全部使おうとしたら遅れる」

灯はノートを握った。

「じゃあ、何を見ればいいんですか」

声が少し震えた。

三島はすぐには答えなかった。

少し間を置いてから言った。

「次は、見る艇を二艇に絞って」

「二艇……」

「一マークで、自分の進路に一番関係する艇を二艇だけ見る」

灯は考えた。

六人で走る水面。

前話で、三島はそう言った。

プロの水面は六人で作る。

だから灯は、六人を見ようとした。

でも、三島は今、二艇に絞れと言っている。

「六人で作る水面を、いきなり六人分読もうとしない」

三島は、灯の迷いを先に言葉にした。

「最初は二艇でいい」

「二艇だけで、いいんですか」

「だけ、じゃない」

三島は言った。

「二艇をちゃんと見る」

灯は、ノートに書いた。

次は、見る艇を二艇に絞る。

「たとえば今日なら」

三島は、出走表を指した。

「四号艇が攻めるか。五号艇がどこへ入るか。六コースのあなたには、この二つが一番近かった」

灯は、今日の一マークを思い返した。

三号艇。

四号艇。

五号艇。

全部を見ようとしていた。

けれど、自分の前に直接道を作るのは、四号艇と五号艇だった。

四号艇が攻めれば、五号艇の内が空く。

五号艇が内へ切れば、自分の前に波ができる。

そこを先に決めていれば。

少なくとも、何も選べず外へ流れることはなかったかもしれない。

「準備では六人を見る」

三島は言った。

「本番では、必要な二艇を見る」

灯は、その言葉もノートに書いた。

準備では六人。

本番では二艇。

「そして、決める」

三島の声が少しだけ強くなった。

「見えたもの全部を正しく処理しようとしない。今の風見さんにはまだ無理」

灯は素直に頷いた。

「はい」

「無理なことを無理だと認めるのも準備」

その言葉は、少し痛かった。

でも、救いでもあった。

できない自分を認める。

そこからでないと、次に変えられない。

灯は、今日のページにようやく続きを書いた。

私は――。

その後に、ゆっくりと文字を足す。

選べずに外へ流れた。

書いた瞬間、胸が痛くなった。

でも、ページは埋まった。

逃げずに書けた。

三島は、その文字を見て小さく頷いた。

「それでいい」

灯は顔を上げた。

「これで、いいんですか」

「良くはない」

三島はすぐに言った。

灯は少しだけ肩を落とした。

「でも、書けないままよりはいい」

三島はノートを指した。

「名前をつければ、次に見つけられる」

「名前……」

「今日の負けは、選べなかった負け」

灯は、その言葉をもう一度書いた。

選べなかった負け。

昨日は、弾かれた負け。

今日は、選べなかった負け。

同じ六着でも、中身が違う。

その違いを知らなければ、何も変わらない。

三島は立ち上がった。

「次の課題」

灯は姿勢を正した。

「はい」

「次のレースでは、一マークで見る艇を二艇に絞る」

「はい」

「その二艇を、レース前に決めておく」

「はい」

「本番で迷ったら、その二艇に戻る」

灯は書いた。

二艇を決める。

迷ったら戻る。

「それから」

三島は少しだけ灯を見た。

「今日の六着を、昨日と同じだと思わないこと」

灯は、静かに頷いた。

「はい」

三島はそれ以上言わず、控室の奥へ戻っていった。

灯は一人、ノートを見つめた。

六着。

昨日も六着。

今日も六着。

結果だけを見れば、何も変わっていない。

勝てない新人。

その言葉が、自分の上に乗る。

悔しい。

苦しい。

置いていかれるようで怖い。

それでも、ノートの中には違いがあった。

昨日は、弾かれた負け。

今日は、選べなかった負け。

勝てない理由が、また一つ増えた。

けれど、その理由には名前がついた。

名前がつけば、次に見つけられる。

見つけられれば、変えられるかもしれない。

灯は、新しいページを開いた。

次走の課題。

一マークで見る艇を二艇に絞る。

準備では六人を見る。

本番では二艇を見る。

見えることと、決めることは違う。

最後に、もう一行を書いた。

見る場所を増やす。

でも、決める場所は絞る。

ペンを置く。

窓の外では、次のレースのエンジン音が響いていた。

水面は、今日も止まらない。

プロの世界は、灯の六着に立ち止まってはくれない。

だから灯も、立ち止まってはいられなかった。

勝てない理由は、また一つ増えた。

けれど灯は、その理由から目を逸らさなかった。

六着。

それでも、次に変える場所だけは、ノートの中に残っていた。

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